罰
ここは何処…
ぴちゃんと濡れた音が時折響く。
真っ暗闇で心地よい瘴気の満ちた場所…、記憶に覚えがありぎくりとする。まさか、まさか…戻ってきたのか!
「…ックソ……!荊の城へ連れ戻されたのか!」
魂だけで暗闇を彷徨い覚えのある水鏡の部屋へと辿り着く。横たわる自分の肉体を見つけて悔しさに歯噛みしながら元の体に戻ろうと手を伸ばした。
今回は失敗したが自分には悠久の時間がある、また機会を伺い期を練って再び貴方を手に入れにいけばいいのだ。
まずは身体を休めよう、と元の体に触れようとするが…何かおかしい、距離感が掴めない。
「…ん?」
掴んでいるはずなのに何かがすれ違う。重なるのに重ならない、持ち上げようとしているのに手に乗らない。自分の身体が…そう、同じ場所の違う次元に居るような…。
「…へ……、ぇ…まさか…、まさ…か………ぅ、そ…」
必死に横たわる身体に戻ろうと腕を振り回し、身体に重なり何とか触れようとするのに全てが空回りする。
あの男まさか、薄い次元の壁の向こうにあたくしを投げ込んだのか!
身体に戻れない、目の前に死きたまま横たわる美しい自分を見ながらどうすることもできずに立ち尽くした。
何の感覚もない。身体で感じる悦びも、痛みも、苦しみもないが心で感じる感情や欲だけは満ちている。狂いたくとも狂えない、このまま永久を死きろと言うのか!
美しい漆黒の男が薄く笑う顔を思い出す。頭からつま先まで一瞬で凍り付くような絶望が突き抜けた。欲だけが頭を埋め尽くす、二度と発散できない熱に目の前が真っ暗になった。
漆黒の闇の中、空間を切り裂くような女の叫び声が響いたがそれが地上にも冥府にも届くことはなかった。
❀❀❀
「求不得苦…、求めてもそれが思うように得られない苦しみ、でしたか。その境地というものにちゃんと達したかは分かりませんが私なりの罰は与えました、ご満足いただけましたか、シエル様」
わざとらしく執事のように恭しく礼をするステラに嫌そうな顔を向けてシエルがこたえる。
「君の基準はエグすぎるんですよ…」
「はて、そうでしょうか」
「僕の歌で意識を微睡ませアッシュの姿をした素戔嗚に籠絡させて糸を切らせるまではともかく、冥府に戻すだけで済まさないのがえげつないな…」
「おや、それは褒められていますか」
「充分だってことだからいいだろ」
「貴女の兄上はなかなかに聡明な方だな、怖いくらいよ。しかしあの女、いかに見事な目眩ましだったとは言えよく我に気づかなかったものだな」
「シエル様の歌の中でまともな思考を保てるものがいるものか。あんな小物、簡単に堕とせる」
「兄さま、言い方。君もお疲れ様、ありがとう」
「元はといえば我が姉上の不始末をも関わることよ、役に立てたのならそれでよい。しかしあの術は不思議なものだな、まやかしでも無くあれ程貴方様になりきれてしまうとは」
「八雲の術の応用でしたがなかなかうまく出来ましたね。水の膜にアッシュの影を映しただけなんですが意外に便利だ」
「…自分がもう一人別の動きで目の前にいるのはおかしな気分だったな」
「これでも我は三貴神の一柱よ、かの女の幻術くらいはわかっておれば効きはせぬし、堕ちた身なれば人のように女も抱けば酒もやる。やはりこの役目は我が最適であったろう」
ステラがくすくすと珍しく楽しげに笑うのにアッシュとシエルがため息でもって眺める。
「まったく…、兄さまも…怒りが吹き飛んだと言うか…馬鹿馬鹿しくなりましたよ。アッシュへの悪さですらもあの女にとって今ではただの苦しみでしょう」
「それは何よりです、さっさと戻りましょう。アレが待っている」
「おまえは宰相の事しか言わんな。他にないのか」
「俺の全てだ。貴様だってシエル様にはそうだろうが」
「………戻ろう」
「アッシュ、兄さまに絡むのはやめなさい。どうせ勝てない」
