10.王太子
「アル義兄さま。ねえ、アルったら! 聞いてるの!?」
「……煩いな。少し黙れよ」
苛立ちも露わにアリスターが言った途端、エルシーの大きな瞳に見る見る涙が盛り上がった。
「ひどい。アルったら……ちょっと話しかけただけなのに」
(ああ、くそ。何て面倒な女なんだ)
アリスターは深いため息をつく。
(今はそれどころじゃないっていうのに)
フレイヤの様子が、明らかにおかしい。
あの晩王宮で別れて以来、九ヶ月以上も経っているというのに、アリスターを恋しがる様子を見せるどころか、まるで赤の他人でも見るような眼差しを向けてきた。
(馬鹿な。フレイヤは僕にぞっこんのはずだ)
だからこそアリスターはエルシーと組んで、これまでさんざんフレイヤの気持ちを弄ぶゲームを楽しんできた。
高貴な美貌と妖艶な肢体を持つフレイヤが、アリスターの寵愛を求めて身も世もなく取り乱す様を見るのは、アリスターにとってぞくぞくするような快感だった。
だというのに――。
「ていうか、フレイヤったら、せっかくあたしたちが遊びに来てあげたっていうのに、こんな時間まで何してるのかしら」
エルシーの声に、アリスターは改めて自分たちが今いる部屋を見回す。
彼らが今いるのは、フレイヤの領都屋敷の客室だった。
広々とした居間を挟んで二つの寝室があり、片方をアリスターが、もう片方をエルシーが使えるようになっている。
二人を連れて屋敷に戻ったフレイヤは、
「ご滞在中は、こちらの部屋をお使いください」
と案内したきりそそくさと立ち去り、夕食の時も姿を見せなかった。
どうしたのかと家令に訊けば、
「商人たちと話し合いにお出かけになりました」
とそっけない返答が返ってくる。
(そもそも、この部屋だっておかしいだろう)
居間を隔てているとはいえ、エルシーとアリスターを同室にするなんて。
以前のフレイヤなら、アリスター一人を屋敷に泊めて、エルシーは領都の宿屋に追い出すくらい平気でしたはずだ。
がらがらという馬車の音に、アリスターははっと目を上げた。
急いで窓に近づけば、すっかり暗くなった玄関先に馬車が停まり、フレイヤがちょうど降りてくるところだ。
「ちょっとフレイヤのところに行ってくる」
「いいわね。だったらあたしも……」
「おまえは駄目だ」
ぱっと目を輝かせるエルシーを、アリスターはぴしゃりとはねつけた。
「えー? どうしてよぅ」
「フレイヤの様子を見ただろう。ちょっとやりすぎたんだよ。これ以上追い詰めると、本格的にへそを曲げるぞ」
「ええー」
まだ不満そうなエルシーをどうにか宥め、アリスターは一人廊下に出ると、勝手知ったる足取りでフレイヤの寝室へと歩き出した。
◇◇◇
ノックに応えてドアを開けたのは、フレイヤではなく侍女だった。
そこは寝室ではなく執務室で、室内は煌々と明かりが灯り、奥の大きな机には書類が山積みされている。
「こんばんは、アリスター殿下。ずいぶん遅くまで起きていらっしゃるのですね」
「それは君も同じだろ」
言いながら、アリスターはじろりとソファに座る男に目をやった。
眼鏡をかけた若者で、傍らには書類鞄が置かれている。
「君、ちょっと外してくれないか。それと侍女の君も」
ところが。
「いいのよ、ウェザビーもメアリもここにいて。すぐに仕事に戻るから」
フレイヤはそう言うと、温度のない瞳をアリスターに向けた。
「それで、殿下。ご用件は何でしょうか」
「何って……。会うのはずいぶん久しぶりだから、積もる話でもしようかと」
「でしたら、明日以降にしていただけますか。今はご覧のとおり、仕事が立て込んでおりまして」
暗に出ていけと言われているのを感じ取って、アリスターはむっとした。
「……それは、王太子たる僕との話より優先すべき仕事かな」
「そうですね。殿下方に不法な値段で宝飾品を売った商人への処置ですので」
「っ! あれはもう済んだことだろう!」
「殿下方にとっては終わった話かもしれません。けれど、自領を治める領主としては、目の前で布告を破った領民を放置することはできません」
「…………」
何なのだ、一体これは。
アリスターを見るフレイヤの瞳には、これまでは確かにあったはずの恋慕の情がひとかけらも残っていない。
(くそっ。やっぱり遊び過ぎた。調子に乗って冷たくし過ぎたんだ)
「わかったよ、フレイヤ」
アリスターは蕩けるような笑みに、僅かな悲しみをにじませてフレイヤを見た。
「思い出話は明日にしよう。悪かったね、仕事の邪魔をして」
そうして、くるりと踵を返す。
――と、背後からフレイヤの声がした。
「殿下」
(よし)
まだ前を向いたまま、アリスターはひそかにほくそ笑む。
「何かな」
「あのサファイアの指輪ですが、殿下はドワーフの品と知った上でお求めに?」
(ああ、やっぱり指輪のことを気にしていたのか)
「いや。ヴァルカニア迷宮から出た品とは聞いていたが、そこまでは」
「ドリン商会という名前に聞き覚えは?」
「さあ。ただ、義母上の――王妃殿下の家があったノヴァク伯爵領に、確か似たような名前の土地があった気がするな」
「……っ! 叔母様の……?」
見れば、フレイヤは難しい顔で眉をひそめ、何やらぶつぶつ呟いている。
「盲点だったわ。でも待って。そんなの原作にはなかったような」
「……フレイヤ?」
「ああ、何でもありませんわ、殿下。お引止めしてしまって申し訳ございません。それでは、おやすみなさいませ」
にこやかに、けれど他人行儀な態度は変わらないまま、気づけばアリスターは体よく廊下に追い出されていた。
「…………」
エルシーの待つ寝室へとゆっくり戻っていきながら、アリスターは今や、はっきりと危機感を覚えていた。
(フレイヤの支持を――オークス侯爵家の後ろ盾を失うわけにはいかない。何としても、フレイヤの気持ちを取り戻さないと)
その夜、アリスターは久しぶりに未来の夢を見た。
アリスターの大好きな夢。戦勝パレードの夢だ。
――****様、万歳!
――竜退治の勇者に栄えあれ!
通りを埋めつくす大勢の人々。晴れ渡った青空のもと、家々の窓から降りそそぐ色とりどりの花びらや紙吹雪。
けれど、アリスターはその景色を馬上ではなく、妙に低いところから見上げているようだった。
通り過ぎていく竜退治の勇者の姿は人々の背中に隠れて見えず、勇者を讃える人々は誰一人こちらを見なかった。




