8.フレイハイル
鑑札を出し始めて一週間。
ドワーフ街には、噂を聞きつけた買い付けの商人がひっきりなしに訪れるようになった。領都の宿や食堂も、連日の繁盛ぶりに嬉しい悲鳴を上げている。
現金なもので、ドワーフ相手の商売は儲かるとわかるや否や、領都の職人や商人たちは、こぞって彼ら向けの品物を作ろう、売ろうと動きだした。
オークス領は王都から遠く、隣国エレフテリアと国境を接していることから、ドワーフに対する差別や偏見が王都より薄かったせいもあるだろう。
それにしても。
(たった一週間で、ここまで変わるものなのね……)
そう思う一方で、私にとってはひどく長い一週間でもあった。
鑑札の話をしたあの日以来、ダンカンとは一度も会っていない。
私が忙しかったせいもあるけれど、これまではドワーフ街に行きさえすれば、どこかしらで顔を見るくらいはできたのに……。
領都のオークス屋敷に、コゼットがひょっこりと顔を見せたのは、そんなある日のことだった。
「まあ、いらっしゃい、コゼット!」
言いながら、私は無意識にダンカンを目で探す。
「今日はお兄様は一緒じゃないの?」
「うん。兄さんはお山でフレイヤを待ってる」
そう言うコゼットは、何だか妙にそわそわしている。まるで何か言いたくて堪らないのに、必死で我慢しているような……。
「アクイラ山で?」
「そう。だから今日はフレイヤがお山に来て?」
「え、ええ……」
コゼットに引っ張られるまま玄関を出れば、そこには、見覚えのある黒い熊が大人しく寝そべっていた。
ダンカンの騎獣である。
その周りを、我が家の護衛騎士たちが、剣の柄に手をかけながらも困惑顔で取り巻いていた。
(よかった)
屋敷の者たちには、ドワーフには決して手出ししないよう、いついかなる時も丁重に迎え入れるよう、前もってきつく言い含めてある。
コゼットの姿を見たからこそ、騎士たちも熊を攻撃せずにいたのだろうが、でなければちょっとした騒ぎになっていたところだった。
「乗って、乗って!」
コゼットが熊の横腹を叩くと、前の時と同じように梯子と鞍が現れる。
「出かけてくるわ。留守中は誰も入れないように」
慌てて飛んできた家令にそう言うと、私はコゼットと共にゴーレムの熊に跨った。
◇◇◇
あの日、ダンカンに山を贈って以来、アクイラ山に来るのは初めてだった。
今、山の入口には石造りの立派な門が聳え立ち、てっぺんの要石には、どんぐりとオークの冠を戴いた熊の頭部が浮き彫りにされている。
「開け!」
コゼットの楽しげな声と共に、巨大な門が音もなく開くと、そこにはダンカンを先頭に、ドワーフたちがずらりと居並んでいた。
その光景は、まるであの日、初めてオークス領にやってきたドワーフたちと顔を合わせた時のよう――。
けれど今、彼らの顔に疲労や悲しみの色は微塵もなく、誰もがつやつやと栄養のいきわたった顔に微笑みを浮かべていた。
黒い熊がゆっくりと腹ばいになり、その横腹に再び梯子が現れる。
ダンカンが進み出て、熊の背から降りる私に恭しく手を貸した。
「フレイヤ。ようこそ、我らがフレイハイルへ」
「……!」
フレイハイル。
直訳すれば「フレイヤの国」という意味だ。
原作では、アクイラの富を独占したフレイヤが、ドワーフたちを前に勝ち誇ってこう言う場面がある。
『今日からここはわたくしの新たな国。この山をフレイハイルと名づけましょう!』
本来、ドワーフの国にはその山を最初に治めた王の名前が冠される。ドワーフの言葉で「ニア」は王国の意味だ。
ヴァルカンが拓いた山だからヴァルカニア。
ダンカンが初代の王となるこの山は、だから「ダンカニア」となるはずだし、実際、原作でもエンディングではその名前に直される。
なのにダンカンは、人間の言葉で――「フレイヤの国」と、この山を名づけたのだ。
私は、声もなくダンカンとその背後のドワーフたちを見比べた。
「そんな……。ここはあなたの王国なのに」
「貴女に譲っていただいた国だ」
「でも」
「どうか、フレイヤ。我らからの尽きせぬ感謝の気持ちを受け取ってほしい」
そう言うと、ダンカンは懐から何かを取り出した。
その無骨な掌には、大ぶりな琥珀色の宝石がついた黄金の首飾りが載っている。
「あの洞窟で最初に見つけた金鉱から掘り出した黄金で、私が最初に作った品だ」
言いながら、ダンカンがペンダントヘッドを裏返すと、そこにはどんぐりとオークの冠を戴いた熊の鉱山印。
(これは)
原作でフレイヤが死んだ後、ドワーフの復権のために尽力したエルシーにダンカンが贈った首飾り――に、似ているけれどちょっと違う。
(漫画のカラーページでは、首飾りの石はピンク色――エルシーの瞳の色だった)
けれど、今差し出されたペンダントに嵌まっているのは、熟成されたブランデーのような深い琥珀色――まるで、目の前で微笑んでいるダンカンの瞳のような。
そう思った途端、とくんと鼓動が跳ねた。
(ああ。どうしよう)
このひとが好きだ。
