5.混浴
──「才蔵!」
男は、女以外だれも居ない空間で声を発した。
直ぐさま天井から、一人の黒装束の男が音もなく舞い降りた。
「御怪我は御座いませんか?」
「大丈夫だ」
「このようなことをするのはお控えください。命に背いてでも出るところでした」
本来、見ざる言わざるの身。主が誕生してからこの者は「御意」しか発したことはなかった。
主との初めての会話がこれだった。
「西国の動きが、ちと最近活発なようでな」
「にしても、御身自らお出ましになられては」
「その為にお前達がおるのでは?」
少し怪訝な顔を向ける。
「が! しかし!!」
「そろそろ限界だ……」
そう言って、彼は黒装束の男の肩に頭をもたれかけた。
「こんなになるまで……后様になんと申したら……」
「言うたら殺すぞ」
「……」
黒装束の男は自分とほぼ同じぐらいの体格の男を、いとも簡単に背負い風のように消えていった。
そして、数名の同じ格好をした男女が天井と畳の下から姿を現し、気絶している女を背負い、何事もなかったかのように部屋を元通りに戻し消えた。
部屋の片隅にあった小さな紙包を、忘れずに持ち帰った。
◇
支宣はいつになく真剣な顔で筆を走らせていた。
その表には「遺書」と。
同じく別の部屋でも、彼の兄である右大臣も同じ内容の書を認めていた。
主が姿を消してすでに半日以上。昼の鐘が鳴ってから暫く経っていた。
ことが事だけに、今回のことは兄弟以外では凛花と、凛花の両親しか知らない。
凛花の両親は憔悴する凛花をただ側で元気付けるしかなかった。
──そんな中、支宣の私室の窓をコツンと叩く小さめの鷹の姿があった。
足に小さな紙が縛られていた。
支宣は直ぐに窓を開け、鷹の足の紙を読む。
急ぎ礼を鷹にし、小さな餌をやり窓を閉める。
支宣は小さく折りたたまれた紙を、大事そうに自分の懐にしまいこんだ。
そして目を見開いたと同時に、普段冷静で走ることなど絶対にしない男が、全速力で兄のところへ向かう。
「兄上!」
ハァハァハァ──。 間に合った! 良かった!
支宣は兄の机の上にあった白い物を目にやり、安堵した後、兄に耳打ちする。
──ガタンッ
兄がよろけて転びそうになるのを、なんとか机を持ち耐えた時の音だった。
「大丈夫ですか? 兄上! 顔が青いですが?」
「大事ない。すまない」
そう言って弟に肩を借り、すっくと立ち上がる。
その目は既に、司令官としての目に変わっていた。
「宣は殿下を。私は賊を」
「はい。ただその前に后様に。心配されておるはずです」
「なら、私が行きに寄る。お前は殿下のもとへ急げ」
「はい。では後ほど」
それから二人は自分のすることを、粛々と極秘裏に行った。
──支宣はただ主の無事だけを願い、走っていた。
先程の手紙に小さく書かれてあった内容から、命に別状は無いことは分かっていた。
でも、それ以上の情報は無く、怪我や、最悪の場合後遺症が残るようなことが……
「いや、そのようなことはあの御方に限ってありえない」
一瞬過ぎった自分の愚かな妄想を、打ち消した。
けれども不安で押し潰されそうだった。
◇
「殿下!!」
伽羅の薫が仄かにする薄暗い天蓋の影に、半裸に近い、合わせが開けたままで横たわる主人。
頬は赤く、熱があるのか吐息が荒い。
支宣は、一瞬自分の顔が赤くなるのを首を降り、自分で自分の頬を叩く。
──色気ありすぎだろ。
十六の若者には、刺激が過ぎる様相だった。
「殿下、凛花様には何とお伝えしましょうか?」
「感冒でよい」
「お呼びしなくても?」
「呼べば稚児を止めれる自信がない」
