第1話 生存戦略としての婚約発表
アルヴェリア聖王国の王宮の中核に位置する、白亜の大広間。
天井で輝く巨大な魔導シャンデリアの光が、着飾った貴族たちを眩く照らし出していた。
本来ならば、優雅なワルツと建前だらけの歓談が響き渡るはずの夜会。しかし今、広間を支配しているのは、水を打ったような――いや、息をすることすら忘れたかのような、完全な静寂だった。
玉座の前に立つ老獪な宰相、ローレンス・エーベルのよく通る声が、広間の隅々にまで反響した直後のことである。
「――皆の者、喜ばしき報せである。我がアルヴェリアの第一王子レオンハルト殿下と、グランベル公爵家令嬢アリシア様の婚約が、国王陛下の御名のもと、ここに正式に承認された!」
その宣言が脳で理解された瞬間、広間は蜂の巣をつついたような大騒ぎへと変貌した。
ざわめきどころではない。悲鳴にも似たどよめきが巻き起こる。
それもそのはずだ。王国の正統なる次期王位継承者と、王国最大勢力にして「第二の王家」とも呼ばれるグランベル公爵家の令嬢。
この二人が結びつくということは、すなわち盤石すぎる権力基盤の完成を意味する。
貴族たちの反応は、見事なまでに真っ二つに分かれていた。
第一王子派の貴族たちが歓喜の涙を流して称え合う一方で、他の派閥の者たちは顔面を蒼白にしている。
第二王子を擁立したい王妃エレノアは、扇子を取り落としそうになるほど手を震わせ、あからさまに引き攣った笑みを浮かべていた。第二王子派の武闘派貴族たちはギリッと奥歯を噛み鳴らし、公爵家の乗っ取りを企んでいたアリシアの叔父ヴィルヘルムに至っては、幽鬼でも見たかのように目をひん剥いている。
彼らからすれば、暗殺や政略という「手順」をすっ飛ばし、いきなり王手を突きつけられたも同然なのだ。
そんな嵐のような喧騒の中、アリシア・フォン・グランベルは完璧な淑女の微笑みを浮かべ、隣に立つレオンハルトに寄り添っていた。
彼女の背後には、長年仕える老執事アルフォンスが影のように控えている。彼はいつになく深く満足そうな、それでいてどこか冷徹な笑みを口元に刻んでいた。
「お嬢様……これ以上の後ろ盾はございませんな。グランベルの正統なる血は、王家の光によって守られるのです」
「ええ、アルフォンス。その通りね」
恭しく囁く忠臣に、アリシアは令嬢らしく頷きを返す。
だが、その美しい微笑みの裏側で、中身(女子高生)は盛大にガッツポーズを決めていた。
(よしっ! これで外堀を埋めに来てたクソみたいな縁談は、全部まとめて大爆破完了!)
継母や叔父が持ってくる、得体の知れない貴族との政略結婚。それはすなわち、アリシアの社会的、あるいは物理的な「死」のルートへ直結するフラグだった。
だが、第一王子という最強の盾を手に入れた今、そんなフラグは木っ端微塵である。
「皆様からの温かな祝福、心より感謝いたします」
隣で凛々しく微笑むレオンハルトも、完璧な王子の仮面を被っている。
「我が妻となる者は、このアリシアをおいて他にはいない」
堂々と響き渡ったその宣言とともに二人は見つめ合い、誰もがうっとりするほど、絵に描いたような愛を演じてみせた。
*
公式発表という名の「爆弾投下」を終え、二人は儀式の合間に一時的な休息を許された。
案内されたのは、王族と一部の高位貴族しか立ち入れない豪奢な控室である。
近衛騎士が外に立ち、重厚なマホガニーの扉が重々しい音を立てて閉ざされた。
足音が遠ざかったのを確認した瞬間――二人は、それまで被っていた気品ある仮面を思い切り脱ぎ捨てた。
「よっしゃあああーーっ! 大成功!」
「おう! 完璧だったな!」
パンッ!!
