達樹の優しさ
年末年始は病院で過ごすことになると言われた。
父さんや母さんも入院当初は心配していたが、俺は父さんたちの想像よりも、意外と元気そうに見えているらしく、安堵した表情を浮かべていた。
姉さんは数日に一回、着替えを取りに来ると言っていた。
だが、達樹は毎日、当たり前のように面会に来てくれている。
右手の包帯もすぐに取れて、大きめのカットバンのようなものに変わった。
お昼ご飯のトレイが運ばれてきた時、箸を持とうとしただけで右手にピキッと鋭い痛みが走って落としてしまった。
すると、それを見ていた達樹が、待ってましたとばかりに、どこか満足そうな笑みを一瞬だけ浮かべてすっと手を伸ばしてきた。
「俺がお前の右手になるよ」
あいつが少し照れながらそんな風に言うので、「ドラマかよ」と俺は笑ってしまった。
……でも、俺はいつ右腕を怪我したのだろう。
右脇腹はホッチキスのような物で縫われているらしい。抜糸をすれば退院出来るそうなので待つしかない。
あとほんの少し、刺された場所がズレていたら、臓器に接触して命の危険があった、と姉が血管の名前などまで使って丁寧に教えてくれるが、全然頭に入ってこなかった。でも、さすが看護師だなと思った。
一月二日。
あっという間に、『よいお年を』も『あけましておめでとう』も終わった。
朝から窓の外を見るとチラチラと雪が降っていた。外の冊子にふんわり積もり始めている。だが、雲の隙間から太陽が細く差し込んでいるので積もることはないだろう。風が気まぐれに吹き荒れ、雑に窓を揺らし、木の葉をぶつけていく。
――ミケは……ミケはどうしているだろう。
毎日行っていた公園。もう三日は行くことが出来ていない。
ずっと俺を待っていないだろうか。あの厳しい寒さの中に、一人で凍えてはいないだろうか。
俺がこうして刃物で刺され、病院のベッドに伏せっていることなど、彼女は知らないし、知る手段もない。
だが、もし次に会えた時、俺は一体どうすればいいんだろう。
『行かない、行かないから……』と、あれほど必死に約束したのに、俺はあいつを裏切って圭介の元へ通い詰め、挙句の果てに最悪の悲劇を目の前で引き起こしてしまった。
そもそも、ほのかは俺を狙ってきた。俺がすべての原因だったのだ。俺が圭介の元に行かなければ、あの凄惨な結末は招かれなかったのかもしれない。
それとも、俺が行かなかったとしても、運命のルートの先で、圭介は別の何かによってどのみち命を落としていたのだろうか。
考えても決して出るはずのない答えを、いつの間にか暗闇の中で探し続けている自分がいる。
大部屋の病室ではずっとカーテンを閉め切ったままにしているので、空間だけを見れば、まるで小さな一人部屋のようだった。だが、薄い布一枚を隔てた同室の人々の生々しい生活音は嫌でも聞こえてくるので、どうしても気を遣ってしまう。
少しでも早く、この息苦しい場所から退院したかった。
「おはよう、巧」
達樹は周囲の患者を気遣うように、声をひどく小さく潜め、クリーム色のカーテンを優しく開けて病室に入ってきた。
毎日、だいたい同じ時間。あいつは大晦日も、そして正月という特別な日ですら、当たり前のように俺の元へ来てくれた。自分自身の生活だってあるだろうに、毎日こうして足を運んでくれるのは素直に嬉しい。
だけど、年末年始という時期もあって、どうしても申し訳なさが先に立ってしまう。
「達樹……、毎日来なくていいよ。来てくれるのは本当に嬉しいし、ありがたいんだけど……なんか、色々と申し訳ないし。
それにさ、来週にはもう退院出来そうだし」
コンビニで買ってきたのであろう飲み物を、病室の小さな冷蔵庫に手際よく入れている達樹の手が、ピタッと止まった。あいつは静かにこちらを振り返る。
「いいんだよ、そんな気ぃ遣わなくて。
