喧騒の果てに
――ドスッ!!!
静止した世界の中で、肉体を無残に切り裂く鈍い音が響き渡り、圭介の顔が激しい苦痛に歪んだ。
もし、その一回きりの衝撃の時点で、あいつが反射的にその場から逃げ出していれば、ほのかを振り払って走り去っていれば、あいつは確実に助かっていたはずだった。
だが、圭介は逃げなかった。 あいつは俺との距離をさらに詰めるようにして、俺の身体の上に覆いかぶさり、盾になるようにしてその場を頑なに動こうとはしなかった。
――ドスッ、ドスッ、と。
圭介の背後からさらに数回、肉に刃が埋まる重い音と、その凄まじい衝撃の振動が、密着したあいつの身体を通じて、俺の肌へとダイレクトに伝わってくる。
それと同時に、生臭い血の匂いが辺りに立ち込め、生温かい大量の液体が、俺の衣服を、身体を、容赦なく濡らして伝っていった。
その時ようやく、事態を察した周囲の男たちが、狂った女に向かって数人がかりで猛烈な体当たりを食らわせた。
女は悲鳴を上げて吹き飛ばされるようにアスファルトの上を転がり、ようやく圭介の背中から引き離された。
女が離れた瞬間、圭介はもう自分の身体を腕で支えることが出来なくなり、俺の上にすべての体重を預けるようにしてドサリと倒れ込んできた。
すぐ耳元にあいつの顔がきて、耳のすぐそばで、途切れ途切れの短く浅い呼吸の音が聞こえてくる。
「けい……すけ……っ」
喉の奥の塊を必死に押し退けて、ようやく掠れた声が口から溢れ出た。
震える右手を圭介の背後へと恐る恐る回すと、指先に、生温かくてドロりとした大量の不気味な感触が触れた。
あいつの命が、俺の手の中で信じられない勢いで溢れ出ている。
その時だった。俺の胸の中で、圭介がフッと、本当に微かに笑ったような気がしたんだ。
そして、その今にも消え入りそうな最後の浅い呼吸を吐き出すのと同時に、弱々しい言葉が俺の耳の奥へと滑り込み、鼓膜を優しく揺らした。
「……そばに、いて、くれて……ありが、とう」
お前の方がそばにいてくれたし、守ってくれたじゃないか……何と言ったらいいかわからなくなって胸が苦しくなる。言葉が喉の奥でつっかかって、出てこない。
愛おしさと絶望のあまり、右手でギュッとあいつの血濡れた背中を強く抱き締めた。
だが、それと同時に、俺の頭の芯からも急速にスーッと血の気が引いていき、視界が急激に暗くなっていく。
遠くの地平線から、波のように近づいてくる救急車のサイレンの音。
そして、俺の胸の中で、どんどん小さく、細くなっていく圭介の最期の呼吸。
その二つの音が重なり合いながら、俺の意識は、冷たい現実と、底のない深い夢の境界線をゆっくりと彷徨い始めていた――
――――――
次に目を覚ました時、消毒液の特有の匂いがツンと鼻を刺した。
視界に飛び込んできたのは、見慣れない真っ白な壁に、真っ白な天井。そして、ベッドの周りを囲むクリーム色のカーテン。
――あぁ、俺は病院にいるんだな。
すぐに状況は理解できた。と同時に、右の脇腹にズキッと焼けるような鋭い痛みが走り、俺は声を押し殺しながら慌ててそこを手で押さえた。包帯が厚く巻かれているのが服の上からでも分かる。
重い身体を起こすことは諦め、ぼんやりと天井を見つめていると、不意にクリーム色のカーテンがわずかに揺れた。
誰かが入ってきたのだと直感した、次の瞬間。
「巧!! 気がついたのか!?」
「達樹……? なんで、ここに……」
冬休みに入ってからは、ずっと圭介の家に入り浸っていたせいで、達樹とこうして顔を突き合わせるのは本当に久しぶりだった。いつもの変わらない優しい笑顔を見た瞬間、心の奥底から込み上げてくる懐かしさと安心感に、視界が涙で滲みそうになった。
あの日、圭介の血で染まった商店街の絶望から、ようやく現実へと引き戻されたような気がした。
達樹にこれ以上心配をかけまいと無理に身体を起こそうとしたが、またしても右腹に引き裂かれるような激痛が走り、俺は大人しく仰向けの体勢へと戻った。
達樹は、俺が生きていることに心底ホッとしたような安堵の表情を浮かべながら、ベッドの横の椅子に腰掛けて静かに話し出す。
「実はさ、あの日の昼過ぎに、圭介から急に連絡があったんだよ。『今日、巧と一緒に外に出掛ける用事があるから、お前も商店街に今すぐ来い』ってさ」
「ああ……そっか。そうだったんだ……」
あいつ、俺には内緒で達樹も誘っていたんだな。正月気分を三人で味わおうとでも思ったのだろうか。
あいつの不器用なサプライズを思い出して胸が締め付けられそうになった、まさにその時だった。
――シャッ!!!