真面目な顔で言う主の具合は、相当悪いのだと支宣は悟る。
「では、宦官でも?」
「殺すぞ」
「安心しました」
主がギリギリのところで、まだ人の精神を保てていることに内心ホッとした。
「代わりにこれを。御堪え下さいませ。そして二度とお止めください」
そう言って支宣は、狂わしい程妖艶な主の寝台の上に、そっと彼君の香を仄かにしたためた薄紅色の衣と、数枚の手ぬぐいを置いた。
隅にあった屑箱を近くに寄せた。
「外で控えております。何時でもお呼び下さい」
そう言って足早に部屋の外に出た。
継ぎの間ではなく、廊下に正座して一晩中控えた。
──東の空が段々と白んできた。
「お強い御方だ……」
一度も助けを呼ぶことが無かった主に悲痛な顔を浮かべながら、膝の上で握りしめた拳を爪が刺さるぐらい強く握った。
ポタポタと垂れてくる涙を支宣は拭うことはしなかった。
「殺す!!」
主をここまで苦しめた女に対しての憎悪が改めて沸いてきたのだった。
暫くの時間が過ぎ、中から声がした。
「宣。入って良いぞ」
峠は越えられたようだな……
支宣は安堵の表情を浮かべ、涙をゴシゴシと衣の袖で急いで拭う。
「御加減の程は?」
「湯浴みの用意をしてくれ」
「はっ。ただいま!」
そう言って急いで部屋を出て行った。
──光の君の容態が安定したことは即座に宮の者達に伝えられた。
が、状態が状態だけに侍女には湯浴みの世話は遠慮してもらった。
支宣が着替えをすませ、湯殿に向かう。
「信用してねぇなお前」
「一応は感冒ですので、移ってもいけませぬゆえの策で御座います」
主の背中を流しながら、支宣は泣いていた。
「泣くな阿呆」
「泣かすようなことしないでください。兄様は死を本気で覚悟していたのですよ?」
珍しく支宣は本気で怒った。
「お前もな」
「……分かっていて何故ですか」
「あの女はそこまで馬鹿ではない。何か事情が必ずある」
「だからと言って! 危険過ぎです! 毒を盛られることだってあるのですよ?」
「だから影が付いて来ておるではないか。それに毒には耐性があるのは知っておろう?」
「ならば、先に我々にも言ってくれても……」
そう言って支宣は主の背中を強めに洗う。
「痛い」
「反省してください」
変わらず力を入れる。
「痛い」
「泣きますよ?」
「悪かった……」
主が小さな声で一言だけ呟いた。
「兄上にも言ってやって下さいね?」
「惟光はずっと牢か?」
「……はい」
「毒女に毒されてないだろうな?」
「多分……」
「お前も入るか? 侘びに背中流してやるぞ?」
「背中はご遠慮します。まだ生きたいですから。湯はご一緒しても?」
「兄様に嫉妬されそうです」
「内緒にしておいてやっても良いぞ?」
「もう二度とこのような無理はしないって約束してくださいよ?」
「分かったって。って、おま、お前、泣くなって」
「だっで……グスン。 ほんどうに、し、心配ぢだんで グスン すからぁああ グスン……」
「汚ねぇな。鼻水垂らすなよ。湯が汚れる」
「うわーーーーーーーん」
生きた心地がしなかったことと、主が無事だったことと、昨夜の主の苦痛を思う辛さと、色んなことがやっと終わったことで、一気に涙腺が崩壊した。
そんな弟みたいな支宣の頭をそっと撫でてやった。
「約束ですからね」
「しつこいぞ。お前」
支宣は、まだ見習いの時、彼と一緒に風呂に入ってた頃のことを思い出しながら、均整の取れた主の背中と、昨夜の目を潤ませながら苦悩の顔を浮かべる妖艶な姿を重ねる。
少しだけ女の気持が分かるような?
が、直ぐに打ち消した。




