年末の喧騒
後ろを振り返ると、そこには少しやつれた印象の、茶髪の長い髪の女が立っていた。
女が引き裂くような声を上げたというのに、周囲の圧倒的な騒がしさに揉み消され、さほど目立ってはいなかった。
気付いた人がチラと不審げに目を向けるが、それだけで、誰も足を止めることなくそれぞれの家路へと歩いて行く。
だが、俺だけは、その女からどうしても目が離せなくなった。狂気じみた、尋常ではない目をしているのが、なぜだか遠目からでもはっきりと分かってしまったからだ。
女が狂ったようにまた叫んだ。
「何よ、そいつ!! あたしがどんだけ連絡しても、何一つ返事くれなかったじゃない!!」
さすがにその尋常ではない怒号に、周囲の人々も一瞬だけざわめきだした。だが、周りの連中はすぐに「よくある痴話喧嘩だ」と理解し、自分たちの年末の買い出しという目的のために、それ以上動きを止めることはなかった。
圭介は俺の横で、うんざりしたように大きな溜め息をついた。そして、俺の腕を強引に引っ張る。
「行こう。もういいよ、相手すんな。
ああやって悲劇のヒロインごっこしたがる奴がいるんだよ……」
圭介は冷たく背を向けて歩き出したが、俺はどうしてもあの女の放つ異様な気配が気になり、顔だけをずっとそちらに向けていた。
女は、髪を振り乱しながら、未だに激しい憎悪を込めてこちらを睨みつけている。
やがて、女の姿が人混みの波に紛れ、見えなくなった。
――ふっと、視界からあいつの姿が消えた、まさにその瞬間だった。 女の消えた周囲から、鼓膜を突き刺すような「キャァァーーッ!!」というけたたましい悲鳴が響き渡り、辺りの空気が急激に、波立つように騒がしくなった。
圭介はその異様な悲鳴を聞いてピタリと立ち止まり、俺はそのまま、音がした方を見続けていた。
すると、さっきまで密集していた人混みの壁が、何かに怯えるようにして瞬時に左右へと弾け飛んだ。
人々が我先にと逃げ惑ったことで、真ん中にぽっかりと、一本の不自然な道が現れた。
そして――その開かれた道の奥に、あの女が、ギラリと光る巨大な包丁を握りしめて立っていた。
さっき通った道で、目の前で魚の切り売りをしていたのを思い出した。きっとその包丁だ。普通の物より長さもあり、重さもあるように見えた。
さきほどまで他人の痴話喧嘩だと無関心を決め込んでいた周囲の人々は、一転して悲鳴を上げながらクモの子を散らすように逃げ惑い、「逃げろ!」「誰か警察を呼べ!」と、あちこちから理性を失ったたくさんの叫び声が聞こえてくる。
喧騒の商店街の中に、突如として血の匂いをまとって浮かび上がったかのようなその女は、明らかに、まっすぐにこちらへと刃先を向けている。
そして、俺たちの姿をその狂った網膜に捉えると、乱れた髪の間から、獲物を見つけた蛇のように細められた瞳と、不気味に釣り上がったニヤけた口元を覗かせた。
それがあいつの殺意だと確信できた、まさにその瞬間。 女が包丁を振りかざし、狂ったような速度でこちらへ向かって走り込んでくる。
距離にして、ほんの十数メートル。時間にして、おそらく数秒の出来事だったのだろう。
だけど、俺の視界の中では、世界がまるで静止しかけたスローモーションの映像のように引き伸ばされて見えた。
だが、だからといって、その刃を避けることなんて出来るわけがない。恐怖で金縛りにあった自分自身の動きまでもが酷く重く、スローに見えてしまうせいで、俺はただただ、迫り来る死の光景をその目に映すことしか出来なかった――。
その女は、勢いそのままに俺めがけて走って来た。
こちらに勢いよく向けられる刃をギリギリで避けるが、右の脇腹にじわっと痛みが走る。
そのままよろめきなかがら、後ろに倒れてしまった。頭と背中に痛みとアスファルトの冷たさを感じる。視界に見えるのは商店街の天井で今までみたことのない景色で恐怖を感じた。刺されたのであろう右脇腹はジクジクした痛みのような熱さを感じる。
女はここぞとばかりに、仰向けの俺の上に馬乗りになり、包丁を素早く逆手に持って振り上げる。魚の青臭い匂いと血の匂いが混ざった気持ち悪い香りがする。
そして、女はこちらを不敵な笑みを浮かべて見下ろす。
――この女、知ってる……
「ほのか……?」
ほのかは、先日、達樹や圭介と飲みに行った際にいた女の一人だ。酔っ払って具合が悪くなり、ほのかの家に連れて行ってもらい、朝まで一緒に過ごした。
じわじわと頭の中に疑念が浮かんでくる。
すべては俺に向けられた言葉? 圭介は無関係?
「どんだけ連絡しても」? 俺は連絡先は教えなかった。
……なら誰が? 共通の知り合いは、そんなに多くはないはず……
ギラリと鈍く光る包丁が振り下ろされ、俺の胸に接触しようとするその時、圭介が女を横から思い切り蹴り飛ばした。
女はうめき声をあげながら、ゴロゴロと転がった。包丁がカランカランと、音を立てアスファルトを回っていた。それに合わせ、包丁に付着した血が周りにピッピッと赤い雫を静かに撒き散らす。
「巧!! 大丈夫か!?」
圭介が、倒れた俺を今まで見せたことのない、悲しみに顔を歪ませた表情で見下ろしてくる。
「しっかりしろ!! すぐに救急車が来るからな!!」
周囲のやじ馬たちの声は膨れ上がるばかりで、酷い雑音にしか聞こえなかったが、圭介の声は真っ直ぐに心地よく響いてくる。
この事態は、圭介の女遊びのせいじゃなかった。
それが、とてつもなく嬉しかった。
泣きそうな圭介の顔に手を伸ばす。
頬に触れると、圭介の涙が伝ってきた。
なんだ、このくらいのことで泣くなんて……
と、可愛らしく思え、力なく笑みがこぼれた。
だが、不意に圭介の背後にあの女の顔が見えた。
――圭介、逃げろ!!
そう叫びたいのに、口をパクパクと動かすのが精一杯で声が出ない。
女はまだ不気味な笑顔を浮かべながら、圭介の背に包丁を振り下ろした。




