ネックレス
その深夜、達樹からメッセージが届いたのをスマートフォンの鋭い振動が伝えてくる。
静まり返った病室の暗闇の中でスマホを取り出すと、突如として放たれた眩しい光に、思わず激しく目を細めてしまった。
まだ明かりに慣れない瞳を必死に開き、不安と希望で心臓の鼓動がドクドクと速まるのを無理やり抑えつけながら、震える指先で画面をタップした。
『今、あの公園に来たけど、誰もいなけりゃ猫もいないよ。これだけ寒いんだ、誰か親切な人にでも拾われたんじゃないか?』
メッセージには、一枚の写真が添付されていた。
そこには、雪の残る暗闇の中で、いつもの橙色の街灯がポツンと誰もいないベンチを照らし出している光景が写っていた。
ずっと夜ごとに見続けてきたはずの景色なのに、スマートフォンのレンズを通した光の加減のせいだろうか、なぜか、全く知らない不気味な場所のように見えてしまう。
ミケに会えなかったという強い残念さはあるけれど、それと同時に、どこかホッとしている自分に気づきながら、俺は画面に指を動かした。
『遅くにわざわざありがとう。本当に、誰かに拾われてたらいいな』
本当にそう思った。心からそう願った。
俺以外の誰か。
ミケのことを心から大切に想ってくれる人が新しく出来て、もうこんな凍える夜の公園なんかに来る必要はなくなって、その人の温かい腕の中で温めてもらって、本当の安眠を手に入れることが出来たら……。
……なんて、それはあまりにも自分に都合が良すぎか。
ミケにとって都合がいいのか? いや、俺にとって?
だが、そうやって「俺以外の誰かの腕の中にいるミケ」の姿を頭の中で具体的に想像した、まさにその瞬間。
――胃の奥から吐き気を催すほどの、ドス黒くて強烈な拒絶感が、一気に俺の胸の奥へと襲いかかってきた。
これは、一体何なんだろう――?
――――――
退院を翌日に控えたその日。
数人の刑事さんがベッドサイドに来て、事件についてあれこれ聞かれた。主に俺たちがどういう関係だったかについてだった。
ほのかはまだ落ち着いて話が出来る状態ではないらしい。事務的な聞き取りで30分もしないうちに終わった。
その後しばらくして、退院後の自宅での傷口の注意事項や、風呂での処置などを説明するために、担当の女性看護師が俺のベッドサイドにやって来た。
次々に訪問があって既に気疲れしていたが、それを顔に出さないよう気をつけた。
彼女はベッドの横にあるパイプ椅子にゆっくりと腰を下ろし、手元にあるパンフレットのような物を使って、素人でも分かるように簡単に説明をしてくれる。
この看護師さんは、たまたま俺の姉と同級生らしく、そのお陰もあって入院中も何かと気さくに話しかけてくれていた。
一通りの事務的な説明が終わると、彼女はパンフレットを優しく閉じ、ポツリポツリと、少しトーンの落ちた真剣な声で話し出した。
「立花さん。……君が最初にここに運ばれて来たときは、本当にビックリしたんだよ。
お友達のことは、本当に残念だったけど……。
でも、君がこうやって生きててくれて、本当に良かった」
少し涙ぐみながら真っ直ぐに見つめられて言われると、つられて俺の目頭までもが急に熱くなってくるのを感じた。
涙が今にも溢れそうになってしまったので、俺はそれを誤魔化すように、消え入りそうな細い声で「ありがとうございます」と言うのが精一杯だった。
「じゃあ、明日お迎えが来るからね。お大事にね」
彼女はそう言って優しく微笑む。
ふと気付く。
――『運ばれて来た時』の俺を、この人は最初から知っている?
……それならば、もしかしたら。
その看護師さんが、ギシッと音を立て椅子から立ち上がり、カーテンの向こうへ戻ろうとしたまさにその瞬間、胸の奥にずっと引っかかっていた焦燥が、思わず衝動的に口から飛び出していた。
「あのっ……! 俺が救急車で運ばれていた時に、身に付けていたネックレスとか、知りませんか……!?」
気を失う直前、圭介の腕の中で血に塗れていたあの時までは、俺の首元に確かにあれがあったという確信はあった。
だが、病院に着いたその瞬間に、まだそれが残っていたかどうかは俺には分からなかった。だけど、もうこれしか手がかりがない。俺は半分、一か八かの賭けのような気持ちで、彼女の背中に言葉をぶつけてみたのだ。
看護師さんは立ち止まったまま、ふと記憶を遡るように小首を傾げて考え込む様子を見せた。
だが、すぐに何かを思い出したようで、パッと顔を輝かせてこちらに視線を向けてくる。
「……ああ! あの、小さな月が付いていたネックレスかな?」
「そうです! それです!! どこにあるか、分かりませんか!?」
看護師さんが言い終えるのを待ちきれず、俺は言葉を被せるようにして身を乗り出していた。
心臓が痛いくらいに速く脈打ち始める。
「え……? あれなら、あの人――えっと、毎日ずっとあなたのベッドの横でお見舞いに来てる、あのお友達に直接渡したはずだけど?
……あれ、聞いてない? だったら、親切に預かってくれたまま、渡すのをうっかり忘れちゃってるのかもしれないね」
「え……」
彼女のその、何の疑いもない優しい笑顔の言葉が、俺の耳の奥へ、ズシンと底知れない重さを持って響き渡った。
病室の空気が、まるで一瞬にして完全に氷結してしまったかのような、凄まじい悪寒が背筋を駆け抜けた。
――――――
――翌日。
元々は母親が車で迎えに来る予定だった。だけど、どうしても外せない急な仕事が入ってしまったらしく、代わりに達樹に迎えを頼んだから、と朝一番に母親からメッセージが入った。
昨日の夕方、あの女性看護師からネックレスの話を聞いてしまったこともあり、達樹がやって来る約束の時間が近付いてくると、自分が情けないほどに緊張し、心臓を硬く強張らせているのを自覚せざるを得なかった。
今まで、達樹に会うことで緊張したことなんて、これまでの人生でただの一度だってなかったというのに。
今日でようやく退院だ。俺はいつまでも馴染めなかった無機質な病衣を脱ぎ捨て、持ってきてもらった私服へと袖を通した。鏡の前で、伸びきった髪をいつも通りにきちんと整える。
床頭台の中やベッド周りに散らかっていた身の回りの荷物を全て片付け、なんとか大きめのバッグ二つ分に綺麗に纏めることが出来た。
そうして準備が終わってしまっても、じっと座っていると余計なことばかりを考えてしまい、どうしても心が落ち着かなかった。
俺は焦燥感から逃れるように、まだ呼ばれてもいないのに1階の会計窓口へ行って書類を確認したり、特に買う物もないのに無駄に売店まで行って店内をウロウロしたりと、退院直前の病棟を一人で忙しなく動き回っていた。
そして、約束の時間の十分前。
「おはよう、巧」
静まり返った病室に、いつもの達樹の、どこまでも爽やかで優しい声が響いた。
と同時に、シャッ、と軽やかな布の音を立ててクリーム色のカーテンが勢いよく開かれた。あいつの放つ圧倒的な光と温もりが、一瞬にして俺の視界と心をいっぱいに満たしていく――。




