第2章13話 「悶々」
――歩くことさえ億劫になってきた。
一歩も踏み出したくない。動きたくない。
不意に、懐かしい景色が見えた。
それはとても暖かくて、優しくて。
自分のことを誰よりも理解してくれている気がする。
本当は、普通の人間で生まれたかった。
なんで、自分はこうもおかしいのだろう。
嫌だ。
嫌だ。
Σ Σ Σ Σ Σ Σ Σ Σ Σ Σ
――俺は眠気を押し殺して、ベッドから身体を起こした。
汗ばんだ両手を見て、喟然とした。
――普通の人間……。
欲を言えば、本当はそうなりたかった。
自分が、周りの人間と違うことに嫌気がさした。
でも、仕方のないことだ。
今は今で、気にせず生きよう。
ベッドから床へと足を付けると、顔を洗いに洗面所へと向かった。
蛇口を捻り、水を出す。冷たい水を両手で救い、顔に浴びせる。冷たい水の感触が、とても気持ちがよかった。
そして濡れた顔の雫を、白く柔らかいタオルで拭き取る。
不意に、鏡に映った自分の顔が目に入った。
俺は自分が重苦しい表情をしていることに気付いた。
「馬鹿野郎……魘されでもしたのかよ」
俺は己を叱責する。
溜め息を吐いて、俺は自分の部屋へと戻る。
そして制服に着替えて、学校へと赴く準備をした。
「杏子と哥織を起こすか……」
二人の部屋へと俺は向かった。
まずは杏子の部屋から。
「起きろ、杏子。朝だぞ」
「ん~、もう朝ぁ……?」
「起きろ、早く学校に行くぞ」
「お兄ちゃん、もう一睡だけ。もう一睡だけさせてぇ……」
「駄目だ。起きろ」
俺は杏子の被っている布団を剥がした。
すると、俺は杏子の枕の下から、何かの本がはみ出ている事に気付いた。
「何だ、これ……」
「げっ! お兄ちゃん、それは駄目! 見ないで!」
「は」
そう、杏子が枕の下に置いていたのは、俺の写真が沢山貼られた写真集の様なものだった。
それも、全て俺の裸の姿なのだが、いつ撮ったのだろう。
「お前、もしかして俺が風呂に入っている時に盗撮してたのか?」
「ち、ちがっ、そんなわけないよ! いいから返して!」
杏子は赤面しながら、俺の手元から写真集を奪う。
そんな杏子を置いて、次に俺は哥織の部屋へと向かった。
俺は哥織の部屋に堂々と入り、そして哥織の布団を取った。
「起きろ、哥織。学校に行ってないからって遅く起きることは許されないぞ」
「瀲……君、ふぁ~」
「台詞の途中で欠伸をするな。取り敢えず目を覚まして身体を起こせ。身支度をせめては整えろ。そして、り――」
俺が台詞を言っている途中、不意にインターホンが鳴った。
誰だ?
哥織を一先ず置いていき、俺は玄関のドアを開けた。
ドアの向こうには藍の髪をした少女がいた。
「微睡さん、一緒に登校しましょう」
「ああ、ちょっと待っててくれ――」
俺はまだ寝間着姿の杏子を制服に着替えさせ、パンを咥えさせる。
そして共に玄関へと戻り、怜那に苦笑した。
「ごめんな、妹の支度が遅くて」
「いいわよ。別に気にしないから」
「ん~」
杏子はパンを食べながら、そう唸った。
「怜那と一緒に登校するなんて、何だか新鮮だな」
「そうわね……確かに今日で初めて一緒に登校するわね」
歩きながら、俺と怜那は言葉を交わす。
彼女の笑みを見ながら、俺はふと呟いた。
「――俺は、本当にこのままでいいのか?」
俺は、ただ一つだけ。
一つだけ自分に問いかけた。
ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ ξ
――俺は授業を抜け出し、屋上に来ていた。
退屈な時間を捨て、今は一人、瑟々とした風に吹かれていた。
「意見をころころと変えやがって……何様だ」
時には人を殺したいと思い、時には人を殺したくないと思い。
苦悩に暮れ、煩悩に耽る。
葛藤を繰り返し、瑇黎の様な権力者に無理な頼みごとをされ、あの赤いドレスを着た女の様な猟奇的犯罪者に嘱託殺人をしろと懇願され。
一体、自分が何をしたいのかわけが分からなくなってくる。
「死にたい」
いっそのこと、この屋上から飛び降りたいと思った。
そして死ねたら。何て楽なのだろうか。
「サイコパスだとか、出来損ないだとか、失敗作だとか、もう散々だ」
皆に言われる言葉を振り返る。
確かに、俺はそうかもしれない。
「でも、こんなに苛まれていたらサイコパスではないだろうよ」
否定した。
すると、誰かが俺に耳打ちした。
「――あなたはただの愚図だわ」
吐息混じりの艶かしい声。
俺は声のした方を向く。
声の主は、赤いドレスを着た女性だった。
「――あなたは自分が如何に完璧な存在であるのか、理解できていないわ。いつまでも他者の妄言にばかり過剰に反応して、情けなく惨めに蹲るただの弱虫なの? いいえ、違うわ。あなたはいつも自分に自信を持っていて、己の中での正義に感情を滾らせる優しい人よ。そんなことすら見えずに、ただ闇雲に迷走……本当に呆れるわ」
熱を込めた様に、力強く話す女性。
「――でも大丈夫。私が着いているわ」
女性は俺の頬に両手で触れ、
「――だから、もう悩まなくていいわ。いつものあなたでいて」
気圧すかの様に、吐息と共に言葉を発した。
俺は全身に恐怖が走った。
目の前に存在する、彼女の存在に恐れを包み隠せない。
「――あなたは、自分を偽っている様だけど……どうして素を出さないのか、全く以て分からないわ。躊躇うことなんてないでしょうに」
女性は呆れたかの様に、首を横に振ると、俺を疾視した。
「――いいかしら、あなたはあなたで任務を果たして。人を殺めれば、屹度、また昔に戻ってくれるでしょうし」
俺は何も言い返せない。
そして、ふと気づけば女性は消えていた。
あまりの恐怖に、疲労感が汗の様に湧き出てきた。
「嫌だ……でも、言う事は聞かないと」
静かに殺意を宿し、俺は教室へと戻った。




