一生、忘れられない帰り道
「ちょっと寄り道しようか」
達樹は前方の道路を見据えたまま、いつも通りの優しい声でそう言うと、静かに車を走らせた。
車はファストフード店のドライブスルーへと滑らかに滑り込み、達樹が適当に注文を済ませて品物を受け取る。温かい紙袋が車内に入ってきた途端、ポテトやハンバーガーのジャンクで脂っぽい匂いが一気に空間を埋め尽くし、人間の本能的な食欲をいやらしく刺激してきた。
達樹から「何か食べるか?」と尋ねられた。腹の底では確かに空腹を感じてはいたが、さっきあの豪邸で見てしまった一畳の物置の闇、そして親たちの悪意を思い出すと、どうしてもまだ何かを口にするような気分にはなれず、俺はやんわりとそれを断った。
達樹は「そっか……」とだけ寂しげに呟き、運転しながらポテトをつまんだり飲み物を口に含んだりして、また車を力強く発進させた。
車は、俺の全く知らない未知の道をぐんぐんと進んでいく。車内のラジオからかすかに流れる音楽は、今の俺のノイズだらけの脳内にはなかなか耳に入ってこない。
灰色の曇り空の下、知らない景色が助手席の窓の向こうを、冷酷なスピードでどんどん通り抜けて行く。
やがて車は鬱蒼とした山道へと入り、ぐねぐねと曲がりくねる道のせいで、俺の身体は右へ、左へと傾くように激しく揺らされた。
時折、風に舞った枯れ葉がフロントガラスにバチバチと当たっては、一瞬で後ろへと散っていく。
山道を抜けると、視界がパッと開けて、広々とした駐車場のアスファルトが目の前に広がった。
十数台は優に停められそうなその場所には、冬の寒さのせいかポツポツと数台の先客がいるだけで、達樹は周囲に他の車がいない適当なスペースに滑らかに車を停めた。
「ほら、下りようか」
達樹がエンジンを切ると同時に、助手席の俺の頭をポンポンと優しく軽く叩いた。
車外へ出ると、すぐ目の前に古びた石の階段が見え、その先には広大な芝生の広場が広がっているのが見えた。風に乗って、青々とした草の匂いがかすかに鼻を掠めていく。
達樹はここへ何度も来たことがあるのだろう、一切迷うことのない足取りでずんずんと前を進んで行く。
階段を上り終えた芝生の広場のさらに先には、空へと突き出るような展望台へと続く長い階段がそびえ立っていた。
まだ病み上がりの身体には少しうんざりするような段数だったけれど、前を歩く達樹が立ち止まる様子は微塵もなかったので、俺は仕方なくその後ろを付いていくことにした。
だが、やっぱり階段の中腹あたりまで来たところで急に呼吸が荒くなり、どうしても足が上がらなくなって歩行のスピードが極端に落ちてしまう。
すると、俺の異変にすぐ気付いた達樹が、足を止めて後ろを振り返った。いつものあのすべてを包み込むような優しい笑顔を浮かべると、俺に向かってすっと大きな右手を伸ばしてきた。
「ほら、巧。掴まれよ」
俺はその手に、吸い寄せられるように自分の手を重ねた。達樹の手のひらは、驚くほどに温かかった。達樹にグッと腕を引っ張ってもらうようにして、俺たちは再び、二人で一歩ずつ階段を上り始めた。
長い階段を上りきり、展望台の頂上へとたどり着いた瞬間、視界が一気にひらけて、眼下にきらめく街の景色が鮮やかに現れた。
そこには俺と達樹以外には誰もおらず、まるで世界に二人きりしか存在しない、俺たちだけの展望台のように思えた。
こじんまりとしたその場所からは、180度のパノラマで遠くの雄大な山々や、さっきまでいたあの息苦しい街の景色を全て見下ろすことが出来た。
事件からずっと狭い暗闇にばかり囚われていた俺の瞳には、その圧倒的な美しさが信じられないものに映って、思わず激しく息を呑んだ。
「ここさ、俺だけの『秘密の場所』なんだよね」
並んで景色を見つめていた達樹が、少し子供っぽく自慢そうな笑みを口元に浮かべた。その混じり気のない柔らかな笑みを見ていると、さっきまで張り詰めていた俺の顔の筋肉も、自然と優しくほころんでしまう。
だが、さすがに標高の高い山の上ということもあり、階段を登る前よりも、体感の気温が二、三度は一気に低くなっているような気がした。
ビュウッと遮るもののない真冬の強い風が遮るものなく吹きつけ、あまりの寒さに、俺は思わず背を丸めて自分の両腕を抱きしめるように身体を小さくした。
――その、まさにその瞬間だった。
背後から、躊躇いのない達樹の大きな身体が、俺を丸ごと包み込むようにして優しく強く抱き締めてきた。
「……こうやったらさ、少しは温かいかな」
達樹の広い胸の温もりが、俺の冷え切った背中にダイレクトに伝わってくる。
耳元のすぐそばで聞こえたあいつの低く掠れた声と、温かい吐息が、俺の皮膚を優しく撫でて鼓膜を心地よく揺らした。
達樹の腕の中で、しばらく何も言わずに眼下の景色を見つめた。
あいつの広い胸に包まれているせいで、自分の心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。この激しい音が、密着した達樹にバレていないかひどく不安になる。
そう考えれば考えるほど、またさらに鼓動が跳ね上がっていくような気がした。
もっとずっとこうしていたい、この温もりに溺れていたいと本気で願ってしまったけれど、遠くの灰色の空が、だんだんと切ない夕焼け色に混ざり合って変わり始めているのに気づいて、俺はそっと、すぐ隣にある達樹の顔を見上げた。
「……温かくなった。ありがとう、達樹」
静かにそう告げると、達樹は愛おしそうに目を細めながら、そっと俺の身体から腕を離した。
触れていた達樹の確かな体温が一気に消え去ってしまい、冬の強風が戻ってきた瞬間に、激しい寂しさと寒さが俺の全身を襲った。
それでも、達樹の浮かべた優しい笑顔をもう一度だけ見上げ、今度は二人の歩幅を合わせるようにして、並んであの白い車を目指して坂を下り始めた――。




