達樹との未来
車に滑り込むようにして乗り込むと、達樹が静かにエンジンをかけた。
冷え切った空間に、暖房がゴォォォ……という低い音を立てて回り始める。まだ冷えきっていた身体には、暖房が完全に効く前の、そのわずかな弱い温かさすらも、この上なくありがたく感じられた。
やがて車内が心地よい熱気で満たされてきた頃、窓の外の世界は、いつの間にか夜の闇に呑まれて真っ暗になっていた。車内の窓もところどころ白く曇ってきた。
展望台の遠く離れた場所にポツンと立つ街灯の光も、この濃い暗闇の前ではあまり意味を持っておらず、今の俺たちの世界を照らすのは、ダッシュボードで淡く発光するナビの明かりだけだった。
この車特有のあの爽やかな匂いが、密閉された車内を静かに、だけど濃厚に満たしていく。
ふと助手席の窓ガラスに目をやると、外の暗さのせいで自分の顔が鏡のように反射して映っていた。ガラフに映る俺の顔のすぐ後ろで、達樹が、じっと俺のことだけを見つめているのが分かった。
弾かれたように振り返ると、達樹は本当に、射抜くような強い視線で俺を見つめながら、ひどく掠れた声で口を開いた。
「巧。……今日は、本当によく頑張ったな」
達樹は、激しく泣いた感触のまだ生々しく残る俺の目を優しく覗き込んできた。
そして、大きな手で俺の頭をそっと撫でながら、前髪を、愛おしそうにゆっくりと耳の後ろへとかける。 そのまま、大きくて温かい手のひらが俺の頬へと触れた。
その綺麗な瞳からどうしても目を離すことができずに固まっていると、達樹の顔が、じわじわと、だけど確実にこちらへ向かって近付いてきた。
お互いの熱い、狂おしいほどの吐息が、すぐそこで触れ合うほどの至近距離。
心臓が破裂しそうなほどドクドクと拍動を速め、俺の身体の奥底は、これから起こるであろう瞬間を激しく期待していた。こいつにすべてを委ねたい。
そう願いながら、俺はゆっくりと目を閉じようとした。
――だが。
「……ちょっと、待って……っ!!」
唇が完全に触れ合うほんの数ミリ手前で、俺は両手を伸ばし、達樹の広い胸を突っ張るようにして、ぐいと強引に距離を離れさせた。
「やっぱり……だめだよ、俺たちは……」
達樹は一瞬、世界が終わったかのような悲しい顔を見せた。だけど次の瞬間、あいつは衝動的に俺の腕を強く引っ張り、その胸の中へと無理やり抱き寄せた。
骨がきしむほど、苦しいほどに強く抱き締められる。
俺の耳の後ろのすぐそばから、血を吐くように絞り出すようなあいつの声が聞こえてきた。
「なんで……。俺は、お前のことがこんなにも……。俺は、すべてを捨ててでもお前のそばにいたいんだよ……?」
達樹が必死に口にした、その言葉の本当の重さを、俺は痛いほどに知っていた。
……あぁ、これを素直に受け入れて、この腕に飛び込めたら、どれほど幸せだったか分からない。
俺をここに依存させるために仕掛けたであろう、あの数々の不可解な罠なんて、もうどうでもよくなってくる。
ただ、ただ、達樹のこの温かい胸のそばにいたい。
この手を離したら、もう二度と抱き締めてはもらえないだろう。
こんなにも自分を愛してくれる人には、もう永遠に出会えないだろう。
――でも。やっぱり、言えない。
『すべてを捨ててでも一緒にいてほしい』
……なんて、そんな本当の気持ちは。
絶対に、言ってはいけないのだ……。
「ごめん……本当にごめん……っ」
達樹の広い胸の中で、堰を切ったように涙が次から次へと溢れて止まらなくなってしまった。
本当は、俺だってお前のことが好きだということすら、絶対に言えない。
それを一度でも口にしてしまえば、俺たちはもう二度と元の関係には戻れなくなる。
俺はまるで子供のように声を上げて泣きながら、その胸の中で謝り続けることしか出来なかった。
達樹を、俺のせいで不幸にしたくない。
俺は、本当に達樹のことを愛してしまったのだろう。
俺があまりにも激しく泣きじゃくるので、達樹は強く抱き締めながら、大きな手で何度も背中をさすり、優しく「わかったから。大丈夫、大丈夫だから……」と、言い聞かせるように何度も何度も繰り返していた。
その日はそれ以上お互いに何も言葉を交わすことなく、静まり返った夜の道をそのまま俺の家の前まで送ってもらい、達樹と別れた。




