第11話 俺の名前で、戻りたい
翌朝、工具袋から棒を出すと、真ん中に細い傷が残っていた。
昨日、戸棚に挟まれたところだ。指でなぞってささくれを確かめ、やすりを当てる。
「それ、まだ使える?」
机で電話を終えた灯子さんが、手元をのぞく。
俺は棒を回し、傷の反対側も見せる。
「表面だけです。ひびはない。手に引っかかるところを落とせば」
言いながら、昨日の引かれる感覚を思い出す。
あのまま握っていたら、俺のほうが戸棚へ入っていた。
今の指は震えていない。けれど、道具が傷んでいないか調べる手つきだけは、いつもより遅くなる。
「真砂さんから、昨日の写真のことで連絡があったわ」
やすりを止める。
灯子さんはスマホを机へ置き、俺の目を見る。
「人に移った猫を討つな、というところ。続きが読めたって」
「……危ないから、でしたか」
「そう。詳しくは、一緒に説明したいそうよ。午前中に行ける?」
うなずいてから、手の中の棒を見る。
粉を払って、布で拭く。途中で放り出して、あとから素手でつかむほうが危ない。
「これだけ済ませて、行きます」
灯子さんは急かさず、箱の破片を包んだ風呂敷を持ってきてくれた。
*
真砂堂の机には、昨日の写真を大きく印刷した紙が並んでいる。
その隣に、真砂さんが書いた読み下し。俺が寺で見た箱の絵も、今度は指先ほどの大きさではない。
「原本は、まだお寺に?」
「うん。こちらで読めたところは、住職にも伝えた。開きにくい頁は、調べてくれた人が扱える人に相談してくれるそうだよ」
真砂さんは椅子へ座り、最初の紙をこちらに寄せる。
灯子さんが俺の隣で手帳を開く。
「まず、昨日の注意から読もうか」
猫を討つな、という行。
そこまでは、俺も覚えている。
「『人の身を借るうちは、猫のみを傷つくること難し』。そのあとに、先に猫を人から離せ、とある」
俺は膝の上で手を握る。
「俺の中にいる間に祓ったら、俺にも当たる」
「宗玄は、そう考えていたようだね。今のあんたで試して確かめる話じゃない」
灯子さんが手帳へ一行書く。
真砂さんは、その下の小さな追記も示す。
「実際の仕事では、人を戻してから猫を箱に封じた。討ったという記録ではないんだ」
耳の先へ手が行きかける。
俺は途中で止め、机の縁へ置いた。
蔵で俺を包んだものが、今も身体のどこかにいる。
それは前から分かっていたはずなのに、離したあとも猫が残ると聞くと、急に近くなる。
「戻って終わり、じゃないんですね」
「猫を出すだけなら、また誰かに移るかもしれない。だから、受ける箱も先に用意したんだろうね」
灯子さんが包みをほどく。
底板の猫の絵が、机の上に出る。
俺が戻るために、別の誰かへ押しつけるわけにはいかない。
箱も、手順も、どちらも必要だ。
「続き、お願いします」
*
次の写真には、人と箱を少し離して描いた図がある。
人の足元に一枚。箱の蓋に、もう一枚。形の違う札が、それぞれ添えられている。
「こっちが、人から猫を離すための札。宗玄は『返し札』と呼んでいる。箱のほうは、封じ札だ」
真砂さんの指が、人から箱へ向かう線をたどる。
「受ける箱を整えて、封じ札を用意する。そのあとに返し札を使い、離れた猫を箱へ収める。順番は、この図でも分けてある」
「札を書けば、できますか」
灯子さんの問いに、真砂さんは首を横に振る。
「文句と図は写っているけど、使うときの細かな指示は次の頁だ。そこはまだ開けていない。それと、札だけの話ではなさそうだね」
人の絵の横に、書き込みがある。
真砂さんは一度読み下しの紙を確かめ、俺へ向き直る。
「『借られし者、自らの名を答え、その身を思い定むべし』」
自分の名前を答える。
それなら、すぐできる。
次の言葉が、よく分からない。
「その身って、戻りたい身体ですか」
「前後からは、元の自分の姿だと思う。猫の形と、自分の形を分けて保つための指示らしい」
俺は印刷された人の絵を見る。