……俺がさ、毎日お前に会わないと、どうしても心が落ち着かないんだって」
あいつにそんな風に優しい笑顔で真っ直ぐに言われて、思わず申し訳なさそうに強張らせていた俺の表情が、不意にほころんでしまう。
胸の奥にじんわりと温かい気持ちが広がり、この達樹が作ってくれる閉ざされた空間が、ひどく心地の良いものに思えてくる。
「……ありがとう」
――達樹に、なら。この優しいあいつにだったら……、あの秘密を少しだけ頼んでもいいだろうか。
「あのさ……達樹」
「ん? 何だ?」
達樹は冷蔵庫の扉を閉めると、ベッド横のパイプ椅子に腰掛け、俺の顔を覗き込んできた。
あいつの綺麗な瞳に真っ直ぐ視線を向けられ、妙に緊張してしまい、自然と心臓の鼓動がドクドクと速くなる。
「無理なら、本当にいいんだけど……。
俺の家のある、住宅街の端の公園にさ……夜、行ってみてほしいんだ」
「え!? なんでそんな場所に? 夜に?」
「えっと、それは……」
達樹が露骨に驚いた顔を見せたので、俺は急に冷や水を浴びせられたように我に返った。
そうだよな……いきなり、夜の公園を見に行ってくれなんて、そんな気味の悪い頼み、普通なら聞いてもらえるはずがない。
「そこに、なんかいるのか?」
達樹のその静かな一言に、俺はハッとして、とっさに言葉をこじ開けた。
「そう!! いるんだよ!! ミケ……猫がさっ!!」
焦りのあまり思わず声を大きくしてしまい、同室の患者たちの存在を思い出して、俺は慌てて自分の口を両手で押さえた。
達樹は、俺のその慌てた様子を見て、カラッとした明るい声で笑った。
「ハハッ、なんだよ。お前、相変わらず優しいな。じゃあ、今夜にでも見に行ってやるよ。キャットフードか何か、餌でも持って行こうか?」
「いや……餌はいいんだ。すっごく人見知りだから、近づいたらすぐ逃げちゃうと思う。だから、遠くから姿があるかどうかだけ、見てくれないかな?
そこにいるって分かるだけで、俺はいいから……」
必死に話しながら、俺はいつもの癖で、自分の首元へと無意識に右手を伸ばした。
――……ない。
指先が探り当てたのは、自分の冷たい皮膚だけだった。
ミケがクリスマスにくれた、あの『月』のモチーフのネックレス。あの日から、愛おしくてずっと肌身離さず付けていたのに。あの凄惨な事件の日だって、絶対に首に巻いていたはずだ。
だって、もらったあの日から、一度だって外したことなんてなかった。
自分の顔から、一気に血の気が引いていくのがリアルに分かった。心臓が不穏に跳ね上がる。
今度は、周囲に響かないように声を極限まで抑え込み、必死の形相で達樹に話しかけた。
「なあ、達樹……っ! 俺が付けていた、あの月のネックレス、知らないか!? どこかで見てない!?」
達樹は一瞬だけ、本当に一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの、すべてを包み込むような優しい笑顔に戻った。
「そんなネックレス、お前してたっけ?
……うーん、見てないな。あの現場の騒ぎだ、どこかでチェーンが切れて落としたんじゃない?」
「そう……なのかな……」
現場にずっと付き添ってくれた達樹が見ていないということなら、病院に運ばれる前の、あの血の海の中で落としてしまったのだろうか。
俺は確認するように、首の周りの皮膚を何度も指先でなぞってみた。だが、そこには痛みも、擦り傷一つすら残っていない。
もしあの時、ほのかに無理矢理むしり取られたり、何かに強く引っ張られて外れたのだとしたら、細い首の皮膚には何らかの傷跡が残るはずなのに。
俺が困惑に沈んでいると、達樹はパイプ椅子から立ち上がり、「じゃあ、今夜その猫、約束通り見に行ってくるわ」と、笑顔で優しく手を振って病室を去っていった。




