圭介の孤独
一気に階段を駆け上がり、俺は迷わず左の奥を目指した。
けれど、一番奥の扉の前に立った瞬間、俺の右手がピタリと止まる。
……本当に? ここが、あいつの部屋なのか?
それは、お城のような外観とはあまりにも不釣り合いな、ただの狭くて薄汚れた物置の扉だった。
戸惑いの中、恐る恐る後ろの梅崎さんを振り返ると、彼女はただ静かに、涙を流しながら深く頷いた。
ゴクリと乾いた唾を呑み込み、ノブに手をかける。
よく見ると、扉の外側には、かつて南京錠か何かの頑丈な鍵が取り付けられていたのであろう、不自然なビスの穴が数カ所に渡って深く抉れていた。
手のひらに力を込め、重いドアを内側へと押し開ける。
――そこにあったのは、一畳ほどの、文字通り何も置かれていない冷たいコンクリートのスペースだった。 当然のように窓など一つもなく、そこには日の光が絶対に届かない、完全な真っ暗な『小さな闇』が作られていた。
扉を開けた瞬間に、長い間放置されていた埃っぽさ、そしてカビの生臭い匂いが、津波のように一気に溢れ出してくる。
「あははは……! そんな物置みたいなところが、あの子の部屋のわけないでしょう?」
その時、一階から追いかけてきた母親の、余裕を取り繕うような甲高い声が廊下に響いた。そして、息を激しく切らしながら、乱れた長い髪を手で必死に整え、醜い顔を歪めてこちらへ歩いて来ている。
俺は中の異様さに一瞬だけ怯みそうになったけれど、パッとスマートフォンのライトを点灯させると、自らその狭い闇の奥へと深く潜り込んだ。
カビと埃の匂いに耐えきれず、思わず腕で口と鼻を強く覆う。
そして、圭介の遺したあの言葉を必死に思い出しながら、内側からバタンと扉を閉め切った。
――『バレないように、ドアの後ろの下の、見えにくい場所にこっそり傷を付けてたんだ』――
その場所が。あいつが命を削って耐え抜いた証拠が、きっとこの闇のどこかにあるはずだ。
俺は狭い空間の中で身を屈め、注意深く、扉の裏側の足元をスマートフォンの白いライトで静かに照らしてみた。
次の瞬間、光の輪の中に、それは突如として生々しく現れた。
床下にほど近い、外からは死角になる扉の隙間の壁。そこへ、何か硬いもので、あるいは爪で、執念深く削り取られた無数の小さな傷跡が、数え切れないほどびっしりと現れたんだ。
まだ骨も柔らかい幼い子供が、冷たい拒絶の扉の前に一人きりで座り込み、開けてもらえない闇の中で、血を流しながら、黙々と壁に爪を立てていた姿が簡単に脳裏に想像出来てしまった。
幼い圭介を強く強く抱き締めてやりたくなった。
子供の圭介、その小さな手、傷を付けることで自らの皮膚にも無数についたであろう血の跡。
……いや、身体の傷だけじゃない。あいつは、この壁の傷の分だけ、全く同じように、その柔らかな心も完膚なきまでに傷つき、すり潰されていたのだろう。
これは、圭介の人生の孤独と心の傷を、そのまま完璧に可視化したような地獄の縮図だった。
――ボロボロと、ダムが決壊したかのように、俺の目から涙が溢れて止まらなくなった。
こんな狭くて息もできない苦しい空間に、実の子供を放置して鍵をかけていたなんて。
どんなに泣いて助けを求めても、あの親たちには絶対に助けてもらえないと幼心に悟り、いつしか泣き叫ぶことすら諦めて、ただ一人で、暗闇の中で孤独を噛み締めていたに違いない。
「……あぁ、そうか……」
喉の奥から、血を吐くような嗚咽が漏れる。
あいつが高校に入った途端、実家に寄り付かなくなり、あちこちの女の家を渡り歩いて生活していた本当の理由は、これだったんだ。
これじゃ、勉強なんか出来るわけがない。家を捨て、女に身体を売って泥水をすするような生活をしながら、それでも必死に教科書を開いて、あいつは自力で大学に受かったのだ。
ブランド物で身体を固めてヘラヘラ笑っていたのは、この部屋の惨めな自分を世界から隠すための、あいつの最後の武装だったんだ。
圭介……お前は、どんなに辛かった?
どんなに、寂しくて孤独だった?
あのクリスマス翌日の部屋で、お前が近づいてきてくれた時、もっと、もっとちゃんとお前を抱き締めてやれば良かった。お前のその深い孤独を、俺のこの身体で埋めてやればよかった。もっと、たくさんお前の話を聞いてやれば――。
――どんなに今更後悔して、泣き叫んだところで、
もうお前は、この世界のどこにもいないんだな。




