本当におまえは無敵だな。
「ソレル」
「ぁ、とうさま!」
休憩中だったのか声に気づいてすぐに小さな身体が転げるように走ってくる。仕事を片付けそのまま侯爵家へと久しぶりに帰ってきた。世話をしていた乳母がそっと礼をして部屋を辞するのを視線の端に見て、駆けてくる子供が父へと真っ先に抱きつくのを静かに見ていた。
愛らしい瞳は自分の唯一と同じ澄んだ蒼で、愛しいような苛つくような、不思議な感覚がして胸が疼く。
「良い子にしていましたか」
「はい、きょうもおべんきょうがんばったのです」
「…無理をしてまで頑張る必要はないのですよ」
「とうさまとおなじさいしょうさまになるのです!」
「…こんな幼いうちからあの馬鹿は余計な知恵を刷り込んでいるのか」
「ステラさま…」
苦笑しながら屈んだキースの膝に抱きつき、おそらくはクロードに言い含められている事を無邪気に話すソレルを少し憐れむように見てしまう。
「…かあ…、さま」
そっと遠慮がちに呼んでくるのに暫く気付かなかったステラが小さく『あぁ』と気付いて見下ろした。
「私の事ですか」
びくりと小さな肩が震える。怖い、と言うよりは呼んでもいいだろうかという遠慮の色が濃い。
黒いドレスを纏った美しいが酷く無表情の女が静かに見つめてくるのにぎゅ、とキースの服を掴んで耐えた。
「ふ、なんだ」
「ステラさま、子供にはもっと穏やかに話すものですよ」
「キース、妻に敬称は必要ないだろう?」
「……ぅ」
何だか喧嘩をしているように見えて大きなこぼれそうな瞳がオロオロと二人の大人を交互に見る。
「ごめんなさい…、かあさま…。とうさまをしからないで…それるはいいこにします…」
「ソレル…、ふふ…かあさまは怒っていません。こんな顔してますが今日はご機嫌いいのですから」
「…ほんと?」
「……まぁな」
そうでなければこの子に会いになどきてはくれない。普段は妬いて妬いて仕方がないのだ。やっと二度目の顔合わせだと言うのに表情の薄い彼は女性の姿になっても酷く高圧的だ。
「それるのこと、きらいじゃないですか…」
「その問いへの答えはなかなか難しい」
「ステラさま!」
元々母の記憶などない子供だ。時々世話を焼いてくれていた姉が母のようなものだったかもしれないが、やはり何かが違うことはわかっていたらしい。
初めてステラに会わせた日、これが母だと言ったはいいが全く母らしくないなと紹介したキースですらしみじみ思ったものなのだ。
ふいに顎を捕らえられて息を奪われる。
「ん…、ちょ…んぅ」
「ステラ、だ。言ってみろ」
子供の目の前だと言うのに遠慮もなく触れてくるのに慌てて見せないようにソレルを胸に抱き込み、距離を取ろうとステラの胸を押した。
「…ッ、いけま、せん!」
「全く、こいつがいると好きに触れることも出来ない」
「んん、んー…、とうさ、ま ぷぁ」
「あぁ、すみませんソレル。今日は一緒にご飯を食べましょう、それまでは居られますから」
「ほんと!やった」
「…ちびなのに思ったよりもはっきりしゃべるな。この頃のシエル様はもっと舌足らずだった」
「ふふ、そうなのですか。そういえば、貴方は既に子育てというものを経験なさっていたのでしたね」
「…こんな脆そうな子供は初めてだがな」
「あのお二人が特別なんですよ」
きょとりと見上げてくる子供をやはり無感動に見下ろす。少しも母らしくないのにソレルは何故か簡単に母であることだけは受け入れていた。
「かあさまは…、ほかにもこどもがいるの…」
「ん、何故だ」
「それるのかあさま…、なのに…やだ」
「…? そうなのか」
「この子は産まれてすぐに母を失いましたので…、貴方が初めてのお母様なのですよ」
ぐすぐすと今にもべそをかきそうな子供によくわからない感情が湧いてくる。さすがキースの息子だ、初めから自分に対して全く恐れはしなかった。
ひょいと抱き上げて涙がこぼれそうな瞳を軽くぬぐってやるとむずがるようにステラの襟元を握りしめた。
「ガキ、泣くな。お前は父を護れるように強くならなければならない。その為に俺はお前を常に対等に扱う」
「それるは…つよくないですか」
「こんな事でべそをかくようではな。それにシエル様は俺の子ではないから安心しろ。俺の子はお前だけだ」
「…ほんと?」
「あぁ。あの方は…弟、だな」
「おとーと?」
「今度会わせてやる」
「…ッ いいな、おとーと!ぼくもほしい!」
「ぅ…、ソレル…」
無邪気に言うのにキースだけが耳元を染め、ステラはやはり無表情のまま首を傾げた。
「…それは、やはり俺が産むということか」
「ステラさま!」
慌てて口を塞いでくるのに軽くその手を捕らえて口づける。子供の前のキースはいつもと何処か違う。それが少し面白くなかったのだが、よくよく見ればそれも一つのキースなのだ。
「まぁ、俺の子はお前だけでいい」
「それるだけのかあさま…?」
「そうだ」
「…それるの」
ぱぁ、とソレルが頬を紅潮させると甘えるように首に抱きつくのにステラが何がそんなに嬉しかったのかわからないと首を傾げる。
それを見てキースが少しだけ目を細めるのにお前が喜ぶのならまぁいいか、と手を伸ばしてその頬を撫ぜてやった。
❀❀❀
「パパー」
「…なんかもう慣れてきたな、それ」
「あはは、とりあえず魔道士達は解散させたので新たにお仕事先をいくつか見繕ってください。甘えた子供達ばかりなので出来るだけ辺境の官吏が良いでしょう、あまり権力は与えないで」