静かな控室に、品性もクソもない小気味良い音が響き渡る。
アリシアとレオンハルトは、お互いに満面の笑みでバシッとハイタッチを交わした。
「見た!? あいつらのあの焦った顔! 扇子落としそうになってた王妃とか、もう最高だったんだけど! ざまぁみろっての!」
「マジで文字通り目が点になってたな。軍閥の親父連中なんか、今にも血管ブチ切れそうな顔してたぞ」
キャハハと腹を抱えて笑うアリシアに、レオンハルトも壁にもたれかかってゲラゲラと笑う。
その空気感は、どう見ても王国の未来を担う王子と公爵令嬢のそれではない。放課後の部室で、上手くいったイタズラを笑い合う悪友同士のノリだ。
「はー、ウケる。これでとりあえず、数日以内に変なオッサンと無理やり結婚させられる社会的死ルートは完全回避だわ」
「俺の方もな。当分は『公爵家を敵に回す』リスクのせいで、物理的な暗殺の難易度が跳ね上がったはずだ。死にルート、とりあえず一本折ったな」
「うちら天才じゃん?」
数十回に及ぶ凄惨な「死に戻り」を経験してきた二人にとって、ここまでの道のりは決して平坦ではなかった。毒殺、刺殺、転落死。あらゆる死因を回避し、情報をすり合わせ、ようやく辿り着いた生存戦略がこの『偽装婚約』なのだ。
*
「にしてもさー」
ハイタッチの勢いのまま、アリシアはソファにドカッと腰を下ろし、隣に座ったレオンハルトの顔を至近距離から覗き込んだ。
「お前、さっきの発表のとき、めちゃくちゃ格好つけて『我が妻となる者は彼女しかいない』とか言ってて超ウケたんだけど! なにそれ、どこの少女漫画だよ!」
「う、うるせぇ! 宰相が書いた台本通りに読んだだけだろ! こっちだって、恥ずかし死にするかと思ったわ!」
からかうようにニヤニヤするアリシアから、レオンハルトは顔を背けた。
中身は完全に「前世の女友達」の距離感である。
しかし、無防備に隣に座り、顔を近づけてくる彼女の姿は――前世のジャージ姿の悪友ではない。
最高級のシルクで仕立てられたドレスに身を包んだ、国宝級の美少女なのだ。
ドレスの胸元からは、前世ではあり得なかった圧倒的なスタイルが強調されている。動くたびに、薔薇と百合を混ぜたような、甘くかぐわしい香りが鼻腔をくすぐった。
「…………っ」
レオンハルトは、急に呼吸が浅くなるのを感じた。
なんだ、この感覚。
中身はあいつだぞ。何度も一緒にバカをやって、爆発に巻き込まれて、今もこうして「夫婦ごっこウケるw」と笑い合っている、ただの親友だ。
それなのに、至近距離で見つめられると、妙に落ち着かない。
レオンハルトの脳は、彼自身が気づかないうちに、十数年かけて「王国の第一王子」として、つまり「男性」として育てられた価値観とホルモンに引っ張られ始めていたのだ。
「……お前、もうちょっと離れろよ」
たまらず、レオンハルトは少しだけソファの端へと身を引いた。
しかし、アリシアはキョトンとした顔で首を傾げる。
「は? なんで?」
「なんでって……その、なんだ。お前、無防備すぎるだろ」
「なに言ってんの? うちら夫婦(仮)じゃんw 減るもんじゃないし、別にいいっしょ」
全く気にも留めていないアリシアは、むしろ面白がってさらに距離を詰めてくる。
レオンハルトが内心で(頼むからそれ以上近づくな!)と冷や汗を流していると、控えめに扉がノックされ、儀式再開の時間が告げられた。
*
再び大広間へ戻った二人を待っていたのは、「婚約の証」を交わす公開儀式だった。
数多の貴族たちの視線が突き刺さる中、レオンハルトはアリシアの前に立ち、厳かに小箱を開く。
中には、王家に代々伝わるという、まばゆい光を放つ青い魔導宝石が埋め込まれた婚約指輪が鎮座していた。
アリシアは内心でノリノリだった。
(おっ、指輪交換キター! リアル異世界イベント発生じゃん! スチル回収、スチル回収っと)
完全にゲームのミッションをこなすような感覚で、アリシアはレオンハルトの前に、スラリとした白く細い左手を差し出した。
早く嵌めてよ、とでも言いたげに、うっすらと微笑みながら視線で促してくる。
レオンハルトは静かに息を吸い込み、アリシアの差し出した手元へそっと触れた。
指輪を嵌めるため、彼女の細い指先を、自分の大きな手で包み込む。
――その瞬間だった。
(……っ!?)
レオンハルトの全身を、微弱な電流のようなものが駆け抜けた。
前世の記憶では、ふざけて手を繋いだり、腕相撲をしたりしても、何も感じなかったはずだ。泥まみれになっても笑い合える、ただの「友達の手」だった。
しかし今、彼の手のひらに伝わってくるのは、信じられないほどの肌の柔らかさと滑らかさ。
明らかに「自分よりも小さく、か弱い存在」としての、かすかに熱を帯びた女性の体温。
ドクン、と。
レオンハルトの胸の奥で、かつてないほど激しい、不器用な動悸が跳ね上がった。
顔を上げると、視界に映るアリシアの顔が――突然、ただの悪友から、「守るべき一人の美しい少女」へと変換されて網膜に焼き付く。
シャンデリアの光を反射する金の髪。長いまつ毛。艶やかな唇。
『――待て。なんだこれ』
心臓が、うるさい。広間の喧騒が遠のいていくような錯覚に陥る。
『なんで俺、こいつの指に触れただけで……こんなに心臓がうるさいんだよ……!?』
急速に顔に熱が集まっていくのがわかる。必死に表情筋を総動員して平静を装おうとするが、耳の先まで赤くなっているのは自分でもごまかしきれなかった。
一方のアリシアは、顔を真っ赤にして固まっているレオンハルトを見て、(え、なに? セリフ忘れたの? 早く嵌めろよー)と、無自覚なまま小首を傾げている。
国家を揺るがす熾烈な権力闘争の裏側で。
すれ違いだらけの、前途多難なラブコメの火蓋が、今ここに切って落とされたのだった。