アンドルディアと呼ばれたあの日から――いいえ、本当はもっと前からずっと。
「これを、わたくしに?」
ダンカンは「ああ」と頷いた。
「貴女が気に入ってくれると嬉し……っ!?」
私は深く頭を下げた。
背中で編んだ長い髪を前に回し、首筋が見えるようにする。
「では、ダンカン様の手で着けていただいても?」
一瞬、躊躇うような間があった。
それから、ダンカンの両腕が、私の顔を挟むように通り過ぎる。
鍛冶仕事で硬くなった指先が、うなじの後れ毛をそっと払い――。
ひやりとした金属がそこに触れた。
その途端、ドワーフたちの間から、わっと歓声が上がる。
「フレイヤ様、万歳!」
「我らの間に、永久なる友誼の続かんことを!」
ゆっくりと頭を上げれば、首飾りは私の鎖骨のくぼみにしっくりと納まった。
ダンカンが私を見上げ、眩しそうに目を細める。
その顔を見ただけで、心臓の音がさらにうるさくなる。
「では、あなたの王国を見せていただけますか、陛下?」
「喜んで。貴女の王国を案内しよう」
◇◇◇
原作に登場するアクイラ山の内部は、狭い坑道に岩の壁、方々に立てかけられたツルハシや手押し車という、いかにも鉱山らしい景色だった。
けれど今、ダンカンに手をとられて私が足を踏み入れたそこは、壮麗な岩の宮殿だった。
高い天井のところどころから、外の光が幾筋も射しこんで、青味がかった岩壁をきらきらと輝かせている。
天井からつららのように下がる鍾乳石や、そこかしこの地面から突き出た石筍には精緻な彫刻がほどこされ、つるつるに磨き上げられた床はまるで鏡のようだった。
人間の職人が束になっても、おそらく十年以上はかかるだろう大仕事だ。
「すごいわ……!」
素直に感嘆する私に、ダンカンは誇らしげに微笑んだ。
「坑道と作業場はもっと深い場所にある。だが今日はこちらへ」
案内された先は、また別の大広間だった。
細長い石の大テーブルがいくつも並んだ一番奥に、ひときわ立派なテーブルと玉座のような椅子が二つあり、卓上には溢れんばかりのご馳走と銀杯が並んでいる。
ダンカンに促されるまま、その片方に腰を下ろせば、コゼットが火酒をなみなみと注いだ銀杯を私に手渡した。
隣に座るダンカンが、高々と杯を掲げて声を張り上げる。
「フレイハイルの女主人に!」
その声に応えるように、いくつもの銀杯が一斉に打ち合わされた。
「我らが王と、黄金の姫に!」
洞窟をどよもすドワーフたちの声。
私は胸がいっぱいになって、声もなく杯を上げてみせるのが精一杯だった。
覚悟して呷ったドワーフの火酒は、喉を焼きながら落ちていったのに、後に残ったのは花のようなかぐわしさと蜂蜜のような甘さだった。
「……おいしい」
思わず漏らした声に、隣でダンカンが破顔する。
そこから先は、もう何が何やらだった。
誰かが歌い出し、誰かが太い腕と腕を組んで踊り、老いたドワーフが私の手を握って何度も礼を言い、コゼットがいつのまにか膝によじ登ってきて、空になった銀杯には誰かが必ず次を注いでいく。
私は笑い通しで、途中からは歌の文句まで覚えて一緒に口ずさんでいた。
ローガンのことだけは、誰も口に出さなかった。
もう何度杯を空けたか記憶もあやふやになった頃。
一人の若いドワーフが、ダンカンに近づいて何やら耳打ちした。
途端にダンカンの顔が険しくなる。
「今はいい。放っておけ」
「けど、ダンカン……」
そう言う若いドワーフの顔色はひどく悪い。
「ダンカン様。どうかしましたの?」
「何でもない」
「実は領都で」
ダンカンと若いドワーフの声が重なった。
「領都で……何かありましたのね」
ダンカンがいまいましげに舌打ちする。
「領都に王太子を名乗る若い男と王女を名乗る女が来たそうだ。どちらもドワーフの細工物について、値段が法外すぎると文句を言っている」
「っ!」
アリスターとエルシーだ。
私は唇を噛みしめた。
(あの時、二人からの手紙を読んでさえいれば)
少し前、封も切らずに抽斗に放り込んだ二通の手紙。
あれは二人の来訪を告げるものだったに違いない。
私はさっと立ち上がった。
「領都に戻りますわ」
「フレイヤ……」
「行かなければ。商人たちでは、王太子の命令には逆らえませんもの」
鑑札制度の発足からまだ一週間。
ドワーフに対する偏見は決して消えたわけではない。商人たちが布告に従うのは、単にそうしなければ稼げない仕組みになっているからだ。
けれどそこへ王太子が来れば、仕組みは容易に破られてしまう。
そして、一度でも例外を許せば、鑑札制度そのものがあっという間に瓦解する――。
ダンカンはため息をついて席を立った。
「私も行こう」
「ダンカン様」
「いつまでも貴女に守られてばかりでは、ドワーフ族の沽券にかかわる。これは本来、我らが向き合うべき問題だ」
ダンカンと私は再び黒い熊に乗り、一路領都を目指して走り出す。
領都の上空にはすでに夜の気配が漂い、吹きつける風の冷たさに、私は思わず身震いした。




