第10話 本に届くまでが、仕事だ
常照寺の住職は、俺の頭と顔を交互に見てから、去年と同じ笑い方をした。
「いや、驚きました。電話で伺っていても、これは」
「俺も、まだ慣れません」
庫裏の前へ運搬箱を置く。
背後でしっぽが箱の角へ触れ、慌てて腰をずらすと、澪が空いている側へ回って持ち手をつかむ。
「ここから二人で運びましょう」
「空だから、まだ一人で平気」
「戸口で引っかかっています」
箱より、しっぽを見られていた。
言い返すのをやめて、反対側の持ち手を渡す。
灯子さんは住職と、土蔵の鍵と作業範囲を確認している。箱の破片と帳面の写しは、車に置いてきた。今持ち込むのは、戸棚を調べる道具だけだ。
「中の物は、できるだけ残していただければ。ただ、皆さんに怪我をされるくらいなら」
住職が言いかけ、澪の肩の布袋へ目を向ける。
澪は刀の位置を直し、静かにうなずく。
「危険なら祓います。その前に、何に宿っているか確かめます」
俺も運搬箱を持ち直す。
宗玄の本は欲しい。けれど、それだけ取れればいい仕事じゃない。
*
土蔵の入口から、灯子さんの作業灯を奥へ向ける。
中央の通路を挟んで、左は帳面の棚、右は箱を積んだ棚。一番奥に、左右へ開く戸のついた戸棚がある。
その上には、写真どおり木箱が三つ載っている。左端の箱が前へ出て、底の一部が宙に浮いていた。
左右は、この入口から見たままで考える。
背後の戸口まで通路を空け、運搬箱は外に置く。住職にも外で待ってもらい、灯子さんが入口の内側へ作業灯を据える。
澪が先に二歩入り、俺はその後ろから戸棚を見る。
右の戸に、白い布切れが挟まっている。
こつ。
猫耳が奥へ向く。
戸が一度、内側から押される。
「来る」
澪が足を止めるのと同時に、両方の戸が開く。
暗い棚の中から、細長いものが垂れる。くすんだ灰色の布だ。一本は右の戸に挟まった袖の切れ端へ伸び、もう一本は通路へ落ちてくる。
先端が床に触れる寸前、こちらへ跳ねた。
澪が一歩退き、俺も踵を引く。布は澪の靴の先に届かず、床を叩いてから戸棚へ引っ込む。
その動きに合わせ、木の戸が勢いよく閉まった。
上の箱が、かたんと鳴る。
「まずい。あれを落とす前に止めたい」
俺は工具袋から札を出すが、灯子さんの手が肩へ触れる。
「近づく前に、届く場所を見よう」
俺たちは入口寄りまで下がる。
さっき布が叩いた床には、細い埃の筋が残っている。戸棚から、腕を伸ばしたくらいの距離だ。
入口までは追ってこない。戸が半分開き、中の布がゆっくり揺れる。
「戸棚そのものじゃないですね」
澪が作業灯の向きを少し上げる。
棚の中央、上の段の縁に、丸い金具が光る。その金具を中心に布が分かれ、戸の裏側へ巻きついている。
灯りが当たると、布が金具の前で重なった。
「真ん中の金具を隠した」
「そこに宿っていると思います。ただ、棚の中へ刀を入れると、後ろの物まで傷めるかもしれません」
刀を抜く手を止めたまま、澪が棚の下段を見る。
紙の包みが何列も並んでいる。あの中に、探している冊子があるかもしれない。
俺は札をしまわず、作業棒を取り出す。
「まず戸を止める。上の箱を下ろせれば、揺らしても落ちない」
「どう止める?」
「棒で外から触って、札が効くか見ます。手は入れません」
灯子さんが俺の顔を見てから、棒の先へ目を移す。
「一枚貼って、すぐ戻って。追いかけないこと」
*
札の端を、棒の先へ仮留めする。
脚立はまだ外だ。足元に邪魔な物がないのを確かめ、澪と並んで通路を進む。
俺が左寄り、澪が右寄り。布の届いた筋より手前で止まり、左の戸の外面へ棒を伸ばす。
札が木に触れる。
戸を押し、貼りつけた紙から棒を離したところで、布が隙間から飛び出す。
「下がって!」
澪の声に足を引く。
棒を戻すほうが遅れ、灰色の布が先端へ巻きついた。
肩が前へ引かれる。
引き返そうとしても、軽くなった身体のほうが動く。靴底が埃の上を滑り、俺は棒を放した。
木の棒が戸に挟まれ、短い音を立てる。
その手前で、澪の手が俺の上着をつかんだ。
「……放せましたね」
「放さないと、俺ごと行ってた」
澪に支えられて一歩戻る。
肩は痛くない。ただ、指に、握り続けようとした力が残っている。
左の戸は、ゆっくり閉じようとして棒に止められていた。右の戸だけが、何度もその棒を叩く。
札は効いている。けれど、片方だけでは足りない。
