第2章30話 「正義」
――ある夏の日のこと。
かなり昔の話だ。
「――君! 一緒に遊ぼう!」
「いいよ! ――に行こうか!」
まだ物心が付く前だったため、記憶の大半は忘れてしまったが少しだけは微かに残っている。
桜の様に華憐な桃色の髪をした少女と、俺はどこかの川岸で遊んだ。
少女と俺が嬉々としてはしゃいだことを覚えている。
身体中が濡れて、家に帰ったら親に怒られてしまった。
少女も少女で、自分の親に俺と同じく怒られてしまったみたいだ。
そのとき、俺はまだ少女の名前を知らなかった。
俺は思った。
あの少女は、いや――杏子は、紡戯を殺した連中の仲間になどなったりはしないと。
ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ
――絶対に杏子は、紡戯を殺した奴らの味方をするはずがない。
杏子は、歩乃香と同じように紡戯のことを姉として慕っている。
紡颶についてはどう思っているのかは分からないが。
俺は吹雪をじっと見つめたまま、考えを巡らせる。
すると吹雪が口を開き、
「れ……紅君、そんなに見つめないでくださいよ……恥ずかしいです」
「あ、ああ、ごめん」
俺は吹雪の一言に謝罪し、再び長考に耽る。
だが、杏子はどうして俺を殺そうとした。
俺を殺そうとするメリットがあったのだろうか。必要性があったのだろうか。
「杏子……」
俺は愛らしい妹の名を、静かに呟く。
そんな呟きを聞き逃さなかったのか、吹雪が、
「れ……紅君。今は休んでていいですよ」
「休むって、何を言って……」
「疲れたんですよね。ずっと考え続けるよりも先に、身体を治さないと杏子さんに会うことも話すことも叶いませんよ」
「ん……」
吹雪からの指摘に、俺は起こしていた身体をベッドに横にする。
俺は今更、吹雪が鎧を着用していないことに気が付いた。
「吹雪、白服の奴らはどうなったんだ?」
「レイと私で殲滅しましたよ」
「そうなのか……ありがとな」
「いえいえ、最善を尽くした限りです」
吹雪も疲れているはずなのに、俺にこうやって話しかけて俺の看病をして。
感謝してもしきれないほどの鴻恩だ。
もどかしさと、不快感が心の中で蠢く。蠕動するみたいに。
「――瀲、あんたはいつまでくたばっているのかしら」
すると突然、聞き覚えのある声音が鼓膜に滑り込んできた。
声の主の方を向く俺と吹雪。
そこには、保健室の入り口で俺を睨み付けている邇姶綾芽がいた。
俺は意外な人物の登場に目を見開きつつも、その声に返事を返す。
「そうだけど……でも、なぜ綾芽がここに……?」
その問いかけに、ベージュの髪を揺らしてにやりと笑い、
「援軍よ、援軍――瀲の妹さんを助けるためにね」
放たれた一言に、俺は驚愕する。
だが、その言葉に今まで静かに見守っていた吹雪が口を挟む。
「考えが浅はかですね……紅君の戦いに貴方が参戦しないでください」
「なに? 面白いこと言ってくれるわね。もしや、まだあのこと根に持ってるの――?」
「っ――!」
「ほら、やっぱり」
吹雪は顔を憤怒に染め、綾芽を睨め付ける。
綾芽はそれに対し、吹雪を見下しているかの様な目付きで睨み返している。
「二人共、今は落ち着いてくれ」
「そうですね……無駄なことには首を突っ込まない様にしておきます」
「無駄って何よ?」
「黙っててください」
「ちっ」
綾芽と吹雪は顔を二人同時にそむける。
俺は苦笑しながらその光景を眺める。
気まずいな……。
なんて声をかければいい。告白されてしかもその告白してきた子に対して返事をする時くらい気まずい!
「え、ええと、取り敢えず……綾芽、話を聞かせてくれ」
「話って、ああ、あたしが瀲の妹――杏子を助ける援軍に来たっていう話ね」
「そうだ。それはつまり……」
「私も瀲の妹さんを助けるっていうことよ。最初に言ってたと思うけど」
「すまん、綾芽との邂逅で頭に入ってなかったみたいだ」
一先ず諍いが収まり、綾芽は表情を笑みに戻している。まぁ、まだ吹雪は綾芽から顔を背けているが。
「綾芽が協力してくれるのは嬉しいが……俺は反面、お前を巻き込みたくないとも思ってる」
「そう、あたしがこの事件に関わって、それが原因であたしが標的にされたくないと?」
「怖いんだ……」
俺は縷安のことを思い出す。
彼女は天の逮捕後、突如として死している。
――綾芽もその顛末を送ってしまうのではないだろうか。
俺はそう考えてしまう。
「瀲に何があったかはあたしは知らないけど、まぁ、あたしは大丈夫だよ」
「大丈夫って何がだよ」
「――あたしは死んだ方がいい人間みたいなものだからな」
「――っ」
俺はその一言に胸を痛める。
彼女がそう言うには訳がある。
だが、俺がその事件を鮮明に思い出すよりも先に綾芽が話を続ける。
「つまり――あたしは死んでもいいから瀲に全力で協力するぜってことだよ」
酷なことに、彼女は俺に命を授けてきた。
綾芽が死んで杏子が助かるか、はたまたそのどちらか。それとも綾芽も杏子も無事という結果に終わるのか。
それが今、俺の判断に問われる。俺の判断により、運命が決まる時だ。
「――綾芽、協力してくれ」
「――ふふ、そう来ると思ったわ」
俺と綾芽は互いに笑みを湛える。
すると、隣から吹雪が不安げな表情で俺に言う。
「本当に宜しいのですか?」
「ああ」
吹雪に一言だけ告げ、俺は心の中で再び決意を固める。
――杏子を救う、と。




