置き土産
女性刑事が、バッグから取り出した透明なビニール袋を静かに机の上に置いた。
「これは、亡くなった圭介さんのスマートフォンです。警察としては捜査も終わり、あとは処分するだけでしたので……。
良ければ、一番親しかったあなたが持っていてあげてください」
「え……!? 俺がですか!? 俺なんかで……本当にいいんですか? 圭介のご両親とかは……」
遺品なのだから、真っ先に実家の両親に返されるべきはずの物だ。俺がそう戸惑うと、女性刑事はふっと視線を落とし、言いにくそうに目を泳がせた。
「……ご両親には、受け取りを断られてしまいまして。そんなものはいらない、と……」
我が子が遺した最期の遺品を、いらないと切り捨てる両親。その異常な冷酷さに一瞬だけ強い違和感を覚えたが、俺がそれに触れるよりも早く、机の上のスマートフォンへと手を伸ばした。すると今度は、横の男性刑事が静かに口を開く。
「データなどを削除した形跡は一切ありませんでしたので、そこに残っているものが彼の全てだと思います。
それとね……容疑者の女性から、圭介さんの端末へ何度も何度も執拗にかかった着信履歴が残っていました。……もしかしたら、彼女はあなたと間違えて、圭介さんの番号にかけ続けていたのかもしれません。
あなたの端末には、彼女からの着信履歴は一切なかったようですので……」
ほのかが、俺と間違えて圭介に電話をかけていた?
もしそうなら、全ての辻褄が合ってしまう。あの飲み会の後、ほのかに『俺の連絡先』として誰かがわざと圭介の番号を教えていたとしたら。 女遊びの激しかった圭介なら、知らない女から何度もかかってくる番号なんて、まともに相手もせず雑にあしらったに違いない。
そして、ほのかはその『雑にあしらわれた拒絶』を、あの日朝まで一緒に過ごした俺にされたのだと、狂気の中で思い込んでいたとしたら――。
誰かが故意に圭介の番号を教え、ほのかの殺意の刃が圭介へと向かうように、最初からすべてを裏で仕組んでいたとしたら……。
「立花さん? ……大丈夫ですか? すごく顔色が悪いですが……」
激しい思考の渦に呑み込まれていた俺は、女性刑事に心配そうに顔を覗き込まれて、ハッと我に返った。
俺のその様子に、彼女は思い出したようにポツリと言葉を付け加える。
「ああ、それともう一つ。圭介さんの端末、バックグラウンドのアプリで、外部から常にGPSで行動を監視されていたようなんです。
立花さんの端末からはアクセスされた形跡がなかったので、あなたでないことは分かっているのですが……。
結局、その監視していた相手の特定までは、捜査段階では分からずじまいでした」
監視アプリのGPSまで……。
あの日から俺の頭の中にバラバラに散らばっていた、鋭利なガラスの小さな破片たちが、一つの巨大な「最悪の真実」の形へと、恐ろしい音を立てて元に戻っていくような奇妙な感覚に陥る。
このガラスのパズルが完全に元の形に戻った時、すべての真相が白日の下に晒される。
そんな確信があるというのに、俺の心のどこかでは、これ以上は何も分かりたくない、現実を見たくないという臆病な拒絶の気持ちが、同時に激しく湧き起こっていた――。
「今、ほのかは……どうしてるんですか?」
ふと脳裏をよぎった一番の疑問を、俺は掠れた声で尋ねてみた。
刑事さんたちは一瞬、二人で重苦しく顔を見合わせた。やがて、女性刑事のほうが何かを躊躇うようにゆっくりと口を開いた。
「まだ……精神状態が芳しくなくて、まともな取り調べができない状態なんです。
元々、心療内科への受診履歴も複数確認されていましたので、かなり前から精神的に不安定な状態だったのかもしれません。
……そうなるとね、その、裁判で責任能力が認められないと判断される可能性が極めて高くて……」
その先の言葉を濁されたけれど、彼女が何を言わんとしているのかは嫌というほど真っ直ぐに伝わってきた。