勢いよくカーテンが開け放たれ、見慣れた顔が怒りを含んで飛び込んできた。看護師をしている、俺の姉だった。
「もーっ!! あんたって子は、ほんっとに心配ばっかりさせて!!」
姉はヒステリックに声を荒げながらも、その瞳にはうっすらと涙を浮かべていた。
「達樹君には、ちゃんとお礼言いなさいよ! あんな凄惨な事件があって、あんたが倒れてた商店街の現場から、救急車にまで一緒に乗り込んでずっとここまで付き添ってくれたのよ?
それからあんたが目を覚ますまで、ずーっとそばにいてくれたんだからね!」
姉はそう一気に捲し立てると、少し照れくさそうにしている達樹に頭を下げ、手際よく持ってきた着替えやタオルをベッド脇の床頭台へと片付け始めた。
商店街のあの血の海から、ずっと――。
「達樹、本当に……ありがとう……」
俺はベッドに横たわったまま、心からの感謝を込めて、あいつの優しい瞳を見つめ返した。
「圭介は……? 」
俺が絞り出したその一言で、部屋の中にいた二人の動きがピタッと止まった 。
まるでそこだけ世界の時間が完全に停止してしまったかのように静まり返り、天井の空調が吐き出すゴォォォという不快な風の音だけがやけに大きく耳に届き始める 。カーテンの向こうから、廊下をパタパタとせわしなく歩いていく誰かの足音が遠く響いてくる。
姉は、片付けようと手に持っていた俺の着替えを強く握りしめたままで、頑なにこちらを見ようともしなかった。背中が小さく震えているのが分かる。
ベッドの横にいた達樹が、ようやく重い頭を上げて俺の方に顔を向けた。
だが、あいつの瞳には、すでに溢れんばかりの涙が溜まっていた。
達樹が一度だけ小さく瞬きをすると、その大粒の涙が、堰を切ったようにポロポロと頬を伝い始めていく。
達樹は子供のように手の甲で乱暴にそれを拭いながら、何も言わず、ただ、絶望を告げるように首を静かに数回横に振った。そして、耐えかねたように視線を冷たい床へと落とした。
「……そっか」
声にならない、ただの吐息のような音で俺はそう呟いた。 目頭から熱い涙が一気に溢れ出しそうになったので、それを誰にも見られたくなくて、俺は重い右腕を動かした。
腕が視界を遮るように目の前にきた時、その手首から先、ほのかの包丁を必死に防いだであろう腕に、幾重にも包帯が巻かれていることに初めて気付いた。
俺はそのまま、包帯が巻かれた白い腕を、己の目の上へと深く押し当てた。 視界が完全に遮られた暗闇の中で、涙が後から後から溢れては包帯の繊維へと吸い込まれて消え、また溢れては消えていく。
だから、俺の流した涙が、頬を濡らして伝い落ちることは、一度もなかった。




