玄月の儀の日
御影邸の、とある部屋のドアノブを握る。鍵は掛かっておらず、古びた見た目のわりに軋む音もない。半端に開いたドアの向こうに、仄暗い寝室の隅を窺い知る。
「君がいるみたいだ」
誰かが言った。横笛の音のように透き通った声だった。
死人のように眠る青年の傍らに、白銀の髪を煌めかせる貴族服の少年が寄り添っていた。淡紅の目だった。
私は見てはいけないものを見てしまった気がして、音を立てないようにゆっくりとドアを閉めた。
***
御影邸の朝が微妙に遅かったことを、私は一週間ぶりに思い出した。この寂れた場所で過ごした日々と、薄ら氷を踏むように触れた摩訶不思議なすべて。その続きに久々に踏み込んで、迂闊に気分を舞い上がらせる。
昨日は実家に戻らなかった。御影邸の私の部屋で目が覚めたとき、時計の針は昼前を指していた。相当深い眠りだったらしい。体の時間感覚もそう言ってる。夢を見た気もするけど、内容は思い出せなかった。
私はベッドに座り、化粧箱の傍らに目を向ける。宝石のブローチの隣には、組み紐、水入りの小瓶、厚紙の手帳。預かり物を返すのはもっと先になるかもしれない。霏鷹はまだ霊体で、水でできた人形を動かしているからだ。
朝の食卓に現れた彼は御影青年の姿をとっていた。最近目にする薄手の黒いコートを抱えて、白シャツに灰色のベストを着た――正装的なファッションだ。
「眠れたかい?」
「やっとね」
「今夜も添い寝必須かな」
「マジそれ」
久々の応酬。霏鷹がからからと笑った。反省してない気がする。二人で囲む食卓に並んでいるのは、私のぶんのトーストだけだ。「水で充分なんだ」とグラスを傾ける彼は、私の不満を分かってくれるだろうか。
霏鷹の顔を見るたび胸の底で『言い切れない』ことを燻ぶらせて、私は自分が情けない。
「そんな顔するなよ。明日になれば戻るさ」
「……ふうん?」
「方法は分かってる。それか……なにぶん君は『御影』を所望か」
霏鷹が冷徹そのものの真顔を作ってみせて私をからかう。つい頬が弛み、懐かしさにため息が出た。
どんなでも好きよ。伝えるのは今さら小恥ずかしくて、私は霏鷹のグラスに手を出した。飲み干して、驚く顔を楽しんで、「これじゃ足りないわ」と欲を出した。私たちははにかみを向け合う。
「今日は付き合ってくれるかい、暁」
「当たり前でしょ。私も誘うつもりだったわ」
今宵迎えるは『玄月の儀』。月鏡の人々は二百年ぶりの特別な季節の訪れを喜び、夜通しの舞で水神さまに感謝を申し上げる。
*
霏鷹は帝国の二人に猶予を与えたらしい。
逃亡の、ではない。今日が祝祭の日ゆえに、今日限りの恩赦を賜わったのだ。国を壊そうとした危険人物からわざと監視の目を外すなんて、大胆というか、鷹揚さに流石の私も驚いた。ちなみに明日の昼頃には神託や巫たちの会合があり、公的な裁定が下るのだという。
今日明日は祝日。図書館は休館。すなわち私は暇の極みだ。そういうわけで真昼から出店を渡り歩き、買い食いしながらユーリや泉さんとつるんでいるのである。
「御影さんが来れないなんて残念だな~。せっかくのお祭りなのにねぇ」
「激しく同意。何してんだシャルぅ、引っ張ってこんかい」
「無理がある……」
私は苦笑する。この前家にお邪魔したときに北方兄妹に誘われて、何故かあいつも連れてくる話になった。けども――当時は行方不明で生死も不明。誰も連絡を取れず、難しいとなって見送られたのだ。
今だって「あいつも暇じゃないのよ」と適当に流すしかない。ちなみに身内の顔して御影の不参加を伝えたのは私である。
「そうだ、暁ちゃん知ってる? 水神さまって、祭の日は街に下りてくるらしいよ」
「へっ!?」
「うちの学校でも話題になっておるのだ。花火も見てたそうです。イケメン説、再燃ッ!」
「えぇ……」
噂好きの兄と一応教師やってる面食いの妹が私に畳み掛ける。ヒヤヒヤさせんな! どう反応するのが正解だコレ。
霏鷹が街を散歩してるって? 大当たり。巫の御影として儀式の舞の指南を完遂するため、今日はほぼ神殿につきっきりだそうだ。で、そのほぼを除く待ち時間はそのへんで潰すって言ってた。
「でも、まさか本人が言いふらすわけないし……」
あいつの秘密主義はよ~く知ってる。いや、まさかね。
「水神さまは巫女さんのダンス見るんだろか。シャルちゃんも夜ふかしする?」
「私? ああ、うん。その予定」
「わたしは多分寝てしまうので最初だけかもだ……あ、お兄ちゃん! あれ食べたい。あれも!」
「えーどれ? ごめん暁ちゃん。買ってくるから待ってね」
人懐こい兄妹が嵐のように去っていく。置き去りだ。これもまた一興。私は季節外れなかき氷を一口食べると、一休みできそうな場所を探して彷徨う。
「――調子はいかがですか。黒廼さん」
心臓を掴まれたかと思った。大人になりきらないうら若い声音。必要以上に丁寧な口調。振り返ってみて予想通り。
レオナさん。余裕ある足組みでベンチに腰かけて、ねちっこく胡散臭い記号的な爽やかさで私を見上げる紅の双眸。
そしてその左隣には、「お前は正気か!?」とでも言いたげな表情で冷や汗を流して固まる『同じ顔』。つまり、こっちもレオナさん。
二人いた。




