すべてを悟った時
「巧……? 大丈夫か?」
達樹が恐る恐る物置の扉を開けて、暗闇の空間に声をかけてきた。
その優しい声に弾かれたように、俺はパッと我に返った。だけど、一度決壊してしまった心のダムは、そう簡単には止めることができなかった。
身体の奥からの激しい怒りの震え嗚咽が、どうしても止まらない。
達樹は俺の明らかに異常な取り乱し方に激しい困惑を見せたが、それ以上は何も詮索せず、ただ黙って俺の身体を強く抱き締めて、大きな手で背中を何度も何度も優しくさすってくれた。
達樹の洗いたてのシーツのような爽やかな匂いが、この狭い闇の中にふわりと広がる。
「大丈夫、大丈夫……。俺がいるから、大丈夫だから……」
耳元で繰り返される達樹の温かい声。この小さな暗闇の中に、俺が子供のようにしゃくり上げて泣き続ける声が、じわじわと染み込んでいくようだった。
その圧倒的な包容力に、俺のボロボロの心は、頭の不信感を全てかき消して、自ら進んで深く深く、依存するように溺れていってしまうようだった。
しばらくして少しだけ心が落ち着き、涙が弱まってきた頃、俺は達樹の大きな身体に付き添われるようにして、ようやくその一畳の暗闇から廊下へと出て来た。
「一体なんなの、あんたたち!! 人の家に勝手に入り込んで、礼儀がないにも程があるでしょう!!」
物置から這い出てきた俺をひと目見るなり、待ち構えていた母親が、狂ったように髪を振り乱して怒鳴り叫んできた。
上品に着飾った仮面が完全に剥がれ落ちて、醜いヒステリックな素顔が剥き出しになっている。
だけど、あれほどカチンときていた俺の怒りのメーターは、もう完全に振り切って燃え尽きてしまったようで、もうその言葉に怒りは湧いてこなかった。
ただ、怒りの後に、底のない深い深い悲しみだけが、津波のように俺の胸の奥へと押し寄せてきていた。
俺はもう、この人たちに向けて何かを言い返す気力すら無くなっていた。もう、できることなら今すぐこの場を去りたい。
何かしたところで、もう圭介は戻ってこないし、すべて意味を持たないのだ。
こんなドス黒い悪意に満ちた気持ち悪い場所には、一秒たりともいたくなかった。
だが、最後にこれだけは、言わなければならないことがあった。
「圭介は……小さい頃、あなたたちに理不尽に怒られた時、誰にも見つからないような場所にこっそり傷をつけて耐えていたんです。
……それが、さっきの暗い物置の中に、びっしりと残っていました。
ここが、あいつの本当の部屋だったんですね」
その瞬間、着飾っていた母親の顔が、見る見るうちに青ざめていくのが分かった。何かを必死に言い訳したげに口元を震わせているが、うまく言葉にできないようで、ただ醜く立ち尽くしている。
「あいつ、あなた方のことを一度だって悪く言ってなかったですよ」
この冷酷な親たちへのせめてものあてつけのようにその言葉を叩きつけると、俺は母親の横を静かに通り過ぎ、付き添ってくれる達樹とともに赤い絨毯の階段を下り始めた。
あんな地獄のような部屋で育った圭介は、死んだことで、ようやくその辛い人生から解放されたのだろうか。
……いや、だからといって、あいつが死んでよかったなんて、俺は絶対に、天地がひっくり返っても思えない。
ゆっくりと一段ずつ階段を下りていくうちに、達樹の手の温もりのせいだろうか、張り詰めていた俺の心も、少しずつ静かな落ち着きを取り戻し始めていた。
一階まで下りると、さっきの広々とした部屋が嫌でも目に入る。
圭介の父親は、我が子の凄惨な過去が暴かれたというのに、相変わらずあの大きなテーブルで優雅にコーヒーを啜りながら、他人のようにスマートフォンを無関心に触り続けていた。
父親が優雅にコーヒーを啜りながら、こちらにチラと冷淡な目をやった。
「気は済んだかね。もし仮に、うちが虐待をしていたとしても、本人がもう死んでいるんだから証明は難しいだろうね」
法的な正論を盾にして、どこまでも醜く勝ち誇るその男の顔を見つめながら、俺の口元には、思わずフッと静かな笑みが浮かんでいた。
「本当に……あなたは可哀想な人ですね……。
いや……一番、可哀想なのは、そんなあなたの元に産まれた、圭介か……」
俺が遺したその最後の言葉に、父親の眉間の皺がピキリと不快そうに跳ね上がるのが見えた。だが、俺はもうその顔を二度と振り返ることはしなかった。
お城の形をした最悪な檻の玄関を抜けて、外へと一歩を踏み出す。
外の空気は、あの物置の闇の中よりもさらに冷たく凍てついていたけれど、家の中よりは断然マシだった。
そして、身体の奥底から込み上げる吐き気と絶望のあまり、俺はもう、歩くことがやっとのような気がした。
今にも崩れ落ちそうになる俺の肩を、達樹がすかさずその大きな手で支えてくれる。
「巧、大丈夫か……! ほら、車に乗ろう…」
不信感も、恐怖も、もうこの時の俺の頭からは綺麗に消え去っていた。ただ、この圧倒的な温もりに縋り付いて、この腕の中で眠ってしまいたい。
そんな底なしの依存の沼へと、俺の心は自ら進んで、深く深く沈み始めていた。
達樹が運転席に乗り込み、俺も助手席へ体を滑り込ませようとした、まさにその時だった。
「立花さん……っ!!」
背後から、息を切らしたひどく掠れた声が響いた。
振り返ると、年配の家政婦の梅崎さんが、お城のような屋敷の玄関からこちらへと必死に走ってきていた。俺の目の前にたどり着くと言葉を失ったように、ただ深々と、何度も頭を下げた。
「旦那様や奥様が……あんな酷いことを申し上げて、本当に、本当に申し訳ありませんでした……」
「いえ……そんな……。あなたが頭を下げる必要なんてないですよ。あなたが悪いわけでは、決してないですから……」
俺が慌てて肩を支えようとした、その時だった。
ガバッと顔を上げた梅崎さんは、隣の運転席にいる達樹の視線を盗むようにして、素早く、そして驚くほどの強い力で俺の両手をギュッととり、俺の耳元で消え入りそうな小さな声で囁いた。
――一人で、ここへ来てください。
「え……?」
俺が目を見開いた瞬間、梅崎さんはその硬く握りしめた俺の手のひらの内側へ、小さく折り畳まれた一枚の紙切れを、滑り込ませるようにして強く握らせてきた。
俺が驚愕に表情を強張らせるのを一瞬だけ見つめると、梅崎さんはもう一度だけ深く頭を下げ、何事もなかったかのように、足早にあの重苦しいレンガ造りの屋敷の中へと戻って行ってしまった。
パタン、と遠くで玄関の扉が閉まる。
俺の手の中には、温かい皮膚のぬくもりと、四角く折られた冷たい紙の感触だけが、生々しく残されていた。
「巧? どうしたんだ、早く乗れよ。寒いだろ」
運転席から、達樹がいつもの優しい笑顔で首を傾げてこちらを覗き込んでいる。
「ああ……うん。ごめん」
俺は手の中の小さな紙切れを、達樹に見つからないように上着のポケットの奥深くへと急いで隠し、吸い込まれるように助手席のシートへと乗り込んだ。




