音を立てて崩れ落ちる時
音の方を振り返ると、公園の入り口に人影が一つ立っていた。その足元には、先ほど落としたであろう、買い物のビニール袋と共に、缶やペットボトルがコロコロと転がっていた。
だが、そこは橙色の街灯の光の死角になる部分であり、夜の闇に同化して、ただ不気味な人影の『黒い塊』としか分からなかった。
その塊が、土を冷たく踏み、落としたビニール袋すら、グシャッと踏みしめながら徐々にこちらへと近付いてくる。街灯の明かりの下に侵入し、その輪郭が照らし出された瞬間、俺は激しく息を呑んだ。
「達樹……っ!?」
「なんだよそれ……。俺のときは、あれほど本気の告白を拒んでおいてさ。そんな、そんな女と……。俺がわざわざ、お前の邪魔にならないように、完璧に排除したのになんでお前がそこにいるんだよ……っ!!」
達樹の口から飛び出したのは、今まで聞いていた爽やかなものとは180度違う、地獄の底から這い上がってきたようなドス黒い、低い声だった。
そして――あいつの垂らした左手には、鋭利な刃を放つ一本の包丁が、禍々しく握りしめられていた。その手を握る薬指には、あいつの帰るべき家庭を証明する指輪が、ギラリと冷酷に光っているのが遠目からでもはっきりと分かった。
純聖なはずの結婚指輪と、剥き出しの狂気を孕んだ包丁。あまりにもかけ離れすぎていて、目の前の光景が錯覚かとすら思えた。
その鉄の刃を目にした瞬間、俺の脳内に、あの十二月三十日の最悪な商店街の記憶が一気にフラッシュバックした。包丁を手にして襲いかかってきたほのかの恐ろしい形相。俺の上に覆い被さり、血まみれになって死んでいった圭介の体温。
思わず全身に強烈な鳥肌が立ち、身体の芯からガタガタと凍えるような寒気を感じた。
「ミケ!! お前は、今すぐここから逃げろっ!!」
脳で計算するよりも先に、俺はミケを庇うようにベンチの前に立ち塞がり、叫ぶようにそう口走っていた。
あの日の商店街、俺は恐怖に竦んで、圭介に「逃げろ」とすら言ってやることができなかった。
ミケを、あの圭介と同じ悲惨な目にだけは、絶対に遭わせたくない。同じように、大切な人を自分の目の前でみすみす死なせるわけには、いかない。
「やだよ!! 巧を一人きりで置いて、私だけ逃げるなんて絶対にできないよっ……!!」
そう言いながら、ミケは俺の背後の上着を、恐怖に震えながらもギュッとしがみつくようにして力強く握りしめていた。その手の温もりが、俺の背中に「絶対に守る」という最後の勇気を注ぎ込んでくれる。
「おい、何を勝手におしゃべりしてんだよ……! 巧……こんなに、こんなにも俺がお前を愛しているというのに、なんでお前は俺を選ばないんだよぉっ!!」
達樹は完璧だった笑顔をドロドロの嫉妬で醜く歪め、狂ったように声を張り上げた。
「お前が俺のものにならないなら……いっそ右腕だけじゃなく、両手両足をすべて冷酷に切り裂いてでも、俺の部屋から二度と逃げられないようにしてやる……っ!!」
やっぱり、あの十二月三十日、気絶した俺の右腕に『優しい傷』を刻みつけたのは、お前だったんだ――。
すべての答え合わせが完全に確定したその瞬間、達樹は包丁を凶悪に構えながら、目を血走らせて俺たちを目がけて一直線に襲いかかってきた。
俺はミケを自分の背後に隠したまま、両腕で防御の体制をとる。
すると、達樹の包丁が躊躇なく振り下ろされた。
ザクッ!――
右腕に鋭い痛みが走り、見ると衣服に裂け目ができ、その中の傷から血がじわっと滲んでくるのが見えた。橙色の街灯の下ではそれは黒く、知っている血の色とは、ほど遠く感じられた。
達樹は気持ち悪い笑みを浮かべながらこちらを面白そうに見る。
「やっぱ簡単にはいかねえな」
すると、俺の背後のミケに目をやった。
「そうか! その女がいなくなれば巧は俺に戻って来るんだよな? そうかそうか、まずはその女だ!」
そう言って今度は俺の背後に隠れるミケに照準を合わせる。
「――やめろっ!!」
俺は血の流れる右腕のことを忘れ、ミケの前に必死に立ちはだかった。
だが、フットサルで鍛え上げられた達樹の右腕の圧倒的な力任せの拒絶によって、俺の身体は無慈悲に突き飛ばされた。
思わず、ザザーッ、とグラウンドの冷たい土を削るような鈍い音を立てて地べたに激しく倒されてしまう。脇腹の傷が悲鳴を上げ、流れた血が土の匂いと混ざり合う。
そこに、達樹がゆっくりと冷酷な足取りで近づいてくる。俺は痛みに耐えながら、泥まみれの上半身をゆっくりと起き上がらせ、目の前の怪物を激しく睨み上げた。
「なんでだよ……っ! お前には、奥さんも、子供だっているだろ……っ!?
なんでそんな幸せな家庭があるのに、こんなに俺に執着するんだよ……!!」
俺の張り裂けそうな叫びを聞いた達樹は、ハハッ、と乾いた笑い声を上げた。
そして、ぐいと姿勢を低くして俺の目の前まで不気味に顔を近づけると、プラチナの指輪を嵌めた左手で、俺の顎をぐっと骨がきしむほどの強さで力任せに掴み、無理やり自分の方を向かせた。
「これ、だよ」
「え……?」
「俺、最初からお前のこの顔が、狂うほど好みでさぁ〜。
大学に入ってお前のこの顔に出会った瞬間、あの嫁と結婚してガキを産ませたことを、人生の底から本気で後悔したんだよ」
目の前にあるのは、一人の人間のエゴと独占欲が極まり、完全に底の抜けてしまった、ゾクッとするような冷徹な瞳だった。
あいつはそう吐き捨てると、用は済んだと言わんばかりにすっと立ち上がり、もう俺には目もくれず、包丁を握り直してミケの方へと冷たく足を向けた。
――行かせるか。絶対に、行かせるもんか。
俺は無我夢中で、ちぎれそうな身体を動かして地べたから立ち上がると、ベンチの横で恐怖に震えるミケに、自らの身体のすべてを投げ出すようにして覆いかぶさり、その小さな背中を強く、強く抱き締めた。
「もうやめてくれ!! 頼むからもうやめてくれよ……っ!!」