顔も、髪も、描き込まれていない。それなのに、前の自分を思い浮かべようとすると、頭の上に耳が残る。
今朝、鏡で髪留めをつけ直した顔が先に出てくる。
思い出せないわけじゃない。二十二年、それで暮らしてきたんだから。
ただ、戻れと言われて、自分の顔をくっきり浮かべるのは、思っていたほど簡単じゃない。
「……写真でも、いいんでしょうか」
「その助けになるかは、試せるね。ただし、それは思い浮かべる練習。返し札を使う作業とは分けよう」
灯子さんが手帳に、必要なものを並べていく。
箱。二種類の札。まだ読めていない、札の使い方。
それから、俺の準備。
誰かが全部調べてくれるのを、待つだけじゃない。
俺にやることも、見つかった。
*
箱の絵と底板を並べると、真砂さんが側板の破片を合わせる。
「ここは、直し始められるよ」
俺は顔を上げる。
真砂さんは、写真の図の下を示す。
「『欠けは新たな木をもって補う。古き封じを残して用うべからず』。箱の傷みを直したうえで、封じは新しく施したんだね」
「新しい板を足しても、いい?」
「少なくとも、宗玄の記録ではそうしている。前の札を貼り戻す方法ではない」
欠けたところへ、真砂さんの指が入る。
昨日までなら、そこに板を足していいかどうかも分からなかった。
「木の箱に戻すところまでなら、頼めますか。封じは、続きが読めてから」
「引き受けよう。使う札の位置に関わるから、寸法は変えずに直す。残っている板も、できるだけ使うよ」
灯子さんと費用を確かめ、修繕を頼む。
真砂さんは破片を一つずつ敷いた布へ移し、預かる数を紙に書く。俺も底板と側板を確認してから、名前を書く。
ペンの先が、いつもより少し細く動く。
それでも、書いたのは佐倉律だ。
「箱の持ち主には、私から連絡しておく。修繕して調査に使うことは、あらためて伝えないとね」
灯子さんの言葉にうなずき、控えを受け取る。
俺が壊してしまった箱を、今度は戻すために直してもらう。
包みを持ち帰らないだけで、工具袋を掛けた肩が妙に軽い。
「できあがったら、連絡するよ。ただし、届いたからって勝手に試さないこと」
「分かってます」
返事をしてから、灯子さんを見る。
何も言っていないのに、同じ注意をする顔をしている。
「そこは、二人分聞きましたから」
真砂さんが笑い、俺の控えへ日付を入れる。
*
店へ戻り、工具袋をいつもの場所へ掛ける。
灯子さんが箱の持ち主へ電話している間、俺はスマホの写真を遡る。
去年の仕事の写真。
屋根の破損。交換した金具。片づける前の庭。
物ばかり撮っていて、俺自身はなかなか出てこない。
「一枚くらい、ちゃんと撮っておけばよかった」
ようやく見つかったのは、灯子さんが撮った店の写真だ。
看板を拭き終えた俺が、脚立の横でこちらを見ている。髪は短く、袖は今より長い腕に合っている。
画面に指を置いて大きくすると、顔より先に、上着のポケットから出た布巾が目に入った。
「その写真、あったんだ」
電話を終えた灯子さんが、横からのぞく。
「看板を掃除したあとですよね」
「そう。お店の案内に使おうと思って撮ったの。結局、看板だけの写真にしたけど」
「俺が変な顔してたから?」
「拭き残しを見つけて、振り返るところだったから」
なるほど。
そう言われると、今にももう一度脚立へ乗りそうな顔だ。
画面を机へ置く。
戻りたい姿は、そこにある。
「やってみます。耳を隠したときみたいに、思い浮かべるところまで」
「うん。今日は札も箱も使わない。疲れたら、そこで終わりにしよう」
灯子さんが隣の椅子へ座る。
俺は自分の椅子を少し前へ引き、しっぽを背もたれの外へ逃がす。
写真を見る。
目を閉じる。
短い髪。頭の上に耳はない。人の耳は、左右のいつもの位置にある。
鏡で見慣れていたはずの顔を、写真から持ってくる。
それなのに、背後のしっぽが椅子へ触れると、今の身体が戻ってくる。
肩を動かせば、借り物ではない灰色の上着の袖口が、手首に当たる。
