【黄泉おくり】
暁が現れる十分前。
皇子はベンチで黄昏る。祭の喧騒に紛れて近づく、まがいものの足音を感じて。
耳にすべての意識を集中して、巧妙に作られた音の向こうを聴き取る。その音は半端に融けた氷菓の混ざる音に似ている。月鏡に来て初めて味わった、雪の降る日の静けさにも。
「紅華はいないのかい?」
聞き慣れないソプラノが降ってくる。現れたのは、白銀の髪と淡い赤の瞳を持つ中性的な美少年だった。ひらひらの貴族服にタイを締め、顔以外の素肌をとことん隠した格好である。
「……水神か」
「あたり」
フフ、と霏鷹は楽しそうに笑う。「君に敬意を表そうかな」と、くだけた口調を露わにする。一方のレオンハルトは、意気消沈を絵に描いたような濁った血潮の目を向けるだけだ。
「二週間前『かげろう亭』で君を見かけたよ。美食家だね」
「……視覚が弱いぶん、他の感覚器官が発達しているのです」
「『かげろう亭』では暁の母親が働いてるんだ」
レオンハルトは閉口した。普段のように弁が立つ気がしない。自分より背丈が小さな美少年のなりをした相手に圧されている。
「暁は強かっただろ」
霏鷹は逆光を背負って立ち、人の形をした影をレオンハルトへ落とした。くっきりと濃い黒の内には、浅瀬の水底に光る波模様がゆらゆらと揺れている。
「君は彼女を傷つけ、銀彊会を乗っ取り、暴力や拉致を煽動して国をかき乱してくれたね」
「どれだけ変装して立ち回ったことか。やり方は私の指示ではなく、過剰だと止めても聞く耳を持たなかった」
「へえ。水神への信仰を言い訳にするか」
一瞬の反論もすぐ失せてしまう。火種に薪を焚べただけと言えばそれまでだが、一線を越えさせた人物とは他でもない――。
「おれも難儀な軀になった。屍を動かすよりも自由だが、どうやら暁にとっての不自由を背負わされたようだ」
「……」
「でも、君の人生は序の口だ。これから取り返せばいいんだよ」
霏鷹の口ぶりが示す感情は、怒りや悲しみというものを超越していた。無邪気にも冷酷にも思われた。
罪人として巫の会合に出席せよ。月鏡の法に則ってしかるべき裁定と刑罰を受けよ。
いずれは国家間で相互不可侵と相互不干渉を取り決めるだろう。おれたちは互いの国を攻撃しないし、内政に口出しをしない。貿易にも影響が出るかもしれない。
「待て。それは私の一存では……!」
「じゃあ、これに承諾を出すならやれるだろ?」
霏鷹はベンチに軽々と乗っかり、前のめりの上目遣いになってレオンハルトを見た。その尖った鼻先に人差し指を向け、声変わり前のハスキーボイスで告げる。
「君の顔と声をもらう」
レオンハルトは息を止めた。
「ここで死せる生命は、あまねく月鏡の記憶と成る。言い方を変えれば
、おれは死の神ゆえに生者を完璧に支配し続けることはできない」
「……死者への……冒涜だ」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
細っこい腕を下ろして、神意は飄々と告げられる。
「だったら黄泉に堕ちてくれ。指切りしよう」
まるで悪夢のような誘いだった。耳鳴りがする。炎神の声の残響だ。
レオンハルトは問うた。死神と呼び忌み嫌う存在に、あのアレスが姿を貸した理由を。水神は答えた。三百年前の付き合いのよしみで、転生前の『神代の記憶』を呼び覚ますことを交換条件に承諾したと。
「…………なおさら、分からなくなった」
レオンハルトは顔を逸らした。焼け落ちた灰に似た色の髪を乱し、両のこめかみに爪を立てる。
「ならば何故、私を助けた……ッ!!」
尖った歯を剥き出し嘆いた。瞼を強く瞑り、目元に深い皺を刻みながら。
霏鷹は良家の嫡子よろしく利口に座ったまま、冬の夜のような無言と無表情を貫いていた。恐らく正体を看破されたことなど気にも留めない様子で静観する。
「貴方は黒廼暁とは違うはずだ。私は兄のように王位継承権もなく、目の欠け子ゆえに婿に出すこともできず、祖国からはお払い箱同然で、アレス共々首輪をつけて飼い殺された。かの事件で皇帝は『神に魂を奪られかけた』と言った。あれからずっと、濡れ衣を着せてしまってからずっと、アレスも私も、」