嫌そうにそっぽを向くアッシュをなだめながらステラが作る闇の中へ包まれた。
「おぅ、おかえり」
「ステラ様…」
「戻ったぞ。ちゃんとお前の望みは叶えた、約束も守った、褒めろ」
「ふふ…、また可愛いことおっしゃって、ありがとうございます…嬉しい、さすがです」
ふわりと微笑むキースを抱き寄せると何処か嬉しそうに柔らかな髪に、目元に優しく口づけた。
「まったく…、見てられんな」
「これの顔を曇らせなければあそこまではしなかったんだが、当然の報いだ」
「ステラ様…、一体どんな罰を」
「お前は知らなくていい。ただ、あの毒婦がお前の前に現れることはない、悲しませることもない」
「はい…、信じます」
さっさとキースを伴ってソファでいちゃつき出したステラを放置してアッシュがシエルの様子を伺う。
「それで…、身体はどうなんだ。力は戻りそうか」
「えぇ、さすがに分かりやすく魔力が巡りだしたのを感じます。これなら今度は本当に2、3日で戻るかな」
「…そうか」
「さすがに反省しました、あまり油断するものではありませんね」
「俺が悪い、護ると言っていたのにこの体たらくだ。魔導に疎いのが俺の欠点だな…」
「ま、そこは彼奴が埋めたらいいさ。俺に相談したらいい、ご苦労さん」
「僕達は兄さまが誘導する通りに女を素戔嗚のいる場所に辿り着くよう、僕達は遭遇しないよう歩き回ったあと少しだけ歌っただけですけどね」
「そっちの偉丈夫の事か、俺の子らが迷惑かけたな」
見覚えのない神が一人増えているのにベリルが机に座ったまま声をかける。この子達が連れてくるのなら問題ないのだろう。
「なんと、貴方が我が女神のお父上殿か!流石にお美しいな…、目を奪われるぞ」
「…何だこいつは」
「こら、すぐに誰彼構わず口説こうとするのはやめなさい、流石にパパはまずい。世界の根底に喧嘩売る気ですか」
「む。そんなつもりではなかったのだが…、我の好む美しい御仁を見るとついな」
「俺の事か、そうか?」
「貴方は相変わらず面白いくらいに自分の容姿に自覚がないな」
ステラがキースを胸に抱き寄せ満足そうに撫でながら呆れたように声をかけてきた。
「美醜などどうでもいいし基準がわからん。うつくしいとはなんだ?好むということか、整っている?だから何だ。それなら俺にとってはクロードだけが愛しいし、美しい」
「徹底してますねぇ」
「醜い、というのなら姫に悪さをしていた愚物は確かに醜かったな」
「そういえば、彼女が借りていた少女の身体はどうしたんです?」
「「さぁ」」
シエルが問うのにステラと素戔嗚が同時に答えた。
「さぁって…、放置してきたんですか」
「ふん、あの身体の人間も俺の唯一に手を出そうとしたゴミだろうが、どうなろうと知ったことじゃない」
「あ。さすがに忘れてなかったか」
思い出したようにキースを抱きしめ直して不機嫌な顔を作る。そう、あの人間は嫉妬で自分の唯一を何処の何かも分からぬ男達に襲わせようとしたのだ、忘れるはずもない。
「あぁ…、あの時の少女…大丈夫なのですか」
「お前を害する人間の事など考えることはない」
「でも…まだ子供です。淑女としての未来もあるのに…」
「成人はしているだろう」
「…これから改心する機会を与えてやるのも大人ですよ」
「…全く、お前は優しすぎる」
「私は…、貴方が愛してくださる限り誰よりも幸せなのですから。何も恨むことなどありません、ステラ様…私の為に怒らないで」
困ったように隣で微笑むのに暫く苦虫を何百匹も噛み砕いていたが諦めたように息をついた。
「………執事長に回収させる、それでいいか」
「ふふ、貴方だって優しい…」
「お前にだけだ」
「お前らほんっとにいい加減にしろ」
流石にベリルが際限のなさそうないちゃつきっぷりを止めにはいる。もはやアッシュとシエルは意に関するのもやめていた。
