梅崎さんとの接触
――1月13日、15時。カフェ『カサブランカ』。
梅崎さんに渡された、小さな小さな紙切れ。
そこには、ただそれだけが歪な文字で静かに記されていた。
確か、街の古くからある純喫茶だ。年の瀬に圭介が殺されたあの商店街の、ずっと外れのほうにあるはず。場所はなんとなく頭の中に思い浮かぶくらいで、一度も足を踏み入れたことはなかった。
約束の当日、俺はかなり早めに家を出た。
冬の空は嘘みたいに綺麗に晴れ渡っていて、冷たい風が吹いても、あの日の展望台や、公園のような凍えるほどの寒さは不思議と感じなかった。
場所を間違うわけはない。それなのに、俺は歩きながら何度も何度も、上着のポケットの中の紙切れを指先でなぞって確認せずにはいられなかった。
商店街の、あの凄惨な血の海になった現場には、どうしても足を向けることができなかった。
あそこへ近づくだけで、ほのかの狂気じみた笑顔や、俺の上に覆い被さってきた圭介の、最期のあの短く浅い呼吸が脳裏に蘇って、息ができなくなるからだ。
俺はあの場所を、あいつが命を落としたその座標を、決して通らないように大きく大きく遠回りしながら、一歩ずつ約束の場所へと向かって進んでいった。
約束の十分ほど前に、その喫茶店へと到着した。
重い木製のドアを押し開けると、カランコロン、と乾いた明るい鈴の音が静かな店内に鳴り響いた。
誰にも見つからないように、人知れずここを訪れたはずの今の俺にとって、その音は必要以上に大きく、まるで警告のようにも感じられてしまった。
「いらっしゃいませ」という女性店員の明るく優しい声を聞き流しながら、俺は薄暗い店内へと視線を回す。
すると、フロアの最もうらぶれた端の方、西日の光がどうしても届かないような、隅の二人掛けのボックス席に、ひっそりと佇む梅崎さんの姿をすぐに見つけた。
お揃いのエプロン姿をした若い女性店員が、丸いトレーを胸に抱えながら「おひとり様ですか?」と小走りで近づいてくる。
俺は「あ、待ち合わせです」と小さく声を返し、梅崎さんの待つあの静かな席に向かって、一歩一歩、歩みを進めた。
クラシックのBGMがゆったりと流れる店内は、時間が止まったかのように人がまばらだった。
梅崎さんの座っている周辺のテーブルには誰の姿もなく、ここなら周囲の目を気にせずにゆっくりと大切な話ができそうだ、と心の底から安堵していた。
店内を優しく満たすコーヒーの落ち着く香りを胸に吸い込みながら一歩ずつ近づいていくと、俺の足音に気づいた梅崎さんが、ゆっくりと顔を上げた。
目が合った瞬間、お互いに声は出さず、ただ静かに軽い会釈を交わす。俺は音を立てないように配慮しながら、梅崎さんの正面の席へとしずしずと腰を下ろした。
「梅崎さん……ですよね?」
俺が正面からそう語りかけると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そこからすぐに不思議そうな表情へと変えて、小さな疑問の声を漏らした。
「私……立花さんに、自分の名前を言いましたっけ……?」
梅崎さんは、白髪の混じった長い髪を後ろで一つに小さく纏めていた。目立たないように配慮してのことなのか、それとも元々そういう人なのかは分からなかったけれど、その身に纏っているのはどこまでも地味で暗めの衣服だった。
先日訪れた、あの悪魔のような人間の暮らすレンガ造りの豪邸が派手すぎたから、余計にそう思えただけなのかもしれない。
だけど、俺の目の前に座るこの女性は、お城のようなお屋敷の一部として働く人間にしては、あまりにも、ひどく質素に佇んでいるように見えたのだ。
「圭介が……生前、俺に言っていたんです。梅崎さん……梅さんっていう家政婦さんに、実の親よりもずっと優しく接してもらってたって。こないだお屋敷でお会いして、もしかしたらあなたのことかなと思ったので……」
「ああ……! そうですか……! 圭介くんが、そんな風に……」
俺の言葉を聞いた瞬間、梅さんの顔に喜びと悲しみが残酷に混ざり合った、何とも言えない複雑な表情が浮かび上がった。
その細められた目には、うっすらと熱い涙が膜を張っている。
梅さんは震える手で、テーブルの上の白いコーヒーカップを強く握りしめながら、一言一言、言葉を丁寧に紡ぎ出し始めた。
「圭介くんの……あの子の最期に付き添ってくれたあなたには、どうしても……すべてを包み隠さずお話ししたいと思ったんです……」
梅さんのただならぬ気迫を前に、俺の身体は無意識のうちに自然と背筋が伸び、握りしめた手のひらにじっとりと生温かい汗を感じていた。
これからこの人の口から語られる、底知れない闇の告白を、今のボロボロな自分がすべて受け止めることが出来るのか――。




