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「あなた、もうすぐ死にますよ」と彼女は微笑む  作者: VANRI


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キスの意味と告白

「ファーストキスはね、隣に住んでた綺麗なお姉さん」 


 ――お姉さん。 その言葉を聞いた瞬間、止められていた呼吸が一気に身体へと巡り、締め付けられていた胸の痛みが嘘のように軽くなった。

 俺の心は、彼女のたった一言、ほんのわずかな言葉のニュアンスだけで、天国へも地獄へも自在に動かされてしまう。

 そんな自分に呆れつつも、心の底から安堵している自分がいた。


 ミケはそんな俺の胸の内など露ほども知らず、またいつもの楽しそうな調子でパタパタと足を揺らしながら話し始めた。


「小学校に入る前くらいの話かな。その隣のお姉さんには、よく遊んでもらってたの。

 ある日ね、私が一人で外の庭で遊んでいたら、お家からそのお姉さんが出てきて、私に手招きしたんだよね。『お菓子あげるからおいで』って」


 彼女は遠い思い出の景色をなぞるように、目を細める。


「言われるがままお姉さんの近くにいったら、両手いっぱいにクッキーやキャンディー、チョコなんかをたくさん持たせてくれたの。わぁ、お菓子がいっぱいだって嬉しくなって、お礼を言おうとして顔を上げたのね。

 そしたら――突然、口にチュッてされたんだ」


 ミケは自分の唇に、細い指先をそっとあてがった。


「小さかったから、何が起きたのかよく分からなくてポカンとしちゃって。だけど、綺麗な笑顔でニッコリ微笑みながら、私の頭を撫でてこう言ったんだ。

『これ、あげるね』って」


 クス、とミケがいつものように無邪気に笑う。

 お菓子と、そして口づけ。幼い少女への、年の離れたお姉さんからの、微笑ましくも少し風変わりなプレゼントの思い出。


 ミケは、隣のお姉さんとの思い出話を語り終えた流れのまま、ごく自然に、次の言葉を滑らせた。


「私が不登校になったのはね、赤ちゃんを産んだからなの」


「……は?」


 突然の『赤ちゃん』という単語が、今、目の前にある冬の公園の光景とかけ離れすぎていて、まったく頭に入ってこない。

 18歳の彼女の口から出たその事実を、脳が想像することすら拒絶している。


 妄想か?

 ……そういえば、看護師をしている姉が言っていた。精神的に極限まで追い詰められてしまった人の中には、自分が妊娠したと思い込んでしまうケースがあるのだと。

 そんな時、人間の身体は奇妙な錯覚を起こし、本当に生理が止まり、お腹まで膨らんできてしまうことがあるらしい。


 ミケのこれも、その類いなのか……?

 それとも……。


 「冗談だろ?」と笑い飛ばすことなんて、到底できなかった。暗闇の中で遠くを見つめるミケの瞳は、底のない深い悲しみに満ちていたからだ。


「私さ、中学の終わりくらいから結構荒れてて。そのまま形だけで高校生になって……。

 ある日、友達に紹介された二つ上の男の人に会いに行ったの。そしたら、そこに二人いて、それで……」

「もう、いい!!」


 弾けたような大声が、静まり返った公園に鋭く響き渡った。


 そうだ、俺が前に聞いたんだ。なぜ昼間に外へ出ないのか、なぜ学校へ行かないのかと、俺が余計な詮索をしたからだ。そのせいで彼女にこんな残酷な過去を無理に思い出させ、告白させてしまっているに違いない。

 猛烈な罪悪感が襲いかかる。


「いいから!! もう何も言うなよ、ミケ……っ」


 すがるように彼女の肩へ手を伸ばしかけたが、ミケはただ、悲しそうに唇の両端を吊り上げて笑った。それでも、頑なにこちらを向こうとはしない。


「誤解しないで、巧。無理矢理されたとか、そういうんじゃないから。同情もしないで。

 私は可哀想な被害者なんかじゃないの」


 その笑顔とは裏腹に、突き放すような冷たい声。俺は伸ばしかけた手を、虚空で止めるしかなかった。


「ただ、あの頃の私は何でもよくて、別にいいやって思ってそうなっただけ。それから数ヶ月、生理が来なくてね。でも元から生理不順だったから、異変に気付くのが遅れたの。

 三ヶ月くらい経ったある日、凄くお腹が痛くなってトイレに行ったら、赤ちゃんが流れてきちゃった。

 でも、まだ小さすぎてそれが赤ちゃんかどうかも分からなくて……。

 赤い塊が出てきてビックリして、お母さんを呼びに走ったの。お母さん、大慌てで救急車を……」


 ミケは冷え切った夜の空間を見つめたまま、ぽつりと記憶の断片をこぼした。


「相手の男の人の顔も、名前も、もうよく覚えてないんだよね。

 ただ……『U.K』ってイニシャルだけは、なぜか今でも妙に頭に残ってる」


「U.K……」


 そのアルファベットの並びが、なぜか俺の胸の奥に冷たい棘のように突き刺さる。それが誰を指しているのか、今の俺には分かりようもないはずなのに、嫌な汗が背中を伝った。


 ミケは俺の動揺に気づく様子もなく、話を続ける。


「それが噂になって、しかも尾ひれも沢山付けられてもう学校なんて行けなくなったの」


 「もう言わなくていい」とあれほど拒絶したのに、俺はいつしか、ミケの淡々とした語り口に金縛りにあったように静観し、聞き入ってしまっていた。


「……私はね、お腹に赤ちゃんがいたことすら気付いてあげられなかった。赤ちゃんの方だって、産まれてすぐに死んじゃって、自分がこの世に産まれたことすら気付かなかったんじゃないかな。

 可哀想なのは、あの子の方だよ。母親になる資格も、気付くことさえできない私のところに、気まぐれで来てしまったんだから」


「ごめん……こんなこと、言わせてしまって……」


 喉の奥が引き攣り、消え入るような声で謝る。ミケは小さく首を振った。


「ううん。話したくなったのは、私の方だから。

巧、聞いてくれてありがとう」


 それから、しばらくの間、言葉のない重い沈黙が二人を包んだ。 冷え切った自販機の缶をベンチに置き、俺はそろそろ帰ろうと挨拶をして、彼女に背を向けた。


 その瞬間、「巧」と後ろから名前を呼ばれ、引き止められる。


 振り返ると、そこには夜闇を吹き飛ばすような、満面の笑みを浮かべたミケが立っていた。 彼女はまっすぐに俺を見つめ、言った。


『私、巧の赤ちゃん産みたい』


 もしそれが、大人の色気をまとった女性から囁かれた言葉なら、世の男たちは性欲を狂わされることになっていたかもしれない。


 だが、今のミケから発せられたその言葉は――幼い子供が『将来の夢はお嫁さんになることです』と無邪気に宣言するのと、大差がないように思えた。


 その言葉は、冷たい公園の夜気の中に虚しく響き、そのまま吸い込まれるようにして消えた。

 意味を持たない、ただの頼りない音でしかなかった。




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