第2話 距離感バグの夫婦ごっこ
婚約発表から数日。王宮内での二人の扱いは劇的に変化していた。
最大勢力であるグランベル公爵令嬢アリシアが、第一王子レオンハルトの私室に自由に出入りすることは、「婚約者としての当然の権利」として公認されたのだ。
その結果、どうなったか。
「おー、王子の私室ってこんなに豪華なんだ! てか、マジで夫婦ごっこ楽しいわw」
分厚い絨毯の上をスキップするように歩き、高級なアンティークの調度品を物色するアリシア。その振る舞いは、淑やかな令嬢のそれではなく、完全に放課後に友達の部屋へ遊びに来た女子高生だった。
(お家騒動のフラグは折ったし、政治的にも安全だし、あとはあいつとこの異世界を攻略するだけ。なんて平和な日常なの!)
アリシアは内心でバンザイ三唱をしていた。死と隣り合わせだったループ地獄から一転、最強の相棒(親友)と共に過ごすボーナスタイムである。
一方、部屋の主であるレオンハルトは、一人頭を抱えていた。
(平和な日常……? いや、こいつの距離感バグが俺の平和を乱してるだろ……!)
*
「うわっ、このベッドふかふかじゃん! どんだけ高級品なのよこれ!」
ドサッ、と遠慮のない音を立てて、アリシアがレオンハルトの天蓋付きベッドに大の字でダイブした。
最高級の羽毛布団の上でゴロゴロと寝転がり、一切の警戒心なくこちらを見上げてくる。
「ねえねえレオン、このあと紅茶の淹れ方教えてよ。この部屋の執事のやつ、隙あらばお茶ばっかり勧めてくるから逆に怪しいのよねw 絶対毒盛る気満々じゃん」
「……いい加減にしろ。ここは俺の私室だぞ。近衛兵や侍女が急に入ってきたらどうするんだよ」
呆れ顔で注意を促すレオンハルトだったが、彼の視線はどうしても「ある一点」に吸い寄せられてしまっていた。
無防備に寝転がるせいで、大きく乱れたドレスの襟元。そこから覗く白く滑らかな肌と、ふわりとシーツの上に広がる艶やかな金糸の髪。
中身がガサツな親友だとわかっていても、外見は国宝級の美少女なのだ。
*
レオンハルトは視線を逸らすようにして、夜会の衣装から着替えるために大きな姿見の前へと移動した。
しかし、王族の衣服というものは総じて装飾過多で厄介だ。特に胸元の複雑なボタンの造りに、レオンハルトは苛立たしげに舌打ちをした。
「あー、もう! もどかしいなぁ。私が手伝ってやるよ」
いつの間にか背後に忍び寄っていたアリシアが、レオンハルトの手をパシッと叩いて退け、ひょいと正面に回り込むと、そのまま胸元のボタンに手を伸ばしてきた。
「おい、バカ、自分でやるから——」
「じっとしてて。これくらいのボタン、うちらJK時代の制服で慣れてるから余裕だって」
誰かに聞かれないよう、少しだけ声を潜めたアリシアの細い指先が、レオンハルトの首筋や胸元に触れる。
その瞬間、レオンハルトの身体がビクッと強張った。
至近距離から漂ってくる、薔薇のような甘い香り。鏡越しに映る、自分の着替えを無頓着に覗き込む無垢な瞳と、ふっくらとした桜色の唇。
レオンハルトの脳内で、「理性」と「本能」がかつてない規模で激突し、火花を散らしていた。
(落ち着け、俺! 中身は腐れ縁のアイツだぞ! 女子高生時代、一緒にファミレスでポテト食ってたアイツだ!)
必死に前世の記憶を引っ張り出して自分を落ち着かせようとするが、今この身体を支配しているのは「十数年かけて男として育ってきた第一王子」の肉体だ。
男性ホルモンが警鐘を鳴らす。
触れ合う華奢な肩。耳元をくすぐる、温かく規則的な吐息。
(駄目だ。身体が、こいつを完全に「女」として認識し始めてやがる……っ!)
*
そんなレオンハルトの致命的な葛藤などつゆ知らず、アリシアは手元を覗き込むようにさらに顔を近づけてきた。
「……あ、ここのボタン、ちょっと硬いね」
無防備に耳元で囁かれたその甘い声と、首筋に直接かかる熱い吐息が決定打となった。
レオンハルトの中で、限界まで張り詰めていた理性の糸が、ぷつりと音を立てて切れる。
「――お前、ちょっと離れろ!!」
勢いよく振り返り、レオンハルトは真っ赤になった顔で怒鳴り声を上げた。
突然突き飛ばすように距離を取られたアリシアは、「え?」と呆然と目を丸くする。
「な、なにいきなり?」
「……っ! とにかく今は作業中なんだよ! さっさと自分の部屋に戻れ、出てけ!」
図星を突かれた羞恥と動揺を隠すように、レオンハルトは乱暴な口調で言い放ち、強引に背中を向ける。
「はいはい。なんなのよもう、あいつ思春期か?」
追い出されるように部屋を後にするアリシアの、呆れ果てた声が重厚な扉の音と共に消えた。
広い私室に一人残されたレオンハルト。
姿見に映るのは、不自然なほど顔を赤く染め、荒い息を繰り返す自分の姿だった。
「……これ以上は、俺が俺じゃなくなる……」
前世の「女友達」としての自分と、今現在の「男」としての本能。
かつてない自己嫌悪と焦燥に駆られながら、レオンハルトは姿見の前で深く頭を抱え込んだ。




