第8話 天才と地下室の秘密
王都で二人の転生者が「生き残るための婚約」という最大の博打に打って出ていた頃。
南東部の辺境バルド領では、また別の『奇跡』が起きようとしていた。
水車や製紙業の成功によって急速に豊かになりつつあるバルド領だったが、古くから領民を恐怖させている「目に見えない敵」が存在していた。特定の集落で、人々が次々と原因不明の激しい腹痛と貧血に見舞われ、衰弱死を遂げる奇病――。
この世界の既存の回復魔法や聖水を施しても、その場しのぎで一時的に楽になるだけで、根本的な治療には至らない。教会の神官たちは「土地の呪いだ」「悪霊の仕業だ」と匙を投げ、領民たちもただ恐怖に震えて諦めるしかなかった。
「呪いなわけがないだろう」
領主邸の一室。僕――エリオット・フォン・バルドは、自らガラスを何百回と磨き上げて組み上げた『複式顕微鏡』の接眼レンズを覗き込んでいた。
ステージに載せられているのは、奇病を発症した領民から採取した血液と生体サンプルだ。粗末な真鍮製の鏡筒の向こう側、光を反射させて拡大された世界をじっと凝視する。
やがて、光の向こうで不気味に蠢き、のたうつ微小な影――【寄生虫】の姿を、はっきりと捉えた。
(やっぱりだ。呪いでも悪霊でもない。ただの経口感染による内臓疾患。原因さえ特定できれば、現代日本の衛生知識とエンジニアの基礎知識で、いくらでも叩き潰せる)
僕は顕微鏡から目を離し、冷徹に次の作業へと意識を切り替えた。
*
原因を特定した僕は、即座に領主の権限を用いて、全領民へ向けた徹底的な「衛生管理令」を通達した。
「川の生水をそのまま飲むことを厳禁とする。必ず一度、煮沸してから飲むこと」
「井戸には指定した消毒薬を定期的に投入せよ」
「集落の近くの川で獲れる特定の川魚の生食は、今後一切禁止する」
さらに、図書室の古い薬草誌から駆虫作用のある成分を持った野草をいくつかピックアップし、屋敷の工房で成分を抽出・精製した。中世基準の怪しげな煎じ薬ではない。成分比率を均一化した、確実な「近代駆虫薬」の完成だった。
効果は劇的だった。
通達からわずか数週間。何十年もの間、バルド領の特定の村を苦しめ、多くの命を奪い続けてきた恐怖の風土病は、文字通り跡形もなく根絶されたのだ。
「若様……! 若様は、バルド領を救うために神がお遣わしになった大賢者様だ!」
「何代もの医師や高名な神官様すらお手上げだった呪いを、まさか一瞬で消し去ってしまうなんて……!」
屋敷の前に集まった領民たちだけでなく、これまで「土地の呪い」だと信じ込んでいた現地の医師や教会の神官たちまでもが、僕の前に膝をつき、涙を流して平伏していた。
(大賢者なんて大層なもんじゃない。ただの日本の義務教育と、応用科学の知識だよ……)
僕は内心で大きなため息をつきながら、彼らに向けて「顔を上げてください」と穏やかな微笑みを返した。
周囲から見れば、僕は弱冠にして領地を未曾有の繁栄に導き、不治の病さえ根絶してみせた、富も名声も手に入れた「勝ち組の異世界転生者」そのもの。栄光の頂点に立っているように見えるだろう。
しかし、僕の心は、最初からこの世界にはなかった。
*
「お兄様、お肉! お兄様が教えてくれた新しいお料理、とっても美味しい!」
その日の夕食時。
八歳になる妹のリリアが楽しそうに笑い、両親が僕の偉業を誇らしげに、心からの愛を込めて讃えてくれていた。暖炉の炎が室内を温かく照らす、非の打ち所がない幸福な家庭の風景。
(……この世界の人たちは、みんな本当に優しい。バルド領の生活も、僕の知識でいくらでも豊かになる)
僕は彼らの言葉に微笑みを返し、リリアの頭を優しく撫でながら、胸の奥をキリキリと締め付ける強烈な罪悪感と孤独に苛まれていた。
目を閉じれば、今でも鮮明に蘇る前世の記憶。
泥のように疲れて帰宅した僕を「おかえり」と迎えてくれた妻の優しい笑顔。僕の指を小さな手でぎゅっと握りしめてくれた、まだ幼かった娘の肌の温もり。
どれだけこの異世界で成功を収めようとも、どれだけ人々に神のごとく崇拝されようとも――あの、どこにでもある当たり前の日常の代わりには、絶対になり得ないのだ。
(僕が守りたいのは、ここにある日常じゃない。僕は……この世界で幸せになってはいけないんだ)
僕は静かにカトラリーを置き、愛する家族の団欒を見つめながら、その温もりを拒絶するように心を硬く閉ざした。
僕は絶対に帰る。あの世界へ。愛する家族の元へ。
*
深夜。屋敷が完全に静まり返った頃、僕はいつものように明かりを持たず、地下深くの隠し部屋へと降りていった。
重厚な鉄の扉を開けた先、研究室の中央には、風土病の解決によって得た莫大な報酬と、大賢者の名声を利用して国内外から極秘裏にかき集めたレアな超高純度魔導結晶が組み込まれた、禍々しい「巨大魔導装置」が設置されている。魔導結晶は、時空を捻じ曲げる準備を終えたかのように怪しく明滅していた。
「……計算は完璧だ。出力の指向性も固定した」
ナイフで自身の指先を僅かに切り裂き、流れる血を触媒にして、床の魔法陣へさらに緻密で複雑な『時空座標の歪曲式』を書き足していく。
エンジニアとしての冷徹な計算と、魔導装置の出力を組み合わせた、現地の魔術師には逆立ちしても真似できない近代的なアプローチ。
それは世界の理に直接触れる、神への反逆とも言える禁忌の研究だった。
カチ、と装置の主電源のレバーを入れる。
膨大な魔力が閉ざされた部屋の中に満ち満ちていき、空間がパキパキと限界を超えて歪み始めた。
*
激しく脈打つ魔導装置の前に立ち、僕は壁に貼られた「妻と娘の似顔絵」に静かに視線を落とした。その瞳には、家族への愛と、世界の法則すらねじ伏せようとする研究者としての狂気の炎が静かに灯っている。
「理論は間違っていない。魂の器を、時空の座標の裏側へと飛ばす……。あと少しだ。待っててくれ、みんな。すぐに帰るから……!」
僕が装置のコアへと一気に魔力を流し込んだ、その瞬間。
――ズゥゥゥゥン。
大気すら振動させない、目に見えない強烈な『因果の波紋』――未完成な時空魔法の凄まじい余波が、この地下室から世界に向けて、静かに、しかし決定的に放たれた。
天才エンジニアである僕の頭脳を以てしても、知る由はなかった。
己が愛する家族のもとへ帰るために、夜な夜な執念で繰り返しているこの空間放射実験のエネルギーが、まさにこの瞬間、王都でようやく「明日」を掴み取り、偽装婚約を結んだばかりのアリシアとレオンの魂を直撃していることなど。




