目的地
ドアを開けて中へ入ると、前に来た時とまったく同じ、圭介のまとう色気のある香水の匂いが鼻腔を突いた。無機質な廊下を通り抜け、リビングのドアを開ける。
圭介は真正面にある大きな窓に向けられたデスクの前に座り、画面に向かって熱心にパソコンのキーボードを叩いていた。
一度目に来た時と同様に、部屋の中は隅々まできちんと整理整頓されている。慌てて片付けた形跡はなく、普段からこの綺麗な状態を維持しているのだろうということまで伝わってくる部屋の佇まいだった。
「どした?」
圭介は背中を向けたまま、画面から目を離さずに声をかけてきた。
俺は静かに歩み寄って圭介の横まで近づき、座っているあいつを少し見下ろすように目を落とした。いつもは見上げる高さにいるあいつだが、今は座っていることもあって目線は俺の方が少し上になる。
それは客観的に見れば大した違いではないのかもしれないが、極限まで張り詰めていた今の俺にとっては、胸の不安を削ぎ落とすのに十分すぎるほど役に立った。
圭介に動揺を悟られないよう、密かに肺の奥の息を整える。そして、意を決して口を開いた。
「俺、お前から離れないから」
「……は?」
そこでようやく、圭介の動きが止まり、こちらに顔を向けられた。その表情は、驚きというよりは心底呆れたような冷めた顔をしていた。
「何それ、なんのゲーム?」
「ゲームとかじゃない」
圭介のはぐらかすような返しに、俺は戸惑うことなく、キッパリと真っ直ぐに答えた。
圭介は、はあっとわざとらしい大きな溜め息をついて肩を落とした。
「なんなのお前。しばらく距離とって冷たくしてたくせに、いきなり突撃して来てそれ? 何? ツンデレのつもり?」
「そんなんじゃ……」
――ガタッ!!!
圭介がいきなり激しい音を立てて椅子から立ち上がった。
視界が急激に反転し、俺の手首が強い力でガシッと掴まれる。圭介は不敵な笑みを浮かべ、俺を蔑むような目で見下ろしてきた。
「離れないって、昼も夜もずっと俺のそばにいるってこと? 自分が何言ってるか、意味わかってんの?
……それ、俺に抱かれてもいいってこと?」
立ち上がられたことで、俺の視界はまたいつものように見下される位置へと巻き戻されてしまう。骨が軋むほどに握られている手首も痛い。
だが、絶対ここで怯むわけにはいかない。
ミケに嘘をついて、彼女を裏切ってまでこの家に突撃した意味が、すべてなくなってしまう。
俺は手首の痛みを堪え、真剣な目を崩さないまま、強く睨み上げた。
「いいよ。抱きたきゃ、今すぐ抱けば」
その瞬間、俺の手首を縛り付けていた力がパッと離され、腕が一気に軽くなった。
圭介はつまらなさそうに視線を外すと、さっきまで座っていた椅子へと、今度は雑に腰を下ろした。
「はぁ~あ……。抱かねえよ、そんなガツガツ来るやつ相手なんかに勃たねえわ」
しばらくの間、リビングには沈黙が流れた。圭介の叩くパソコンのキーボードの音だけが、部屋のBGMのように淡々と響いている。
張り詰めた空気に耐えかねて、ふと頭に浮かんだどうでもいい疑問を、俺は口にしてみた。
「お前の部屋って、いつもこんな綺麗にしてるの?」
圭介は、またパソコンの画面から目を離すことなく、退屈そうにそれに答える。
「ああ。俺、片付けるの苦手だし面倒臭いんだけどさ。少しでも散らかってると、ユリアが落ち着かないってイライラするんだよな」
「ユリア……?」
――しまった!
その名前を聞いた瞬間、脳裏の血管が冷たく縮まり、ドクンと心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。
女の存在を気にかける余裕なんて、今の俺には全くなかった。もし圭介がこの部屋で本命の女と同棲しているか、あるいはそれに近い存在が日常的に居座っているのだとしたら、俺が『圭介のそばに見張り続ける』という単純な計画すら、物理的に絶対に不可能になってしまう。
それこそ、女のいる部屋に俺が居座る言い訳なんて、この世のどこにもない。
最悪の事態に俺が血の気を引かせていると、圭介がふっと笑って、俺の後ろの方へと目をやった。
「あ、噂をすればそこにいるわ。ユリア〜!」
あいつの視線を追いかけるようにして、俺は恐る恐る振り返る。
次の瞬間、「――ニャー」 と、間抜けたほどに可愛らしい鳴き声がリビングに響き、この前一度だけ見かけた、真っ白な毛並みの猫がゆっくりとこちらへ近付いて来た。
白猫のユリアは、俺の焦りなんてどこ吹く風といった様子で優雅に歩き、そのまま圭介の足元へ行くと、その愛らしい身体を圭介のズボンの裾にすりすりと擦り付けている。
女じゃなくて、猫、だったのか……。
握りしめていた拳の力が一気に抜け、俺はバレないように、胸の奥で深く、深く安堵の息を吐き出した。




