喰って愛す
「エラリア…、エラリア。そろそろあの日のことを話してちょうだい。疲れは取れたでしょう?お母様たちも心配したのですよ、エラリア」
とんとんと部屋の扉を遠慮がちに叩きながら母が声をかけてくる。あの日屋敷の者に連れ帰られ、あやうく気を失ったまま服を着替えさせられそうになったところで意識を取り戻してから部屋に閉じこもって今に至る。
湯だけは用意させて身体は綺麗にしたがまだ至る所にあの夜の跡が残っていた、傷はほとんどないが流石に人の目に触れるのはマズい。
あの盗人供も失敗した上にこの私にあんな屈辱を与えたのだから許せないと言えば許せないのだが、余計なことをして自分に起きた事を公にする方がまずい。…だがいずれ何かの形で報復はしてやりたいのだが。
そして屈辱と言うよりは夢見ていた夜を台無しにされたことへの悔しさと、自分が嫌いな女への憎悪が強すぎたのか実は絶望の類いは思ったほど感じてはいなかった。
憎たらしいが、純潔の証など暗闇に乗じてあとから赤いものを数滴垂らしておけば誤魔化せるに違いない。男なんていくらでも手のひらで転がせばいいのだ。
それよりも…、あの日の明け方彷徨っている時に夢を見たような気がしたのだ。いや、眠ってなどいなかったはずなのだがあまりの悔しさに頭が沸騰していてわけがわからなくなっていたから記憶があやふやだ。
髪もドレスも唇も爪も、何もかもが艶めかしい漆黒の女が語り掛けてきた。
美しくしてやろうと、すべてを手に入れてやろうと、気に入らないものを消してやろうと。だから純潔を失ったその瑞々しい身体をほんの少しだけ貸してほしいと。
それは本当かと聞いたら女は笑った。そして気づいたら領地を走る街道の一つで眠っていたのだ。
あの女は誰だったのだろう…。
特にあれから身体の変化があるわけでもなくやはり夢だったのかと思う。
とりあえず身体に散った痣が薄くなるまでは侍女にも見せるわけにはいかなかった。
「お母様…、申し訳ありませんわ。本当に体調が思わしくなくてツライの。流感でも拾ってしまったのかも…あの日は本当に心配かけてごめんなさい…、でもただ町に出てみただけ、道に迷ってしまっただけ、何もなかったから今は眠らせて…」
「まぁ…私の可愛いエラリア…可哀想に。わかったわお薬を用意するわね」
うるさい母を追い払ってとりあえずこれからの事を考えよう。よく分からないが大公妃には何の危害も与えていないのだから大丈夫…、なはず。
少なくとも何かが未遂になったのがバレていたのだとしても私が首謀者だなととわかるわけがない。
愚かな少女には神がどのような存在であるのかわからない。ギリと爪を噛みながらベットの上でイライラとした様子で枕やシーツに当たり散らしていた。
首筋の後ろに浮かび上がる黒い紋章に気付かないまま。
「…どうした」
ふとシエルが振り返る。
何もなかったはずだ、音も、気配も、風も静かだ。
「ん、…さぁ」
「…おまえが意味のないことをするのか」
「するかも…、しないかも」
「何だそれは」
「ふふ、行こう。パパが待ってます」
髪を風が撫でる。初めて風を不快に感じて軽く髪を梳いて流した。何かがまとわりつくような空気、直ぐに戻ると思っていた力が何となく緩々と押さえつけられているようになかなか思うように戻らなくて少し気にはなっていた。
ぬるく首を撫ぜて来るのに苦笑で応えるとアッシュが差し出した腕に包まれ、今度は全く別の優しい風が2人を巻き込んで攫った。
❀❀❀
「ステラ様…?どうかなさいましたか」
「ん、なんでだ」
こつりと肩口に頬を寄せて見上げてくる。
どうにもコレは人の目がある時とない時の落差が激しい。少しでも人の目のある場所では触れることすら拒まれるというのに、こうして自室で甘やかしている時は自分から身を寄せてくるのだからおかしなものだ。
「…おまえは触れられるのが嫌な訳ではないのだな」
「…?」
「無自覚か、まぁいい。小虫が…、いや少し違うな…蜘蛛がうっとおしいと思っただけだ」
「蜘蛛…? この部屋にですか」
埃一つない神の住処に小さな蜘蛛という違和感にキースが首を傾げる。
「絡新婦だ。あれは怖い生き物だぞ、執念深く狡猾だ。甘く見ていると毒の牙で噛まれて糸に絡め取られる」
「…貴方を絡め取るなら私が殺します」
「ふ、俺はとっくにお前に絡め取られて身動き一つとれはせん。それにあれは…、犬が好みらしいしな」
「いぬ…?」
「俺が手を出すものか、放っておくものか」
「可愛い弟さまなのでは」
「シエル様はそうだが、犬の方は可愛くない」
「またそんな事おっしゃって」
小さく笑うのがまた愛しくてたまらない。
この顔をまた曇らせるかもしれないと思えば口にするのを憚られた。…だが
「何か隠されてますね」
「…隠してはいない、…まだ口にしていないだけだ」
「では、今聞きますよ」
「む」
少し迷って、だが胸に抱き込み少しでも傷つくようならすぐに癒せるようにと囲い込んで怖がらせないように、ゆっくりと何でもないことのように話してやる。
「冥府の絡新婦だ、執念深い。あれは獲物を引きずり込んで雁字搦めにして喰って愛す」
ヒクリと肩が揺れた。細い身体を抱きしめて言葉を選ぶ。傷が開かぬように、傷つけぬように。
「お前には近づけない、もうその目にも映らない。この身体に指一本も触れることは無い」