「ふーん、何かおかしなことになってたんだな。わかった、手配しとく。あの小娘に渡したらいいのか」
「はい、あとはまた兄さまを説得してキース様をお借りしないと」
「おぉい…もうあいつを引っ掻き回すのは勘弁してくれ…」
「お仕事お願いするだけで連れ回したりしないから多分許されると思ってるんですけど」
「そうなのか」
「だって、そもそも本当の魔導師長様なのは兄さまでしょう、僕はあくまでも影武者ですよ。なら筆頭補佐はルシア様にお任せしたほうが良いじゃないですか」
「あぁ、そういやスカイラーの娘は解任するんだったな、なら後釜が必要か」
「彼なら慣れていらっしゃるでしょうし他に兄さまのお傍における人間なんていないでしょう、一番適任です」
「わかった、うまく頼めよ」
「はぁい」
何だか最近ベリルの前では甘えた娘のように振る舞うのはわざとだろうか、懐かしさからだろうか。
セリスは数十年に一度程度、静かな湖の神殿に闇が会いに来てくれるのだけがよすがだと聞いたことがある。実質の母である光よりもずっと心を寄せているのだろう。
だから、面白くはないがベリルの邪魔だけはあまりする気になれない。
面白くない、それはそうだ。神にとって親子や兄弟姉妹である事が伴侶にする妨げになることはないのだから。
だが、光と闇に関してだけは揺るがない確信があるから…、仕方ない。
「シエル、戻るぞ。あとは任せたらいいだろう」
「はい、じゃあ食事まで休みましょうか。兄さまは明日は此方に来るのかな」
「午後には来るはずだぜ」
「午後か…どうしようかな。ちょっと行ってこようか」
「飯には戻ってこいよ」
「はいはい、さみしがり屋のパパ。一緒に食べましょうね」
「うっせぇぞ、からかうな」
「あはは」
むくれた顔で軽くシッシッと手を払い2人を追い出した。
「お前は本当に無敵だな」
「何、どういう事です」
「怖いものなんかないだろ」
「え、ありますよ。何言ってるんですか」
「へぇ?」
「知りたい?」
「…お前がそういう顔をする時は本当のことは言わないからいい」
「聞いてよ、意地悪だな」
「俺が護るからそれが何であろうとどうでもいい」
「絶対ですよ」
「当たり前だ」
とろりと嬉しそうにとろける顔を優しく撫ぜてやった。シエルは二人になれば途端に我儘で可愛い。
「心も身体も俺が護るし、全部俺のものだろ」
「ふふ、もっと言って」
あぁ、本当に 我儘すら 愛しくてたまらない。
❀❀❀
「で、なんです」
「ちょっと、二人きりになれるとこ邪魔したからって少しあからさま過ぎませんか兄さま」
応接室のソファに不遜に座り不機嫌な顔を隠しもしないで高く足を組んだステラがシエルに対峙する。
「やっとアレを堪能できる時間だったのに邪魔するからですよ。で、どうしたんです?こちらの屋敷にいらっしゃるなんて」
「早いうちにお願いしとこうと思いまして。キース様…違うな、ルシア様を魔導師長筆頭補佐に置いてください」
「……またそんな面倒な話を」
「おや、だって貴方の補佐ですよ。僕たちが請け負うことは難しいですし、ルシア様以外にその身分を明かしてお傍に置けるんですか」
「…まぁ、それはそうですね」
「兄さまの指示は多分ルシア様ならばそもそも必要ないでしょう。実質の魔導師長の代役をお願いしたい。影武者は引き続き請け負います、伝令は用意しましたのでそちらを介して今度はちゃんと魔道士団を動かしてください、キース様どうです?」
「ふふ、ステラ様のお役に立てるのでしたら何でもいたしますよ、お任せください」
紅茶を運びながら優しく微笑むのに軽く礼を言って受け取った。苦虫を何百も噛み潰したようなステラとはあまりに対照的で面白くすらある。
「城の四塔のひとつ、紅の塔に伝令を兼ねたベリルの補佐を置きますから上手く使ってください」
「魔導塔の一つを与えるのですか、それはまた」
「あの子はちょっと厄介事に巻き込まれていてね、貴方のルシア様に害意をもつあの娘に狙われてるもので庇護下に置きました」
「……………は?」
「だから、怒らないでってば」
「…そういう事なら仕方ない、預かる」
「よかった」
「魔導塔?…いつもの執務室のあるあの塔でしょうか」
すとりとステラの隣に座るともはや当然のように腕に抱き込まれてそれを当たり前のように享受しているのがなかなか刷り込まれているなぁと感心する。
「はい、黒と白と蒼と紅。その塔の主以外は立ち入ることもできない四塔の一つです。最も大きな黒の塔は兄さまとパパの執務室、白は僕達が立ち寄った時に使わせていただいています。蒼と紅は今は空いていますので、一つを使わせていただこうかと」
「入るときに何か不思議な入り口だとは思っていましたが…」
「執事たちもベリルの許可がないと入ってはこないでしょう?傍に置かなくても匿うにはちょうどよいのでね」
「なるほど…」
「では兄さま、そういう事で頼みます。邪魔してすみませんでしたね、また明日」
「はぁ、わかりましたよ。明日はそちらに顔を出します、おやすみなさいませ」
「おやすみ。兄さま、ほどほどになさいね」
「かしこまりました」
「し、シエル様!」
「あはははは」
言いながらソファを立つとベランダに向かいガラス戸を開ける。すぐに静かに風が包んでベランダから二人の姿がかき消えた。焦る顔も愛しい、やっと遠慮なく触れられるとひらりと手を振ればガラス戸が静かに閉まって二人だけの空間に戻った。