「これはまた…、稀に見る溺愛ぶりよ。兄上殿、先だっての我の軽率な振る舞い許されよ。あまりに天使殿が麗しくてなぁ」
「お前、まさか精霊使いにまで軽口言ってやがったのか。よくもまぁ無事だったなぁ」
「面目もない!」
悪意とは程遠いなかなか憎めない男だと思う。
「我が女神よ、少しでも貴女のお役に立てたこと嬉しく思うぞ。いつでも我を呼ぶがよい、疾く駆けつける。感謝も礼もいらぬ、我にとって貴女はそれだけの価値がある」
「今回は突然呼び出してすみません。ありがとう、助かりましたよ。また火の国に立ち寄ったときはよろしく頼みます」
「心得た、今宵は我は帰るぞ。怜悧なる天津甕星どの、お優しく清廉な天使殿、そして麗しきお父上殿も機会があればいずれまた見えようぞ。」
「……だから、誰だそれは」
「ふふ…、ステラ様へのご協力ありがとうございます」
「おー、気ぃつけて帰れよ。俺の息子と娘が迷惑かけたな」
「ははは、そして貴方様。我が女神を泣かすなよ」
「…わかっている。悪かったな」
塔のテラスに出ると精悍な笑顔を残して風と共に帰っていった。
「…姫は相変わらずあぁ言うのを手懐けるのが上手いなぁ…」
「何て人聞きの悪いことを言うんですか」
「はー…、だってまた力が戻ったらどっかいっちまうんだし、少しくらい虐めてもいいだろ」
「拗ねないでください、僕は君には弱いんだから」
「ふ、そうなのか」
ベリルがちょっと嬉しそうに頬杖で笑う。
可哀想な闇。淋しくて孤独な君を少しでも笑わせてあげられたら月も喜ぶのだから。
「まぁ、少しイレギュラーがありましたがまたここを出るまでに仕事はちゃんと片付けていきます。兄さま、表向きは僕が宮廷魔導師長と言うことになりましたからよろしく」
「そのままそのお役目差し上げてもよろしいのに」
「冗談でしょう、実務は君が頑張りなさい」
「畏まりましたよ」
「さて、部屋へ戻ろうかな」
「…ステラ様、お二人のお見送りくらいさせてください」
「このままでも出来るだろう」
「…出来ま せ、ぇ、…ぁ…ッン、んぅ―――…」
「……姫、あれはほっといて戻れ。腹を立てて疲れたろ、夕飯には呼ぶ」
「何で兄さまはこう天邪鬼なんですか…わざわざ逆らうんですから」
隠すように胸に抱き込み口づけると、散々堪能したあと息も絶え絶えなキースをコートに隠して意地悪そうに顔を上げた。
「いけませんね、コレはどうにも虐めたくなってしまう。主、遅れましたが今日の仕事を少し片付けましょうか」
「あんま虐めると拗ねて暫く口聞いてくれなくなっても知らねぇぞ」
「……………。キース…」
「…知りません」
ちらりと胸元の愛しい顔を見下ろし、ふいと視線を外されるのに慌てて悪ふざけが過ぎたと謝りキースの機嫌を取り始めた。あの何者にも無慈悲無感動の兄の情けない姿にアッシュと二人で笑ってしまう。
怖いものなど無かったのだろうに、唯一勝てないものを自ら作ってしまったのだ。
「怒るな…、悪かった」
「意地悪ばかりなさって、人前では嫌だってご存知なのに」
「少し気分が良くなって調子に乗った、怒るな…、控える」
「キース様、すみません。今回だけは僕が謝りますから許してやってください」
「…貴方にそう言われては、もう怒れません」
「兄さまも、今回だけですよ庇うのは」
ちゅ、と目元に優しく口づけてそっと抱きしめていた身体を離してやった。
「シエル様、本当にもう大丈夫なのですか」
「はい、ご心痛をおかけしてすみませんでしたね」
「そんな、私は何も出来なくて…」
「兄さまには礼をしなくてはなりません、僕の代わりにお願いします」
「…貴方まで」
「ふふ、ではまた明日。ありがとう」
アッシュの腕の中に戻るとふわりと風の精霊の影が現れ二人を風が包む。次の瞬間には風と共にかき消えた。




