求不得苦
言われた言葉が一瞬理解できなくて固まる。数秒考えてやっと口を開いた。
「共有…?」
「えぇ、私とあれのように感情までは覗けないでしょうが、多分…」
「ぇ…、ンぁ…ッ」
「おい…」
つい、と触れていた首筋に軽く指を滑らせるとヒクリと小さくシエルが身体を震わせた。
「これくらいの感覚は伝わっているでしょうね」
「…貴様」
「怒るな、お前の油断だろう。そしてシエル様におまえが触れて甘やかせば甘やかすほど、件の糸の主を喜ばせている事だろうよ」
「……あの女」
憎々しげにアッシュの瞳が揺れる。
「貴方が仰っていた絡新婦…、ですか?」
「そのようだな」
そっと覗き込むように傍にいたキースが問うのに、軽く開けていた襟首を整えてやりながらステラが淡々と言う。シエルを前にこれだけ無感動に振る舞えるのはこの神くらいだ。
「シエル様を抱きしめれば糸の主も同じように抱きしめられ、優しく口づければ…、お前の口づけを糸の主も受けているということだ」
「…………は?」
一瞬誰の声かとその場にいた全員が考えた。
空気が止まりゆっくりと視線が一点に集まる。
「…………………シエル…?」
「兄さま…今、何て 言いました」
「おや、もう一度申し上げますか」
「………僕のアッシュと、何だって」
「…貴女を介してこの犬の口づけに、冥府の底でひとり悦楽に浸っている蜘蛛がいると言いました」
遠くで小さな音がした。
その数秒後に小さく窓が揺れてカツンと小石がガラスを叩く。
なんだ?と小窓を通して人間の女と仕事の話を交わしていたベリルが音がした方向へと視線を向けた。
「何かあったか…?おいステラ」
いつもなら呼びかけに即応える息子の気配が一向にしない。
「…あん?」
「ど、どうなさいました?…ステラ、様 ですか?わたくしはアレクサンドラと申しますが…」
聞き慣れない名に小窓の向こうから首を傾げる気配がする。
「あぁ、違う。…っかしいな」
小さな異変に気配を探れば世界樹に知った気配が集まっているのを感じるが、はっきり覗くのは憚られた。
「一体、なんなんだ…」
「ねぇ兄さま。この汚らしい糸、まだ…焼き切れていないの……」
神聖な神の大木の周囲一キロほど吹き飛んでいた。キラリと輝くと映像を巻き戻すように花たちが蘇る。
「シエル…ッ!」
「おやおや…気持ちはわかりますが落ち着きなさい、今の貴女では無理でしょう。私ですら10000時間かかると申し上げましたのに…、コレが驚いています」
「ぁ…、シエル様」
「大丈夫だ、お前は俺が護る。一筋の傷すらつけることはない」
「はい、信じています。花達も皆護ってくださって…、でも…」
「シエル落ち着け」
「ダメ…、僕に優しく触れないで。あのオンナを欠片も喜ばせたくない」
「何が起こった……」
キースをコートに包みこんで涼風を流すように立つステラと、シエルを抱きしめようとして拒まれているアッシュ、そしてひとり10m程飛ばされたのか吹き飛んだ花畑の跡に大の字に倒れていた素戔嗚がむくりと起き上がる。
「頭が沸騰しそうです兄さま。キース様を奪われた時の貴方はこんな気持ちだったのですか」
「どうでしょう。貴女の心の中は分かりかねますが、世界などどうでもいいと、貴女を含めてコレ以外の全てが消えてなくなっても構わないとは思いましたね」
「今初めて貴方に共感します。どうりで時々度を超えているなとは思いました…多少甘やかしていても口を挟めなくなったじゃないですか」
「わかっていただけたのは何よりです。…しかし、どうなさるおつもりですか」
「求不得苦の境地を知らしめたい」
シエルが無表情で言い放った。
こんな顔をするシエルは初めてだ。多少ヤキモチを妬いたなどと膨れることはあっても可愛らしいものだったのだ。こんな、深く瞳の奥まで静かに怒りをたたえるのは見たことがない。
「不思議だな素戔嗚、あんなに頭にきていたのにお前の姉など可愛らしく思えてきた」
「なんとも…、複雑な許しよな。我が女神よ、詫びと敬愛だ。何でも言え何でもするぞ」
「…ねぇアッシュ…、あのあと何度僕に触れたっけ…何度僕に口づけた…?」
「シエル…、俺はお前にしか触れていないしお前にしか口づけない。触れた感覚だけなど皮膚に表れた単なる反射に過ぎない」
「それでも…胸をかきむしりたいほどに許せない…」
優しく両手で頬をつつみ込み、その瞼に口づけて細い身体を抱きしめてやりたい。だがまさかそれが今最もシエルを怒らせる事になるなんて。アッシュは拳を握りしめ歯噛みするしかなく、それをステラに抱きしめられ護られながら見ているキースは自分自身にすら後ろめたさを感じてそっとステラに願いを口にした。
「ステラ様…、どうにかならないのですか」
「そうだな、手がないでもないが」
「貴方に触れられないなど私なら耐えられない…」
「それがお前の憂いだと言うなら、俺が全て取り除く」
抱きしめてなだめるのにキースの曇った顔が全く晴れない。つくづく冥府の住人は自分を苛つかせる。
「…こうして貴方に触れて、抱きしめられる至福を誰かが勝手に同じように享受しているなんて…想像しただけで嫌です、絶対に許せない」
ぎゅ、と背中に回した手が服にシワを作った。人前でこんなに甘えてくるのは珍しい、その場で口づけて思う存分に愛して甘やかしたくなるのを堪えて優しく頬から首筋を撫でてやる。
