第6話 背中を預けるということ
目覚めてベッドから転がり出た私は、身支度もそこそこに、すぐさまペンをとって羊皮紙に文字を殴り書きした。アルフォンスを巧みに言いくるめて王宮へ飛ばしたその手紙には、昨夜の沖縄反省会でレオンと徹底的に擦り合わせた、今日という一日を生き延びるための【生存タイムライン】が記されている。
『午前11時:王宮東棟の襲撃予測。午後3時:公爵邸庭園の裏口警戒。同期ズレ注意、各個撃破でヨロ』
手紙を送り出した後、私は自室の窓から王都の空を見上げていた。
(今までは、自分の命だけを気にしていればよかった。でも、今は違う)
胸の奥が、焦燥感でじりじりと焼け付くようだ。
私がどれだけ完璧に立ち回ろうとも、遠く離れたあの王宮であの馬鹿が油断して、今この瞬間にナイフを突きつけられていたら、その時点で私の努力もすべて水の泡になる。
離れているからこそ、お互いのタイムラインが気になって仕方がなかった。信じるしかないのだ。私の、世界で一番頼りになるあの相棒を。
*
午後二時五十分。公爵邸、アリシアの自室。
タイムラインに記された私の『ステージ』の時間がやってくる。私はおもむろにベルを鳴らし、老執事を部屋へと呼び出した。
「お呼びでございますか、アリシア様」
いつものように慇懃に頭を下げるアルフォンス。私はわざとらしく自室の大きな窓のカーテンを少しだけ開け、ガタガタと両肩を震わせてみせた。怯える哀れな公爵令嬢の、迫真の演技だ。
「アルフォンス……っ、さっきね、庭園の裏口のほうで、怪しい男たちの人影を見たような気がするの。……もしかして、分家派の叔父様の息がかかった者たちかしら……? 私、怖くて……」
私のその言葉が耳に届いた瞬間。
アルフォンスの慈愛に満ちた老眸の奥に、ぞっとするほど冷徹で、昏い光が宿るのを私は見逃さなかった。
「……お嬢様。どうかご安心を。この屋敷における不届き者の存在など、この老骨が、お嬢様の清らかな目に触れぬよう綺麗に『処理』してまいります」
アルフォンスは深く一礼すると、音もなく部屋を出て行った。
パタンと扉が閉まった瞬間、私はドレスの胸元を掴んで、盛大に冷や汗を拭った。
(ごめんねアルフォンス、嘘よ。人影なんて見てないわ。……でも、あんたのその狂信的なまでの強さと隠密処理能力、今は最大限に利用させてもらうから)
時計の針が午後三時を回る。
窓の外、遙か下の庭園の裏口付近で、一瞬だけ茂みが不自然に揺れた。戦闘の音すら響かない。有能すぎる我が家の執事によって、タイムライン通りに分家派の刺客が無音のまま無力化されたのだ。
よし。公爵邸ルート、クリア。
*
――一方、それより少し遡った午前十一時、アルヴェリア王宮。
「……ハッ!!」
鋭い呼気と共に、レオンハルトの振るった純銀の剣が、襲撃者の武器を鮮やかに弾き飛ばした。
タイムラインに記された、第二王子派による王宮東棟の襲撃予測時間。
レオンハルトは前回のループで自分を刺した「内通者の近衛騎士」を、あらかじめ別の重要拠点の警備へと隔離配置し、襲撃ルートを完全に予測していた。信頼できる直属の騎士団を事前に伏兵として潜ませ、突入してきた刺客たちを、逆に完璧に包囲・制圧してみせたのだ。
「殿下、残党の捕縛、すべて完了いたしました!」
「……うむ。苦労をかけたな」
騎士の報告に威厳ある声で応えながら、レオンハルトは剣を鞘へと収めた。
額の汗を拭い、懐中時計を取り出して文字盤を睨みつける。十一時五分。
(王宮東棟ルート、完全攻略。……おいアリシア、そっちは大丈夫だろうな。頼むから、変な毒とかうっかりチーズとか食って死ぬなよ?)
荒い息を吐くレオンハルトの横顔からは、前世で「二次元の推ししか勝たん」とゲームをしていた頼りない少女の面影が、少しずつ削ぎ落とされつつあった。
遠く離れた、たった一人の相棒の命をその背に背負うことで。オタクの少女は異世界の地で、確実に「大切な半身を守るための、戦う男」の顔へと変貌を遂げていた。
*
そして、夜がやってきた。
お互いにまだ生きているということは、ただ「あの沖縄の真っ白な空間に強制送還されていない」という冷徹な事実だけで証明されている。
静まり返った公爵邸の寝室。ベッドに入った私は、掛け布団を顎まで引き上げ、暗闇の中でじっと壁の振り子時計を見つめていた。カチコチと響く秒針の音が、今の私にはうるさいほど心臓の鼓動とシンクロして聞こえる。
時計の針が、午後十一時五十九分を回った。
今日一日、私たちが繋いだ命のバトンが、最終ランナーへと渡される。
(あと、十秒……五秒……)
私はぎゅっと目を閉じた。
来るなら来い。頭を叩き割るシャンデリアか、内臓を焼く毒か、それともチーズか。
(三、二、一……!)
刻んだ秒針が、午前零時を告げる。
…………。
……。
いつまで経っても、視界は潮風の吹く白い砂浜に切り替わらない。
鼓膜を破るような、あの不発弾の爆発の轟音も聞こえてこない。
ただ、静かな、あまりにも静かな夜の静寂だけが、私の部屋を満たしていた。
*
ちゅん、ちゅん、と心地よい鳥のさえずりが耳に届く。
ゆっくりと目を開けると、そこにあったのは、カーテンの隙間から差し込む、柔らかで温かい本物の朝の光だった。
「……あ」
私はガタガタと震える手で、自分の身体を強く抱きしめた。
暖かい。肌が焼けていない。骨も砕けていない。
私はそのまま、ドッとベッドの上へ大の字になって倒れ込んだ。
(生きてる……。私、死んでない。本当に、朝が来たんだ……)
何十回、何百回と繰り返した、あの理不尽で容赦のない絶望の夜を越えて。
私たちはついに、初めて自分たちの手で「本物の明日」を掴み取ったのだ。
全身の細胞が歓喜に震えるような、かつてないほどの圧倒的な達成感。そして、遠く離れた王宮で、同じようにこの朝を迎えているはずの相棒への、言葉にならない絶対的な信頼が胸を満たしていく。
「やったよ……やったよ、レオン……っ!」
私は枕に顔を埋め、歓喜の涙が滲む笑顔のまま、初めて迎えた「朝」を心の底から噛み締めていた。




