圭介との想い出
本当は四六時中、あいつのそばにしがみついているのが一番いいのだと分かっていた 。
けれど、実際問題、そんな極端なことは出来るはずもなかった 。
俺はミケに「圭介の元へは行かない」と嘘をついている。だから、いつも通りバイトが終わった後の深夜には、アリバイ作りのためにあの公園へ行かなければならない。
それに、抜けた穴が未だに埋まっていないバイト先を、この年末の繁忙期に休むわけにもいかなかった。
結局、深夜に公園へ寄ってから家に帰り、朝か昼に目を覚ますとすぐに圭介の家へ向かい、夕方のバイトの時間までをそこで過ごす、という歪なルーティンが出来上がった。
そうして無言の監禁のような三日目を迎えた時、ベッドの上の圭介が、俺の不自然な行動に対して初めて核心に触れる口を開いた。
「なぁ……こないだのあの子。えっと、ミクだかミコだか……」
圭介はベッドの上に寝転がり、スマホをいじりながら、何かを思い出すように考え込んでいる。
俺は圭介のデスクを借りて、冬休みの課題をこなすフリをしながら、感情を殺して答えた。
「ミケだよ」
「ああ、そうだ! 三毛猫な!! お前、もしかしてあの子の言ったこと、まだ気にしてんの?
俺が死ぬとかなんとか言ってたやつ……」
ド真ん中の図星を突かれ、全身の血が引いていく。なんて答えていいか分からず、俺は敢えてパソコンの画面に猛烈に集中しているフリをして沈黙を守った。
すると、圭介は俺の硬直を面白がるように続けて話してくる。
「もし本当に心配してくれてんなら、マジで大丈夫だって。ホラ、これ見てみ?」
そう言って、ベッドの上で上半身を起こすと、着ていた服の袖を捲り上げて自慢げに腕をこちらに向けてきた。
「俺さ、結構ジムで鍛えてるから。こんな力こぶあるし、そう簡単に死なねえよ」
俺はあいつの差し出してきた太い腕をチラリと一瞬だけ振り返ったが、何も言わずにすぐパソコンの画面へと目を戻した。
俺があまりにも無反応を貫くので、圭介はそれ以上からかう関心を失ったようだった。
また退屈そうにベッドへ横たわってスマホに目を落とし、諦めたように小さく呟く。
「お前、本当に心配性だなぁ〜」
あいつが呑気にスマホの画面を眺めている間、俺の頭の中はフル回転で破滅のシミュレーションを繰り返していた。
確かに、圭介の言う通りだ。人間が死ぬのには、数え切れないほどの可能性がある。
病気か? いや、あんな健康そのものの身体で急に死ぬなんてあり得るのか。だが、若い人間の突然死なんてニュースはいくらでも聞く。もしそれなら、俺が隣に居座ったところで防ぎようがない。
事故か? 災害か? どちらにせよ、一瞬の不意を突いて起こる悲劇に対して、俺の身体がとっさに反応してあいつを庇うことなんて出来るのだろうか。
――いや、一番可能性があるのは、やっぱり『女』だ。
今までどれだけの修羅場をくぐり、どれほどの女の子の人生を使い捨ててきたか分からない男だ。逆恨みした誰かがナイフを持って突撃してくるなんて、あり得ない妄想だと笑い飛ばすことなんて出来なかった。
……待てよ。あいつを実家に帰らせた方が、人の目がある分、圧倒的に安全なんじゃないか?
「そういやさ。お前、実家には帰らなくていいのか?」
俺の問いかけに、圭介はベッドに寝たまま、ゴロンと寝返りを打って俺から顔が見えない方へと身体を向けた。
「帰んない。……俺さ、高校に入ったくらいから、女の家を次から次に渡り歩いて生活してたし、昔からあんま実家には帰ってないんだよね。
別に今更、親に会いたくもないし。俺、一人っ子だから兄弟姉妹もいないしさ」
あいつの声から、いつものヘラヘラとした軽薄さが消え、ひどく冷え切った孤独が滲み出す。
「……あー、でも。家政婦さんには、ちょっと会いたいかもな。小さい頃からずっと俺の世話してくれてて、すっげえ優しかったんだよ。あの人だけはさ」
「え……? お前の家、家政婦さんとかいるのか!?」
育ちの違いに驚き、思わず椅子ごと振り返って大声を上げてしまった。けれど、圭介は背中を向けたまま、こちらを振り返ることもなく淡々と答える。
「まぁ、普段はだいたい二人かな。お客さんが来る時とかは臨時に増えたりするけど。でも、俺が本当に小さいガキの頃から働いてる、梅崎さんってオバチャンは毎日家にいたんだよね。子供の頃から、ずっと『梅さん』って呼んでさ。俺にとっては、実の親よりよっぽど……」
あいつの表情を見ることは出来なかったけれど、声のトーンだけで、今きっと優しい顔で笑っているんだろうなということが分かった 。
「実家の俺の部屋はさ、三階の一番奥の突き当たりのところなんだけど。親に理不尽に怒られた時とか、子供だからやり返したり出来ないだろ?
