退院日のお迎え
達樹はカーテンを開けるなり、俺の足元にあった大きめのバッグ二つを「ほら、貸せよ」と手際よく両手に持ってくれた。
もう右腕のカットバンも外れて痛みはほとんどないから、自分の荷物くらい自分で持てると小さく抵抗したが、あいつは「病み上がりなんだから無理すんな」と笑って、頑として持たせてはくれなかった。
達樹の歩く歩幅が大きいので、並んで歩く俺は自然と少し早足になる。
病棟の廊下のピカピカに磨き上げられた床は、天井の白い電灯の灯りをこれでもかと鋭く反射していた。
達樹の顔をまともに見られず、下ばかりを向いて歩いている今の俺の瞳には、その床の照り返しがひどく眩しく、どこか痛々しく感じられた。
入院したあの日、あれほどツンと鼻を突いた独特のアルコールの匂いにも、いつの間にか身体が慣れきってしまっていて、もう何も感じなくなっている自分に気付いた。
正面玄関の、外の世界へと繋がる大きな自動ドアが、静かに左右へと開いたその瞬間。
――ヒュウッ、と、真冬の暴力的に冷たい風が、容赦なく俺の顔面へと否応なしにぶつかってきた。
あまりの寒さに思わず身を縮めると、前を歩く達樹の大きな背中が、俺の視界を遮るようにすっと前に出た。達樹の広い背の陰に隠れるようにすると、あれほど痛かった冷たい風は、嘘のようにピタリと感じなくなった。
「……寒いな、やっぱり」
前を向いたままの達樹の掠れた声が、吹きすさぶ風の音と一緒に流れていく。
ここ数日の間、俺は病院の中の、あの徹底的に管理された心地よい温度の中でしか過ごしていなかった。まさか、一歩外へ出た現実の夜が、こんなにも厳しく、冷酷な世界になっていたとは思いもよらなかった。
病室のベッドにいても、窓を揺らす風の音は嫌というほど聞こえていたし、空から降る白い雪だって確かに目に映っていた。
だけど、暖房の効いた安全な部屋の中で、いくら外の寒さを頭で想像したところで、実際の肌が感じるリアルな体感には、到底程遠すぎた。
達樹の車の助手席に乗り込む。大学に入ってから何回か乗せてもらったことがあったけれど、久しぶりに嗅ぐこの空間の匂いに、俺はやや緊張していた。
達樹は子供たちにフットサルを教えているはずなのに、車内には男くさい汗臭さなんて微塵もなくて、いつだって洗いたてのシーツのような爽やかな匂いがするのだ。
この席に座ると、かつて圭介と三人でくだらない冗談を言い合いながらドライブに出掛けた楽しかった記憶が、不意に脳裏をよぎってしまう。
だが、思い出すだけで胸の奥が引き裂かれるように苦しくなるので、俺は慌てて全く違うことを考えようと頭を振った。
少しだけ涙ぐんでしまった瞳を見られないよう、助手席の窓側へと顔を背けて、外の景色をじっと見つめるふりをした。
確か、病院を出たのは昼の15時を回ったところだった。
外は、冬らしい灰色の分厚い雲に一面を覆い尽くされた重苦しい曇り空。夜になったら、またあの冷たい雪が激しく降ってくるのかもしれない。勢いを増した冬の風が、走行する車の窓をガタガタと無遠慮に揺らし続けている。
赤信号で車が滑らかに停車した瞬間、ハンドルを握ったままの達樹が、心配そうにこちらを覗き込んできた。
「大丈夫か、巧?」
達樹の優しい声に弾かれたように我に返った俺は、自分の歪みそうな表情を必死に押し殺し、完璧に作った作り笑顔を達樹へと向けた。
「うん、大丈夫。だいぶ身体も動かせるようになったし……。
それよりさ、入院中も、今日も……毎日本当にありがとうな」
タイミングよく信号が青に変わり、車が静かに前へと動き出した。そのおかげで、これ以上達樹と深い目線が合うことはなかった。
前方の道路を真っ直ぐに見つめたままの達樹が、いつものすべてを包み込むような、あの優しい笑みを口元に浮かべる。
「そっか。……なら、良かった」
しばらく重苦しい沈黙が続き、車のゴーッという走行音だけが、やけに大きく耳に入ってきた。
「達樹……、圭介のお葬式……行った?」
本当は、ずっと前から気づいていたんだ。姉も、達樹も、周りのみんなが俺に気を遣って、あの日から一度も圭介の話をしようとしないことに。
たとえ、あのほのかという女がやったことだとしても、その引き金を作ったのは俺なのだから、俺が圭介を殺したようなものだとすら思っていた。
俺の問いかけに、達樹の声のトーンがすっと下がり、温度をなくした無機質な音が聞こえた。
「行ったよ……」
「そっか……。俺も、お参り……とか、行けないかな」
「え? ……ああ。行けないこともないと思うけど……。まだ四十九日前だから、たぶん実家に行けば……」
一気に車内の空気が、目に見えるほど重くなったのがリアルに分かった。
俺が病院で何もできずに寝ている間に、通夜も葬式もすべて終わってしまっていた。このままここで何もしなければ、時の流れに押し流されて、あっという間に圭介の存在が世界から忘れ去られてしまいそうな、そんな強烈な不安感に襲われたのだ。
せめて、実家にお参りにさえ行ければ、自分の中で何らかのけじめがつきそうな気がした。
重苦しい空気のまま、車は俺の家の前に着いた。達樹がゆっくりとサイドブレーキを引き、いつものすべてを包み込むような優しい笑顔で、助手席の俺を見下ろしてきた。
「じゃあ、俺が向こうの親に連絡をとって、いつならお参りに行けるか確認しとくからさ」
「え!? 本当にいいのか!?」
俺が顔を上げると、達樹はますます愛おしそうに目を細めて、その大きな手で俺の頭をぽんぽんと優しく撫でてきた。
あいつの手のひらの圧倒的な温もりに、張り詰めていた俺の心が、また少しだけ達樹のほうへと傾いていく。
「ああ、このくらい大丈夫だよ。それと……ネックレスだけど……」
そう言いながら、達樹は自分の上着のポケットへと、静かに手を滑り込ませ始めた。
「え!? ネックレス、あったのか!?」
ミケにもらったネックレスが見つかった喜びで、俺は居ても立ってもいられなくなって、思わず達樹のジャケットの袖を両手で強く掴んでしまっていた。
「あー……いや、探したんだけど、やっぱり分からなかったから、コレ……」
達樹がポケットから取り出したのは、俺の月のネックレスではなく、綺麗に小さく包装された見知らぬ小箱だった。
「退院祝いも兼ねてさ。……ほら、やるよ」




