第9話 戻るために、手を貸す
真砂堂の軒先で、風鈴が一度鳴る。
見上げると、紙の短冊にしがみついた白いものが、風に揺られている。俺の耳が動いても、今日は飛びついてこない。
「そっちは、そのままで頼むぞ」
戸へ手をかけた俺を、灯子さんが横から見る。
「ちゃんと覚えてるんだね」
「こっちも、忘れられる仕事じゃなかったんで」
耳の先を押さえ、店へ入る。
昨日の帰りに連絡をもらってから、何度も考えていた。宗玄が残したものなら、猫を離したときのことが書いてあるかもしれない。
それでも、まだ戻し方が見つかったわけじゃない。
今朝、工具袋へ札を補充しながらも、灯子さんにそう言われた。
分かっている。
分かっていても、机に並んだ紙を見つけると、歩くのが速くなる。
「おはようございます。これですか」
「ああ。先に包みを置いて、座りなさい」
真砂さんが丸椅子を引いてくれる。
灯子さんの持ってきた風呂敷を机の端へ置き、俺も工具袋を下ろす。包みの中身は、うつし身箱の破片だ。記録と比べられるよう、昨夜のうちに用意しておいた。
椅子へ腰を下ろすと、しっぽが脚に巻きつく。
膝で押さえていた手を開き、机に置く。
「……読めそうなところから、お願いします」
*
「調べてくれた人が、宗玄の名前を寺の出納帳で見つけてね」
真砂さんは、一枚目の写しをこちらへ向ける。
古い帳面を撮影したものだ。縦に並ぶ文字の横へ、鉛筆で読み下した紙が添えてある。
「お寺の名前は、常照寺。町の北の、坂を上がったところだよ」
「石段の途中に、大きな木がある?」
「そう。行ったことがあるかい」
「去年、庫裏の雨樋を掃除しました」
あのときは、落ち葉を袋へ詰めるだけで午前中が終わった。仕事のあとに住職が出してくれた茶まで思い出し、帳面の上へ目を戻す。
「そこに、猫のことも?」
「この行だね」
真砂さんの指が、読み下した紙の中央で止まる。
「『宗玄、猫の怪を人より離し、箱に収む』。それから、お礼に納めた米と銭の記載がある」
自分でもその行を追う。
箱を預かった家の書付だけじゃない。仕事を受けた寺のほうにも、同じ出来事が残っている。
「人の名前は、書いてありますか」
灯子さんが鞄から、前に借りた書付の写真を出す。
真砂さんが二つの記録を並べ、姓と、当時の家の場所を指す。どちらも、蔵の持ち主の家につながった。
「別の猫の話、ではなさそうだね」
「じゃあ、この箱でやったんですね」
俺は風呂敷へ手を伸ばしかけ、止める。
まだ、続きがある。
「どうやって離したかは?」
真砂さんは二枚目を出す。
同じ帳面の、次の頁だ。
「ここには、道具を用意した記録がある。箱の継ぎ目を直す板と糊。それに、封じに使う紙。ただ、札の文句も、作業の順番も書いてない」
耳が少し下がる。
自分で分かるくらい、頭の上が重くなる。
「……支払いの帳面、ですもんね」
「うん。けれど、ここは読んでおきたい」
次に指された行には、短い言葉が二つ並んでいる。
「『人を離す法、別冊に記す』。その下に、『箱の封じと混ずべからず』」
俺は顔を上げる。
灯子さんも、真砂さんの指先へ身を寄せる。
「猫を箱に閉じ込める方法と、人から離す方法は、別?」
「少なくとも、宗玄は分けて記録したらしい。封じる札だけを真似して済ませるな、という注意にも読めるね」
机の端に置いた包みを見る。
破片を合わせて、札を貼れば戻る。そんなやり方を試さずにいてよかった。
「その別冊は、残ってるんですか」
「寺の古い目録には、それらしい冊子がある。宗玄の名をつけた、仕事の控えだ。ただし、中身はまだ確かめられていない」