人を刺しておいて、お咎めなしで社会に戻るかもしれない。
その最悪な現実に俺が息を詰めていると、男性刑事もやるせなさを吐き出すように補足した。
「人々の目の前で人を殺しておいて、精神疾患を理由に無罪になるというのは……正直、現場で捜査をしている私たちとしても、どうしても納得がいかないのですがね」
「……そう、ですね」
やりきれない憤りと虚しさが胸の奥に重く澱む。圭介を殺したほのかへの怒り以上に、あいつの精神の脆さすら利用して、何食わぬ顔で外で生きている『本当の黒幕』の冷徹な存在が、より一層際立って感じられたからだ。
事件の当事者でもないこの刑事さんたちでさえ、こんなにも理不尽な現実を前にして、静かに唇を噛んで耐えている。
その事実だけが、冷たい水のようにじわじわと俺の心へと染み入るように伝わってきた。
会話が途切れ、リビングが急に一気に静かになった。
そのせいで、さっきまでは全く聞こえてこなかった、壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、時を刻むナイフのようにやけに大きく、カチ、カチと俺の耳に入り込んできた――。
刑事さんたちは俺と簡単な挨拶を交わし、「何かあったら、すぐに連絡してくださいね」と、警察の定番の言葉を遺して帰って行った。
玄関の扉が閉まる音が、しんと静まり返った家の中に虚しく響く。
俺は自分の部屋へと戻り、机の上に置いた圭介のスマートフォンを、壊れ物を扱うように丁寧に触れた。
スマホからは無機質な匂いしかせず、圭介の色気のある香水の匂いはもうしなかった。
側面の電源ボタンを長押しすると、液晶画面が淡い光を放ち、充電53%の無機質な文字が浮かび上がる。 映し出された待ち受け画面。
そこには、あの完璧に整理整頓されたリビングで、我が物顔で佇んでいたあの真っ白な猫の姿があった。
――ユリア。あの白猫は、今頃どうしているんだろう。
ふとそんな疑問が頭をよぎったけれど、もうそれを聞くべき主はいないし、孤独に残されたあの猫の行き先を知る手だてなんて、この世界のどこにも残されていなかった。
他人のスマートフォンを勝手に覗き見るという、倫理に反した行為。その生々しい背徳感に、胸の奥がチクリと痛むような、少なからぬ罪悪感を覚える。
けれど、俺は震える指先で画面をスワイプし、あいつのプライベートへと深く足を踏み入れていった。
メッセージのタイムラインや写真のフォルダを、ただ淡々と流し見ていて、すぐに気付いた。
俺が圭介の家に毎日通うようになってからのこの五日間、あいつのスマートフォンの画面の記録は、嘘みたいに俺に関係することだけでいっぱいになっていたんだ。
俺が夕方からバイトをしたり、夜中にミケに会ったりしている間、あいつはいつものように女を部屋に連れ込んで、ヘラヘラと遊んでいるのだろうとばかり思っていた。
だけど、そんな気配は、どこをどう探しても、ただの1ミリだって残っていなかった。
「……俺ばっかりじゃんか」
液晶の光に照らされながら、誰もいない孤独な部屋に、ぽつりと一人呟きが漏れ出た。
あいつは本当に、俺がそばにいることだけを、心から純粋に喜んで、退屈な冬休みの中、ただ待っていたのだ。
その温かさに胸が締め付けられそうになった瞬間、俺はハッと思い出し、血の気が引くのを感じながら通話アプリの着信履歴をタップした。
十二月三十日、あの運命の日のログへと画面をスクロールしていく。
……やっぱり、ない。
事件当日、圭介の端末から達樹の番号へ連絡した形跡なんて、発信も着信も、履歴には一つも残っていなかった。
もう、ここまで数々の不気味な証拠が揃ってしまえば、正直に言って今更驚くようなことは何もなかった。
「嘘だろ」と絶望するよりも先に、「あぁ、やっぱりな」という、冷徹で確信に満ちた諦めの気持ちのほうが、今の俺の胸の奥を強く支配していた――。