「律、手を見せて」
入口へ戻ると、灯子さんが指と手首を確かめる。
俺は両手を開き、握り直してから、奥の棒を見る。
「右にも貼れば、閉じるのを遅くできます。今なら、戸の外側から」
「次は私が貼る。あなたは、ここから見て」
予備の長い棒へ札をつけ、灯子さんが澪の左側から近づく。
俺は入口から、灰色の布の動きを追う。戸の間に挟んだ棒を引いている間も、別の端が床を探っている。
「足元、伸びてます」
灯子さんは手前で止まり、右の戸の外面へ札を押す。
すぐに棒を引き、澪と一緒に戻ってくる。布が床を叩くより、二人の靴が離れるほうが早い。
戸の音が小さくなる。
俺の棒はまだ挟まったままだが、上の箱は揺れなくなった。
「これで、動かないわけじゃないよ」
「はい。布の届かない横から、箱だけ下ろします」
*
脚立は、戸棚の左脇へ入れる。
灯子さんが脇の棚との幅を測り、布の届く正面を避けて置けることを確かめる。戸の札が剝がれないか見ながら、澪が入口まで脚立を運んでくれた。
そこからは俺と灯子さんで奥へ運ぶ。
脚立を開くと、いつもの高さが、今日は少し高く見える。
上の段へ乗れば届くが、その上に立つ必要はない。
「しっぽ、踏まないでくださいね」
「自分で踏むかよ」
最初の段へ足をかけた途端、しっぽが支柱に触れる。
澪のほうを見ずに、反対側へ逃がす。
「……引っかかることはある」
「はい。そちらも見ています」
灯子さんが脚立を支える。澪は通路の右寄りで戸棚を見張り、布が伸びれば知らせる役だ。
俺は段を一つずつ上がり、身体を戸棚の正面へ出さずに、左端の箱へ両手を添える。
持ち上げる前に、蓋が外れないか確かめる。
古いひもが掛かっている。底も抜けそうではない。
「下ろします。思ったより重い」
箱を胸へ寄せ、段を下りる。
以前なら片手で持てたかもしれないが、今は見栄を張る場所じゃない。下で待つ灯子さんへ重さを渡してから、最後の段を下りる。
一つ目は外の運搬箱へ。
戻って、二つ目。それから、一番奥の三つ目。
最後は腕だけで引き寄せず、脚立を置き直して手を届かせる。
上を空にしたとき、左の戸に貼った札の端が浮き始めていた。
「澪、戻る」
脚立を畳む俺たちに合わせ、澪も通路を下がる。
入口の外へ脚立を出すと、奥で、棒がまた鳴った。
間に合った。
でも、今の作業をもう一度できるほど、札は長く持たない。
*
上から見た戸棚の中を、手帳へ描く。
丸い金具は、古い布帯を留める留め具だった。布帯は右の戸の内側にある木の掛け釘へ掛かり、そこから棚の中へ伸びている。
「本を縛るための帯かもしれません。少なくとも、棚板から生えてるわけじゃないです」
灯子さんが、外で待つ住職へ写真を見せに行く。
すぐに戻ってきて、手帳の金具を指した。
「昔、帳面をまとめていた帯だそうよ。祓っても構わないって」
澪が、今度は刀を抜く。
狭い通路で振り回すことはできない。芯を突ける位置へ出さなければ、本を守れない。
「棒を引いている布を、手前へ出せますか」
「引っ張り合いは、俺が負ける」
即答すると、澪がうなずく。
「では、支える物を使いましょう」
俺は工具袋のひもと、持ってきた木のくさびを並べる。
戸を左右へ開いた状態で止められれば、中に伸びる布と、挟まれた棒を見通せる。
札がまだ効くうちに、戸の下へくさびを差す。その間、布を棒のほうへ引きつけておく。
俺は右の戸の外側へ、灯子さんは左の戸の外側へ回る。澪は中央、布の届く筋より手前に立つ。
戻るときは、戸の外側から通路へ。澪の後ろを通り、入口へ退く。
「俺たちが退いてから、棒を動かしてくれ」
「分かりました」
澪は刀を右手に持ち、左手へ長い予備の棒を受け取る。
俺は右の戸を外から押し開く。
中の布が、ぐっと張る。
掛け釘につながる付け根がきしみ、俺の棒をつかんだ端が戸の間でうねる。
「今」
澪が長い棒で、挟まれていた俺の棒の端を押す。
傾いた棒を追って、布が中央へ寄る。その隙に俺は戸の下へくさびを滑らせ、靴の先で押し込む。
向こうでは、灯子さんも左の戸を止めている。
右の戸が、戻ろうとする。
木のくさびが床を擦るが、戸は閉じきらない。
長くは持たない。
「離れます!」
俺と灯子さんが通路へ戻り、澪の後ろを抜ける。
入口側へ二歩退いてから、俺は振り返った。
澪が、長い棒の先を引く。