「でも、そんなものがあのお二人に近づくのは我慢なりません」
「そうか、お前が嫌なら仕方ない。お前の憂いはすべて俺が取り除く」
「…あんなものが、また悪さをしているのですか」
「どうかな、恋心はわからんでもないが横恋慕と言うやつなら話は別だ」
キースの指が不安そうにステラの襟にしわを作る。
「冥府の神というものは一体…」
「…そうだな、お前は知らんか。あれは人間というものができてきてから産まれた魔物だ」
「魔物…、神なのに?」
「…神には生き物達の心が産み出したものもいる。あれはその最たるものだ。何かに縋りたい信仰心や恐怖、憎しみから産まれる神もいる。いいものも、悪いものも等しくな。俺達のようにこの世界が産み出したものとは根本的には違うものだ。だからお前の身体を美味いと言ったろう」
びくりと肩が揺れて襟元の白い指がそっと背に回り、胸に身体全部を預けてきた。
「悪かった…言葉が下手だった。死は人が最も恐れる心だ、故にそれから産まれたあれは強い。世にいる数多の神の中では、な」
「恐ろしくはありません…、ただ」
「ただ?」
「…この気持ちを何と表したら良いのか」
「ん…」
「そう、言葉にするとしたら『嫌い』です」
キースが口にする子供のような言葉に一瞬何を言ったのかときょとりとした。
「ク、…ふははははッ」
「今まで、そんな感情を持ったことがないからわかりませんでした…」
「はは、そうかあれが初めてか」
「今までは…、好きかそうでないかしかなかったので…」
優しいコレらしい。
以前冗談で『嫌いになる』などと口にしたことがあるが、あれは本当に冗談だったのだと可笑しくなった。
胸に頬を寄せながら小さく唇を尖らせるのがなんともキースらしくない。こしょりと顎をくすぐってやればふいと顔を上げるのに軽く唇をあわせた。
「まぁ、犬にちょっかいかけたがっている絡新婦は世に這い出てくることはできない。欠片2人が地の底へ縛り付けているはずだからな。ただ、なにやら生臭い匂いが地上に出てきている…、悪さを企んでいるようなのが鬱陶しいだけだ」
「わかるのですか」
「冥府の番犬が知らせてきたからな、少し探ってみた。暫くは一人になるな、俺か馬鹿2人の傍にいろ。犬には1人で近づくなよ、あれがいれば危険はなかろうが…彼奴はシエル様が第一だろうし向こうから危険がやって来るところへわざわざ寄ることはない。お前に何かあるのは我慢ならん…」
「またそんな呼び方をして…、でも…はい、貴方のおっしゃる通りにします…。ただ、お二人の事はちゃんとお護りください」
「まぁ…犬に俺の手出しが必要かはわからんがシエル様が不快になるのはつまらん事だ、お前が言うならそうしよう」
「…貴方は、アッシュ様に絶対の信頼を置いてらっしゃるのに意地が悪い事ばかりおっしゃるのですね」
「犬は今は人だが俺が育てたあっちの馬鹿の息子だ。この世界の何であろうが傷一つつけられんのは当然だろう」
「私になさるようにもう少し優しくされても」
「主にすら面倒なことをあの犬にか」
心底嫌だという顔をするのに仕方のない人だと苦笑する。だがふと思った、自分を攫ったあの死の神はステラによって今も狂ったままのはずだ。まさかあの幻から抜け出せたとでも言うのだろうか。なによりあの神が抜け出せたとしたらステラが黙っているとは思えない。
「でも…、あの神ではないのでしょう?ならば絡新婦とは」
「地の底の女王だ、あの世界には王と女王が共存している。夫婦でもないのに夫婦のような、兄妹ではないのに兄妹のような…、仲がいいような悪いような、な」
「何故そんな」
「…考えてみればあの女の方が厄介かもしれん、力はあのクズの方が上だがクズは人の死への恐怖から産まれた信仰神なのに対してあの女は違う、腐敗と深淵から産まれた自然神。あのクズは死を恐れる心が無くなれば…、もっと簡単に言えば感情を持つ生命が消えれば共に消えるがあの女は違う」
「と、言うと」
「この世界の死が訪れるまで存在する、何度消そうともな」
「そんな…」
「執念深いぞ」
そして、ふと思う。
「…私もいつか消えるのですか」
「いつか、な。この世から光が消えてなくなれば。そしてその時は星も消える」
その言葉にキースがとろりと微笑んだ
「なら、良かった…」
❀❀❀
深淵の闇の中で薄ぼんやりと白い指が浮かび上がった。つ、と闇を滑り何かを描く。
「可愛らしい子…、醜い子…。そして邪魔な純潔を散らしてますます艶めかしく瑞々しい…あたくしの大切な宿り木…。もっと、もっと堕ちておいでなさい」
ばちんと何かに弾かれ忌々しげに唇を歪ませ舌を打つ。
「ち、この茨 まだ枯れぬのか…。光の戒めよりもあたくしと近しい闇の楔の方が厄介なことよ…。光を護るように打ち込まれて格子に走る闇の結界で茨に触れることもできやしない…あの女の父なだけある事、あぁ忌々しい…」
冥府の城に閉じ込められてどれだけ経ったのか。
一瞬であったような、数千年も経ったような…。
「どんなに邪険にされようとも…あの方に触れられるだけで何と妬ましい…。あぁ、早く…早く」
ほんの僅か、再び恋しい男を見た瞬間に恋心が溢れてこの身体を狂わせる。白い指を噛んでもう片方は自らの身体を艶めかしく弄った。
「あたくしと…、早く…融け合いましょう」