だから、ドアの後ろの下の、すっごく見えにくい場所にこっそり爪で傷を付けてたんだよね。そこなら、親にも絶対にバレないからさ」
ゴロンとこちらに寝返りを打ちながら、あいつは悪戯が成功した子供のような笑みを見せてくる。
俺はあいつの寂しい過去の片鱗に胸を締め付けられながらも、三階建ての家なんて相当な金持ち以外にあり得ないだろうな……と、圭介の浮世離れした実家の規模に、心の中で小さく呟いていた。
その時、さっきあいつが力こぶを作って見せてきた二の腕に、ふと不自然な傷跡があったことを唐突に思い出す。十センチほどの長さの、皮膚の色に馴染んだ、明らかに古い傷だと見てすぐに分かるもの。そんなに目立つような傷ではなかったけれど、あまりにも直線的で不自然に見えたのだ。
「なぁ、さっき二の腕にあった傷って、昔のやつ? 一人っ子なら親に過保護に可愛がられただろうから、そんな大きな怪我をしたら家中で大騒ぎになったんじゃないの?」
「あ〜……、何だっけあれ。すっげえ小さい頃のやつだったから、自分でもよく覚えてねえな。
……なぁ、それよりさ!!」
圭介がガバッと勢いよくベッドから起き上がった。その大きな音に驚き、俺は慌ててデスクの椅子ごと身体をあいつの方へと向けた。
すると、あいつはまるで別人のように目をキラキラと輝かせながら、身を乗り出して話しかけてきた。
「お前、初詣って行ったことある!?」
「え? あるけど……。子供の頃、毎年親が連れて行ってくれてたよ」
「えー、マジで!? 俺さ、生まれてから一回も初詣に行ったことがなくてさ。お前ずっとそばにいるんなら、今年……いや、来年か。一緒に行かねぇ?」
「え……? お前の親とかは行ってなかったのか?」「いや、親は会社をやってるから、その関係の大きなお参りとか? そういうのには毎年行ってたみたいんだけど。俺のことなんて、一度も連れて行ってくれたことなくてさ」
「……ああ。俺でよければ、別にいいけど」
「やった! 俺さ、ずっと初詣に行ってみたくてさ。だから、本当に本命の彼女が出来たら一緒に行こうってずっと決めてたんだよね。
でも、なかなかそういう子が出来ないから、今回はお前で我慢してやるよ」
「なんだよそれ……」
俺はあいつのまっすぐな視線に少しだけ居心地が悪くなり、わざとらしく呆れたような声を出しながら、鼻先で笑って視線を逸らした。
「ほら、見てみ。こことか良さそうじゃね?
ここから結構近いし……」
圭介はベッドの上で、スマホを使って熱心に初詣にふさわしい神社を検索していたようだった。ベッドから大きく身体を乗り出し、液晶画面を俺の顔の前に近付けてくる。
その無邪気な様子が、まるで幼い子供のようで、不覚にも少し可愛いと思ってしまった。
「ハハッ……必死だな、お前。そんなに初詣に行って、何か神様に叶えてほしい願い事でもあるのか?」「え……」
俺の何気ない問いかけに、圭介の動きがピタリと止まり、あいつは何かを深く考え込むように押し黙ってしまった。
「……いやぁ。お金は毎月実家から勝手に送られてくるし、女の子は向こうから勝手に寄ってくるし、欲しいものなんて別に何もないな……」
やっぱり、本物の金持ちというのは、住む世界どころか『願う世界』の次元まで全く違うのだと痛感した。そして、それを嫌味でも何でもなく、心からの本音として平然と言えてしまう圭介は、ある意味で凄い男なのだと思った。
「あ、そうだ!」
すると突然、圭介がパッと花が咲いたような、この上なく明るい笑顔を俺に向けてきた。
「俺、何にもお願い事がないからさ。神社に行ったら、『お前の願いが全部叶いますように』って、神様にお祈りしてやるわ!」
「ハハ……。そりゃ、ありがたいね。助かるわ……」
圭介のあまりにも屈託のない言葉に、俺は一瞬だけ言葉を失い、ベッドの上の圭介の顔をただじっと見つめてしまった。
こいつを死なせないこと。それが、今の俺の、たった一つの願いだというのに。
――こうして圭介と、一体いつぶりか分からないくらい、たくさんの他愛のない話を交わした。あいつの根底にある寂しさに触れ、そして向けられた純粋な言葉に、俺の汚れた心がじんわりと洗われるような、そんな穏やかな時間だった。
そして。 あいつと交わしたその初詣の約束が、現実に守られることは、なかった。