「見せてもらえないんですか」
声が少し高くなる。
真砂さんは困った顔で灯子さんを見てから、俺へ向き直る。
「見せることには、住職も同意してくれてる。困っているのは、取りに入れないことなんだ」
*
常照寺には、本堂とは別に、古い帳面や道具をしまった小さな土蔵がある。
出納帳は以前の調査で庫裏へ移してあったが、宗玄の控えは土蔵の中に残っているらしい。
「先月、棚を整理しに入った人が、奥の戸棚を開けようとしてね。戸が急に閉まって、袖を挟まれたそうだ」
真砂さんは、研究者から届いた写真をスマホに出す。
壁際の戸棚は、俺の背より高い。左右に開く木の戸の片方へ、白い布切れが挟まっている。
「怪我は?」
「袖を抜いて逃げられた。住職があとから見に行くと、誰も触っていないのに戸が開いたり閉じたりしていたそうだよ。それからは鍵を掛けて、人を入れていない」
灯子さんが写真を拡大する。
俺は戸の下より先に、棚の上を見る。重そうな木箱が、縁から少し突き出している。
「これ、揺れたら落ちませんか」
「それも心配していた。紙や箱を傷めたくなくて、手をつけられないんだって」
戻し方の書かれた本を、取りに行く。
さっきまでは、それしか考えていなかった。
けれど、戸棚を壊して中身を散らせば、読めるものまで読めなくなる。人を近づけずにおくだけでは、上の箱もそのままだ。
「灯子さん。住職と話せますか」
「うん。ただ、先に決めておこう。取りに行くからって、律が一人で戸を開けるのはなし」
「そこは分かってます。どの棚なのかと、何が入ってるか、聞きたいです」
灯子さんがうなずき、真砂さんから連絡先を受け取る。
電話をつないでもらう間、俺は机の紙をもう一度読む。
別冊に記す。
今度は、手順を残した場所がある。
見つかった本に必要な頁が残っているかは、まだ分からない。それでも、探す先があるのは昨日までと違う。
「律。住職に代わるね」
差し出されたスマホを受け取り、耳へ持っていく。
頭の上の耳に近づけすぎ、髪留めへ角が当たる。位置を直す俺の横で、灯子さんが口元を押さえた。
笑うところじゃないだろ。
そう言いたいが、向こうから聞き覚えのある声がして、俺は背筋を伸ばす。
「佐倉です。去年、雨樋の掃除で伺った」
名乗ると、少し間が空く。
『ああ、あの背の高いお兄さん。お声が』
「事情があって、今、見た目も変わってます。伺ったときに説明します」
灯子さんの肩が揺れる。
そちらを見ると目が合い、彼女は慌てて手帳を開いた。
俺は、もう片方の手でしっぽを椅子の脚から外す。
「土蔵の戸棚について、聞かせてもらえますか」
*
住職の説明を、灯子さんの手帳へ一つずつ書き込んでいく。
土蔵の入口から奥まで、中央には人一人分より広い通路がある。例の戸棚は一番奥。隣の棚にも帳面が並び、上には木箱が三つ載っている。
袖を挟まれた人は、戸の間に腕を入れたところで、閉まるほうへ引っ張られたという。
「扉が動くだけじゃなく、中へ引き込まれた?」
『本人は、そう申しておりました。私は近づくのが怖くて、入口から見ただけですが』
手帳の戸棚へ、矢印を一つ足す。
開く戸だけを避ければいいとは限らない。中へ手を伸ばすのは、動きを止めてからだ。
「宗玄の控えは、その戸棚にあるんですか」
『以前の整理では、下から二段目に。背表紙に名を書いた包みがあったそうです。今の私には、どれかまでは』
「分かりました。無理に確かめず、そのままにしておいてください」
作業は、人や資料を傷めずに戸棚を調べ、安全にすること。そのあとで、住職の立ち会いのもと、目的の冊子を探す。