「気まぐれさ」
霏鷹が遮った。逃げ場の無い激情の吐露は、流れ落ちる湧き水に掌でつくった器を差し出すように、実に簡単に受け止められた。レオンハルトは両手を顔の前まで滑らせて、髪をぐしゃりと掴んで目元を隠した。
「……っ……」
「おれはそんなやつだ。器に合わせて形を変え、どんな絵の具の色にも染まる。水と同じだよ」
自分を殺して水神に身を捧いだあの子。心残りは継いだつもりで、暁にもあてられて今の『霏鷹』になったと――彼は心中で回顧する。
「ゆるすものか」
レオンハルトは呻く。
「ゆるすしか……ないのか」
そして哭く。追い込まれてはち切れそうになったとき、「……だが!」と意地が喉元をせり上がる。
「そのやり方では、救い損なうぞ! 『御影公慈』!!」
「君の善性を信じてるよ」
レオンハルトの鼓膜に届く声の質が変わった。恐る恐る顔を向けると、音で掴む空間の真ん中に座すのは――
「レオンハルト」
――間違いなく自分だ。
「だが、『彼女』を侮辱すれば手段は選ばない。卑劣狡猾、なんとでも言うがいい」
水神が言った。レオンハルトの背筋をぞっと寒気が駆け上がり、畏怖が食道を逆流した。目には見えない目の前で、水神が怒気を湛えて薄笑っている。逆鱗に触れたのだ。
水神はレオンハルトの声で話した。本来自分自身で聞くことはないであろう声。いわゆる骨伝導の効果を抜き去っているので、聞けば誰しもが気持ち悪いと感じるものだ。
だが、それだけではない。言葉選び、声の抑揚、微細な音から分かるちょっとした仕草。心当たりしかないのだ。レオンハルトは常に話し方や態度に細心の注意を払っている。それをこうも精緻に写し取れてしまうことが、この上なく恐ろしい。
「――なんて、脅しだけどね」
ぱっ、と切り替えて明るく笑ってみせた。レオンハルトの甘いマスクのままで。
「暁に感謝しなよ。本当なら生きては帰さないとこだ」
穏やかを通り越して、霏鷹は呑気にも思える声を投げた。敵意を織り込んだ嫌悪感の糸がぷつんと切れてしまう。
「は、はは、は……」
帝国の皇子はもはや吹っ切れて、息を詰まらせながら乾いた笑いを漏らすしかなかった。
***
レオンハルトは息をつく。人生を賭けた契約を甘んじて受け入れたことは、もうどうでも良かった。
君って甘味好きだったろ。教えた覚えのないことを口にして、霏鷹は近くの屋台で買ったりんご飴を寄越した。手にした飴にそっくりな赤目を閉じて、レオンハルトは物珍しげに鼻を近づける。
「双子かって訊かれたよ。上出来かな」
「……私は抗議したいです」
「銀彊会は一瞬しか保たないし鏡像になるから、大博打だったんだよ」
「コウギ」
「残念。君にその権限は無い」
「……ごもっともで。最悪の人質だ」
レオンハルトの口ぶりは、泣き明けた後の子どもに似ていた。
「…………貴方を捕らえられなかっただけで、敗北感しかないというのに」
うっすら嫌気が差して、丸く真っ赤な煌めきにかぶりつこうとした、そのとき。二人が座るベンチの前を、早足の靴音が通り過ぎた。
「調子はいかがですか。黒廼さん」
音の持ち主をにこりと笑って呼び止めたのは、本物ではなく偽物。一手遅れたレオンハルトは途端に焦りを覚える。が、それは杞憂だったようで。
ぱたぱたと踵を返しやってくる足音。吐息交じりの高揚の機微。チョップという名の制裁が灰色の頭にすとんと入った。
自分ではない方に。
「オイ。私が騙されると思ってんの、ひよちゃん」
――レオンハルトには音がある。では、彼女は何故わかるのだ。どうして神を二柱も味方にできた。どうして他者の秘めた過去を言い当てられた。
……やはり、敵にしてはいけなかった。
「レオナさん。ごめんね、ほんと」
あの恐ろしい水神に気安く絡みながら、彼女は達観した保護者のような態度で謝意を入れた。視力の弱いレオンハルトに彼女の表情ははっきりとは窺えない。きっと美しいに違いなかった。