「お前の願いは全てに優先する」
❀❀❀
「……ッぁ、……あ、…」
また、と小さく呟いて身体をくねらせながら女が冷たい床に横たわり身悶えていた。
「ぁぁ、アッシュ……またあの女をこんなにも優しく抱きしめて…、ん……ふ…、ぁン…ふふ…もっとよ…、そこじゃない…こっちに口づけてほしいのに…あぁ……、もどかしいこと…」
感覚を辿り指で追い、その刺激を元にアッシュの姿を想像して自らの身体を慰める。美しく妖艶な女が切なげに身体を震わせた。
「こんな、子供をなだめるような優しい口づけだけじゃ物足りない…、やはり直接あたくしの身体に触れて、舐めて、揉んで、吸って……、ぁあ、あ……あんな小娘の身体しか知らぬのだろう…?触れてさえくれたらこの極上の身体でおまえを虜にしてやるものを…」
不意にむくりと上半身を起き上がらせると暗闇へと視線を滑らせ何もない空間を白い指でとん、と触れればそこを中心に波紋が広がった。ゆらりと裸の女の背中が揺らめく。
「ねぇ可愛いあたくしの宿り木…、そろそろ準備はよいかしら…?」
広がる波紋へとそのまま腕を突っ込むように差し出し薄いそれを顔、肩、胸…そして全身がゆっくりと通り抜けるとそのまま力を失ったようにぱたりと暗闇に女は倒れ込んだ。
「……………ッ、ンぁ……」
エラリアが自室で湯あみをしていたところ、突然身体を突っ張らせてその背を弓なりに反らせ両の目を見開き痙攣した。
ぬるりと背中から何かが這いずりこむ感触に喉から先に声が出ない。肩から腕へ、腹へ、秘部から足へと何かが埋まってゆく。
ゆっくりと頭を埋め尽くされたところでぷつりと意識は立ち消えた。
「……は…、ぁ……ァ…ン」
何処か子供の洒落っ気を確認するような仕草から妖艶な熟女のような仕草へとかわり姿はそのままなのに艶めかしい色気が身体から滲み出る。ふわりと世にも美しい女の影が揺れて見えて消えた。
「あぁ…、久方ぶりの現世の肉体…あたくしには及ばぬが、悪くない…。悦びを知ったばかりの身体は欲に貪欲でよく馴染む…、ンふふ…ぃゃだこの子…、ハジメテをそんな風に楽しんだの…?それはさぞかし夜は切なかったことでしょう…あたくしが、その淋しさを最高の男で埋めてあげるわ…」
くちゅりと軽く指をそこへと滑らせ埋め込むと愛おしげに見下ろし舌なめずりをする。
「この身体で貶し…、冥府へお前を連れ帰る…。あぁ…アッシュ…早くあたくしをその逞しい広い胸と腕で直に抱きしめて…」
湯からその身をあげると傍にかけてあったタオルを無造作に身体に巻きつけて浴場を出る。首筋から髪を後ろへと流して久しぶりの現世の空気を思い切り吸い込んだ。
❀❀❀
「帰りましたよ」
「お、…なぁどうした?俺の声に無反応、って…、何かあった…、あん?姫らも一緒か……、機嫌わりぃな…どした」
ぞろりと執務室に闇から姿を現した皆に顔を上げてベリルが迎える。
「ちょうど修羅場だったもので。シエル様は今はそっとしておきなさい、それよりなんです?いつの間に小窓など…」
初めて目にする人達が突然空間から現れ小窓の向こう側にいた少女がピンと背中を伸ばして恐縮する。黒い男とその腕に抱き締められた優しげな人…、男か女かよく見えない。そして見覚えのあるアッシュと…、初めて見る王よりも遥かに美しい白い人がそこにいた。
『…ッうっそ…、でしょ…ベリル様よりもなんてそんなの、あり得る…の…』
「あぁ、お前か。仕事中に悪いな」
「知っているのか」
「パパ上の新しい補佐官だ」
「…………………何だそれは」
どちらに対して言ってるのか、もしくはどちらにもなのか、うんざりした顔でステラが目を潜める。
「シエルが喜ぶから仕方ない。あと、補佐官の話はしてあっただろう」
「あれか、まぁいいでしょう。娘、俺がラグナ・バァンズだ、覚えろ。緊急事態が起きた、今日の仕事は適当なところで切り上げて帰ってよい。執事長が送り迎えをする手はずのはずだ、下がれ」
「畏まりました、それではこれで失礼いたします」
小窓に向かって礼の姿のまま応える。
『と、言う事はあの優しげな方が大公妃様…ということかしら、良かった』
静かに小窓が締まり一人に戻ったアレクサンドラは突然の目の前に広がった非日常の光景を考えた。
しかし、あの白金髪の存在自体を疑うような美しい人は誰なんだろう…、まさか光の王クロード様…いやいや、闇の神殿に光の王は立ち入ることはできない。ならば一体…、いや待て…その美貌にばかり目がいっていたが着ていたのは宮廷魔導師のローブ、そしてあの色…姫……シエ、ル まさか…、まさか…まさか!?
「んで、何があったよ。姫の様子がおかしいな、犬 ちゃんと護ってたんだろうな」
「…正直俺の油断だった」
「あん…?」
「貴方も気づかなかったのですか、シエル様に絡みつく冥府の糸ですよ」
「…あぁ、あれか。ぬるぬる力を抑制する以外に害はなさそうだったが…」
「節穴か」
思いがけず詰られてベリルが首を傾げる。
「最初は一本の糸だったのでしょうね。絡みつき、増やし、捉え、蜘蛛のように獲物を雁字搦めにして…」
一呼吸おいて呆れた声でステラがつけ足した。
「いずれ乗っ取るつもりだったのかもしれません」