灯子さんへ電話を戻し、依頼として引き受ける範囲と、費用の説明をしてもらう。
話がまとまるのを待ちながら、真砂さんへ顔を向ける。
「その戸棚と、俺の箱に関係はありますか」
「今の話だけでは、分からない。宗玄の本があるからといって、猫の仕業とは言えないよ」
俺はうなずく。
川で見つけた怪異とも、同じだと決まったわけじゃない。欲しい答えにつなげるより、現場で確かめるほうが先だ。
「箱も、見てもらいたいです」
風呂敷を広げ、底板と側板の破片を並べる。
真砂さんは敷いた布の上で縁を合わせ、継ぎ目を指先で確かめる。
「木の器として直せるのは、前に話したとおり。ただ、ここは木が欠けている。新しい板を足すことになるね」
「足しても、猫を収める箱として使える?」
「それは、宗玄の控えを見てからだ。元の形ならいいのか、同じ材料まで必要なのか。この出納帳からは読めない」
合わせた板を、また離す。
手掛かりが増えても、すぐ修繕に進めるわけではない。
「じゃあ、まだ削ったり貼ったりしないで、このまま」
「そうしよう。次に比べるときにも、元の状態が分かるほうがいい」
布の中へ破片を戻すと、灯子さんが電話を終える。
「午後から見に行くことになった。澪ちゃんにも来てもらうね。上流側の確認は午前で一区切りつくそうだから」
「刀、使うことになるでしょうか」
「それも、見てから。祓わずに済むなら、そのほうがいい。危ないときに止めてもらえるよう、お願いするの」
俺は手帳に描いた戸棚を見る。
資料を取り出したいからといって、動く戸の中へ飛び込むわけにはいかない。
足を置く場所と、戻る場所を決める。それから、何が動いているか確かめる。
最近の現場で覚えたことが、今度は自分のためにも必要になる。
*
真砂堂を出る前に、写しを一組もらう。
元の帳面は寺の物だ。借り出すのではなく、研究者と住職が認めてくれた写真で調べる。
紙を折らずに鞄へ入れようとすると、しっぽがふわりと机の縁へ上がる。
残っていた一枚を払う前に、真砂さんが押さえてくれた。
「喜んでるのは分かるけど、帳面の前では気をつけて」
「喜んで……ますけど。そこまで出てました?」
「さっきから、ずっと揺れてる」
振り返る。
黒いしっぽが、今度は灯子さんの手帳を狙いそうな位置にある。慌てて前へ抱えると、二人とも笑う。
「俺が手を貸してもらう側なのに、余計な仕事増やしてどうするんだ」
「手を貸すのは、いつもお互いさまよ」
灯子さんは手帳をしまい、箱の包みを持ち上げる。
「今日は律の調べ物でもあるけど、お寺から受けた仕事でもある。資料を守って、安全にして、それから読ませてもらおう」
「はい」
しっぽを離し、工具袋を肩へ掛ける。
今の俺には、札を貼る手も、音を拾う耳もある。けれど、どちらも一人で全部済ませられるほど便利ではない。
昼に一度店へ戻り、必要な道具を足すことにする。脚立は土蔵の通路を確かめてから運び込む。上の木箱を下ろすための、空の運搬箱も持っていく。
灯子さんが車へ荷物を積む横で、俺は澪に送る見取り図の写真を撮る。
元の姿へ戻りたい。
だから、急いで本へ手を伸ばすより、ちゃんと読める状態で持ち出したい。
送信を終えた画面に、すぐ返事が届く。
『合流します。戸棚には、まだ近づかないでください』
「……お前まで、それか」
口ではそう言いながら、俺は『分かった』と返す。
車へ乗り込む前に、鞄の口が閉じているか確かめた。
宗玄が書き残した場所まで、今度は自分の足で行ける。
その先に何があるかは、三人で確かめる。