絡み合った二本の棒を追い、灰色の布が棚の外へ伸びる。
右の戸の掛け釘から、帯の輪が外れた。
丸い留め具も、布に引かれて前へ出る。
「金具、下!」
重なっていた布がほどけ、床へ落ちかけた金具が灯りを返す。
澪は左手の棒を放し、踏み込む。
刀の先が、棚の手前で留め具を貫いた。
金属の鳴る音に、戸が跳ねる。
くさびが一つ抜け、俺は反射的に前へ出かけるが、灯子さんの腕が胸の前をふさぐ。
「待って」
灰色の布が床へ崩れる。
刀を引いた澪が、後ろへ退く。
右の戸は閉じる途中で棒に当たり、それきり動かなくなった。
俺の耳だけが、まだ次の音を探している。
戸棚から聞こえるのは、古い木が落ち着く、小さなきしみだけだった。
*
澪が棒で布を動かし、反応がないことを確かめる。
割れた留め具は札で包み、布帯と一緒に別の容器へ収める。黒い水は出ていない。これだけで川の件と無関係とは言い切れないが、同じ特徴も見つからなかった。
戸の札を外し、棒とくさびを取り出す。
今度は手で開閉しても、勝手に戻ってこない。
「棚の留め方は、あとで点検してもらってください。今日は上の箱を戻さず、下で保管するほうが安全です」
灯子さんが住職へ説明し、土蔵へ入ってもらう。
俺はその横で、棒に付いた埃を拭く。途中から息を詰めていたせいか、ようやく肩が下りてくる。
「佐倉さん、手」
澪が右手を指す。
見ると、指先が少し震えている。
「怪我じゃない。力を入れすぎた」
「本を持つ前に、休みましょう」
欲しい物がすぐそこにある。
それでも、震える手で古い紙をつかむのは違う。
俺は入口の敷居を避けてしゃがみ、灯子さんの渡してくれた水を飲む。
澪も横へ腰を下ろす。
「今日は、跳びませんでしたね」
「ここで跳んだら、上の箱に頭をぶつける」
「ちゃんと止まれました」
それが棒を放した話だと気づき、俺は容器の蓋を締める。
「お前に引っ張ってもらっただろ」
「先に放してくれたから、間に合いました」
澪は真面目な顔のまま言う。
俺は返す言葉を探し、結局、水をもう一口飲んだ。
*
住職の立ち会いで、下から二段目の包みを順に調べる。
作業灯は棚から離し、紙を広げる机は庫裏に用意してもらう。土蔵では包みの外の文字だけを確認する。
三つ目の奥に、細長い包みがあった。
灯子さんが灯りを向け、住職が表の文字を読む。
「宗玄。これですね」
俺は手を伸ばす前に、指の震えが収まっているか確かめる。
下へ両手を入れ、包みごと支える。重くはない。けれど、今日下ろしたどの箱よりも、慎重になる。
庫裏の机へ置くと、住職が結び目をほどいてくれた。
薄い冊子が二冊。表紙の端は擦れているが、ひもで綴じた形は残っている。
「無理に開かず、見えるところからね」
灯子さんが言い、俺も机の縁から少し離れる。
住職が表紙を支えてめくると、細い字が現れる。俺には読みきれない。それでも、猫という字と、箱の小さな絵は分かる。
「灯子さん。ここ」
指を紙に触れさせず、絵の横を示す。
灯子さんが顔を近づけ、一行だけゆっくり追う。
「……『人に移りし猫を、討つべからず』」
澪の視線が、俺へ向く。
灯子さんは次の行を読みかけ、途中で止める。
「続きは字が難しい。人と猫を分ける前に祓うな、という注意かもしれないけど、真砂さんにも読んでもらおう」
俺は頭の耳へ手を上げ、そのまま下ろす。
戸棚の怪異は、芯を突けば止まった。
俺の中にいる猫にも同じことをすればいい、とはならない。
「先に、分ける方法を読む」
声にすると、灯子さんがうなずく。
「うん。順番を確かめよう」
住職の了承を得て、開ける範囲を撮影する。原本は寺に残し、無理に頁を開く必要があるところは、資料を調べた研究者にも相談してもらう。
灯子さんが真砂さんへ写真を送り、俺は冊子の包み直しを手伝う。
しっぽは机から離しておく。
澪が気づいて少し笑ったが、今度は何も言わなかった。
帰る前、戸棚から外した白い布切れも住職へ見せる。袖を挟まれた人へ、怪異を祓ったことと一緒に知らせてもらう。
戸棚の点検が済むまでは、出した箱と冊子を庫裏で保管することになった。
外へ出ると、石段の木の葉が風に鳴る。
俺は工具袋の口を閉じ、澪の運ぶ脚立へ手を添える。
「そっち、持ちます」
まだ元の姿には戻れない。
けれど、戻るための本を、傷めずに机へ届けられた。
今日の仕事は、そこまでちゃんと終わった。




