第2章29話 「覚悟」
――厭悪。
厭っていた現実は、やはり目の前に佇んでいた。
自分を睨み付け、苛め、心を嬲り続けて最後に絶望の奈落へと叩き落とそうと待っている。
目を瞑ることでその現実から背くことができるのだろうか。
やはり、それは不可能だった。
「――嫌だよ……もう嫌だ……」
俺の心はもう、打ち砕かれてしまった。
笑顔に満ちていたクラスは、学校は、血で真っ赤に染め上げられた。
最愛の妹である杏子に殺され――。
「――どうしてこんなことばかり起きるんだ……なんで俺じゃなくてクラスのみんなが殺される! どうして杏子は俺を殺したんだ……! 俺はあまりにも無力じゃないか!」
俺は慟哭しながらそう叫ぶ。
もう駄目だ。感情が滾々と溢れ出してくる。
涙が頬を伝う。怒りで両手が震える。恐怖で足が震える。無理解を示す思考が、停止を促してくる。自分に対する嫌悪感が、何もできなかった無力感が、自分が駆け付ける時間が遅くて学校中の生徒を救えなかった罪悪感が、俺の心を埋め尽くす。
――俺は最期に杏子が自分に放った言葉を想起した。
『お兄ちゃん私――もうそっち側には戻れないよ』
何の意図があってこう発言したのだろうか。
俺はその意図を、その発言の意図を、理解してしまった。
「――杏子は、敵なのか……?」
杏子があの兇徒達の味方なんだと、そう思いたくない。
そんな現実を、俺は受け入れることができない。
俺は涙を流し終え、浮腫んだ目元で紡戯の方を向く。
俺の慟哭を静かに見守ってくれていた紡戯は、そっと優しく微笑んだ。
「もういいんだよ、無理しなくていいんだよ」
「紡戯……」
「瀲君は十分頑張ったよ。それは私が一番よく分かってる」
紡戯は俺を抱擁し、宥める。
再び俺は胸中に激情が訪れる。
涙が両目に滲む。
「瀲君……ここで一緒に暮らそうよ。もうあんなに辛かった現実に戻らなくていいよ」
「――」
「私と一緒にいよう! 瀲君は、私が守るよ」
「ありがとう、紡戯」
「うん、それなら――」
紡戯の誘いに、俺は口を一度閉じ、そして再び開く。
「――俺は、現実に戻りたい」
「どうして……? どうしてなの……瀲君」
「俺だけ易々と死んでいられるかよ。戻れるなら早く戻りたい」
「瀲君は、私と暮らしたくないの? ここは恐怖も悲哀も存在しない幸せな場所なんだよ……! どうして暮らしたくないの? 現実に戻って何の意味があるの?」
紡戯は饒舌に、辺りに広がる草原を一瞥しながら言った。
そして俺に視線を戻すと、目を細めて静かに見つめてくる。
――俺の解答を、待っている。
俺はゆっくりと口を開く。
この一言が全ての決定権だ。
「――紡戯ごめんな」
「――俺はやっぱり現実に戻りたいよ」
俺は笑みを浮かべながら、紡戯に言い放った。
すると紡戯は、
「――君は本当にそれでいいの?」
白い髪の少女は俺に問いかける。
俺は紡戯の姿が少女に変わったことに驚愕したが、毅然と口を開く。
「いいんだ」
「そうなんだ……」
少女は溜め息を吐き、俺をジト目で見つめる。
「わたしは君がどうしようが知らないけど、“仕事”は熟さないとね」
「――仕事?」
「じゃ、また死んだら会おうね」
「おい、ちょっと待て……」
突然別れを切り出してくる少女に、俺は一言投げかける。
「じゃあね」
俺の問いかけに応じず、少女は俺に手を振った。
その途端、俺は視界が真っ暗になり音が聞こえなくなった。
「もっと話したかったなぁ……」
暗闇の中で声が聞こえたが、それも軈て遠くなっていく。
俺は少女の言い残した一言に、少しだけ哀愁を感じた。
だが意識は今にも途切れそうだ。
――少女が紡戯として俺の前に現れたことは、嬉しかったが悲しかった。
あの草原も一体どこだったのかよく分からない。
白い髪の少女の存在も謎だ。
仕事とは何だったのだろうか。
とにかく、今は目を瞑っていよう。
――現実に戻るために。
ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ
「――瀲君、目が覚めましたか?」
この声は、吹雪だ。
俺は視覚に入り込んでくる景色が、先ほどまでいた草原と違うことに気が付いた。
「ぁ……ここは……?」
「何を惚けてるんですか。ここは鴻鵠鴎鵝学院の保健室ですよ」
「は――!?」
俺は身体を跳ね起こした。
すると俺の勢いに吹雪は驚いたのか、目を見開いた。
だがそんな吹雪の様子とは反対に、俺は急に訪れた鈍痛に目を瞑る。
「れ……紅君、駄目ですよ……まだ傷口は塞がってませんから」
「傷口……」
俺は痛みのする部分を瞥見する。
包帯が巻かれた腹部は、俺が飛び跳ねた反動で包帯を血で染め上げていた。
そして、椅子に座って俺の腹部を見つめる吹雪は口を開いた。
「――私もれ……紅君とユウが倒れたとレイから聞いて二人を探し回りましたよ」
「ユウと杏子はどうなったんだ! 何か知ってるか?」
「れ……紅君落ち着いて」
「う……」
激痛が全身を駆け巡り、俺は歯を食いしばって悶絶する。
「ユウなら隣で寝てるよ」
「よかった……で、杏子はどうなったんだ?」
ユウは確かに隣のベッドで安らかに眠っているが、今は杏子の行方が知りたい。
「それが……」
何故か口にするのを躊躇っている吹雪。
俺はその様子に固唾を飲む。
「レイが杏子さんを追いかけたみたいだけど……途中で逃げられたみたい」
「そう、なのか……」
俺は俯く。
――どうしてなんだよ杏子。どうしてお前は……。
桜色のツインテールと、微笑が記憶の中から甦る。
俺の知っている杏子は偽りの姿だったのだろうか。
「どうしてお前は白服達の見方をするんだよ……」
記憶の中に残る妹の背に、俺は訴えかけた。