「……気になるものが、多い」
「一度に全部やらなくていいよ。前は、耳だけでも隠せたでしょう」
目を開け、うなずく。
最初から、元の身体全部を作ろうとしていた。
写真をもう一度見て、頭の形だけを思い浮かべる。
耳を髪へ押し込むより、猫耳のない自分の頭を、はっきりさせる。
頭の上の感覚が、薄くなる。
灯子さんの息遣いが、いつもと違う場所から聞こえる。
「隠れてるよ」
返事をしたくなる。
口を開きかけて、閉じる。
前に隠したときは、そこで気がそれた。
息を吐き、写真の顔を保つ。
「そのまま、名前を言える?」
灯子さんの声へ、意識が寄る。
頭の左右にある耳で、その声を聞く。
「佐倉、律」
最後の一音で、頭の上がぴくりと動いた。
聞こえる音が広がり、猫耳が戻る。
俺は椅子の背へ寄りかけ、しっぽに気づいて身体を起こす。
「……名前を言うくらい、簡単だと思ったのに」
「今、最初のほうは保ててた。そこまではできたよ」
灯子さんがメモへ短く書く。
耳が隠れた。名前を言う途中まで保てた。身体の姿は変わらない。
猫が離れた様子もない。
俺もスマホの写真を見直す。
小柄な女の子の姿に、猫の耳としっぽ。
それが今の俺だと、周りはもう分かってくれる。
けれど、前の俺まで消えたわけじゃない。
「もう一回だけ、いいですか」
灯子さんが顔色を見て、うなずく。
今度は名前を急がず、息を吐いてから口を動かす。
佐倉、と言ったところで、廊下の時計が鳴る。
猫耳が、そちらへ向いた。
「……お前なあ」
頭の耳へ言うと、灯子さんが吹き出す。
「音がしたら向くのは、ちゃんと働いてるってことだけどね」
「今日は、そこ休んでほしいんです」
俺も少し笑ってから、机へ肘をつく。
額の奥が重い。前にも感じた、隠す練習の疲れだ。
灯子さんがメモを閉じる前に、俺はスマホを伏せる。
「今日は、ここまでにします」
「うん。お茶、入れよう」
*
湯呑みを両手で持つと、手に収まる大きさが違う。
さっきまで思い浮かべていた写真の手より、指が細い。
灯子さんは向かいへ座り、箱の持ち主が修繕と調査に同意してくれたことを伝える。
続いて、真砂さんへ練習の様子を送る。返し札を使わず、以前できた耳を隠す範囲で試したことも書き添える。
「この練習で、離す準備になってるんでしょうか」
「役に立つ可能性はある。でも、耳が隠れることと猫が離れることは、同じだと決まっていない。続きが読めたら、そこも確かめよう」
俺はお茶を飲み、湯呑みを置く。
すぐ戻れない理由が増えた、とは思わなかった。
何も分からないまま待っていたときより、やることが具体的になっている。
「名前、途中で止めたのが、ちょっと悔しいです」
「耳が戻っても、最後まで言っていいんだよ」
俺は顔を上げる。
灯子さんは湯呑みを持ったまま、普通に俺を見ている。
さっきは、猫耳が出たら失敗だと思って、黙ってしまった。
別に、名乗れなくなったわけじゃない。
「佐倉律です」
言い直す。
いつもより高い声が、店の中に通る。
「知ってる。うちの便利屋さんでしょう」
灯子さんが笑う。
俺は頬が熱くなり、もう一度湯呑みを持った。
そのとき、店の電話が鳴る。
灯子さんが受け、話を聞きながら手帳を開く。
「はい。押し入れの中からですね。開けずに、少し離れて待っていてください」
俺の耳が、電話へ向く。
灯子さんは受話器を持ったまま、こちらを見る。
「今日は私が先に確認する。律は、休んでから写真の整理を頼める?」
今すぐ工具袋を取ろうとしていた手を止める。
寺の写真には、冊子以外に、木箱の置き場所や戸棚の状態も写っている。住職へ送る作業報告にまとめる仕事が残っていた。
「はい。撮る前と、下ろしたあと、分けておきます」
電話の向こうで、依頼人が少し安心した声になる。
俺はお茶を飲み終え、作業用のノートを開く。
元に戻るための練習は、また明日。
今日はこの手で、昨日助けた人に、終わった仕事を届ける。




