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化け猫になっても、便利屋は休めない  作者: あわいしゅん


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11/18

第11話 俺の名前で、戻りたい

 翌朝、工具袋から棒を出すと、真ん中に細い傷が残っていた。

 昨日、戸棚に挟まれたところだ。指でなぞってささくれを確かめ、やすりを当てる。


「それ、まだ使える?」


 机で電話を終えた灯子さんが、手元をのぞく。

 俺は棒を回し、傷の反対側も見せる。


「表面だけです。ひびはない。手に引っかかるところを落とせば」


 言いながら、昨日の引かれる感覚を思い出す。

 あのまま握っていたら、俺のほうが戸棚へ入っていた。

 今の指は震えていない。けれど、道具が傷んでいないか調べる手つきだけは、いつもより遅くなる。


「真砂さんから、昨日の写真のことで連絡があったわ」


 やすりを止める。

 灯子さんはスマホを机へ置き、俺の目を見る。


「人に移った猫を討つな、というところ。続きが読めたって」

「……危ないから、でしたか」

「そう。詳しくは、一緒に説明したいそうよ。午前中に行ける?」


 うなずいてから、手の中の棒を見る。

 粉を払って、布で拭く。途中で放り出して、あとから素手でつかむほうが危ない。


「これだけ済ませて、行きます」


 灯子さんは急かさず、箱の破片を包んだ風呂敷を持ってきてくれた。


     *


 真砂堂の机には、昨日の写真を大きく印刷した紙が並んでいる。

 その隣に、真砂さんが書いた読み下し。俺が寺で見た箱の絵も、今度は指先ほどの大きさではない。


「原本は、まだお寺に?」

「うん。こちらで読めたところは、住職にも伝えた。開きにくい頁は、調べてくれた人が扱える人に相談してくれるそうだよ」


 真砂さんは椅子へ座り、最初の紙をこちらに寄せる。

 灯子さんが俺の隣で手帳を開く。


「まず、昨日の注意から読もうか」


 猫を討つな、という行。

 そこまでは、俺も覚えている。


「『人の身を借るうちは、猫のみを傷つくること難し』。そのあとに、先に猫を人から離せ、とある」


 俺は膝の上で手を握る。


「俺の中にいる間に祓ったら、俺にも当たる」

「宗玄は、そう考えていたようだね。今のあんたで試して確かめる話じゃない」


 灯子さんが手帳へ一行書く。

 真砂さんは、その下の小さな追記も示す。


「実際の仕事では、人を戻してから猫を箱に封じた。討ったという記録ではないんだ」


 耳の先へ手が行きかける。

 俺は途中で止め、机の縁へ置いた。


 蔵で俺を包んだものが、今も身体のどこかにいる。

 それは前から分かっていたはずなのに、離したあとも猫が残ると聞くと、急に近くなる。


「戻って終わり、じゃないんですね」

「猫を出すだけなら、また誰かに移るかもしれない。だから、受ける箱も先に用意したんだろうね」


 灯子さんが包みをほどく。

 底板の猫の絵が、机の上に出る。


 俺が戻るために、別の誰かへ押しつけるわけにはいかない。

 箱も、手順も、どちらも必要だ。


「続き、お願いします」


     *


 次の写真には、人と箱を少し離して描いた図がある。

 人の足元に一枚。箱の蓋に、もう一枚。形の違う札が、それぞれ添えられている。


「こっちが、人から猫を離すための札。宗玄は『返し札』と呼んでいる。箱のほうは、封じ札だ」


 真砂さんの指が、人から箱へ向かう線をたどる。


「受ける箱を整えて、封じ札を用意する。そのあとに返し札を使い、離れた猫を箱へ収める。順番は、この図でも分けてある」

「札を書けば、できますか」


 灯子さんの問いに、真砂さんは首を横に振る。


「文句と図は写っているけど、使うときの細かな指示は次の頁だ。そこはまだ開けていない。それと、札だけの話ではなさそうだね」


 人の絵の横に、書き込みがある。

 真砂さんは一度読み下しの紙を確かめ、俺へ向き直る。


「『借られし者、自らの名を答え、その身を思い定むべし』」


 自分の名前を答える。

 それなら、すぐできる。

 次の言葉が、よく分からない。


「その身って、戻りたい身体ですか」

「前後からは、元の自分の姿だと思う。猫の形と、自分の形を分けて保つための指示らしい」


 俺は印刷された人の絵を見る。

 顔も、髪も、描き込まれていない。それなのに、前の自分を思い浮かべようとすると、頭の上に耳が残る。


 今朝、鏡で髪留めをつけ直した顔が先に出てくる。

 思い出せないわけじゃない。二十二年、それで暮らしてきたんだから。

 ただ、戻れと言われて、自分の顔をくっきり浮かべるのは、思っていたほど簡単じゃない。


「……写真でも、いいんでしょうか」

「その助けになるかは、試せるね。ただし、それは思い浮かべる練習。返し札を使う作業とは分けよう」


 灯子さんが手帳に、必要なものを並べていく。

 箱。二種類の札。まだ読めていない、札の使い方。

 それから、俺の準備。


 誰かが全部調べてくれるのを、待つだけじゃない。

 俺にやることも、見つかった。


     *


 箱の絵と底板を並べると、真砂さんが側板の破片を合わせる。


「ここは、直し始められるよ」


 俺は顔を上げる。

 真砂さんは、写真の図の下を示す。


「『欠けは新たな木をもって補う。古き封じを残して用うべからず』。箱の傷みを直したうえで、封じは新しく施したんだね」

「新しい板を足しても、いい?」

「少なくとも、宗玄の記録ではそうしている。前の札を貼り戻す方法ではない」


 欠けたところへ、真砂さんの指が入る。

 昨日までなら、そこに板を足していいかどうかも分からなかった。


「木の箱に戻すところまでなら、頼めますか。封じは、続きが読めてから」

「引き受けよう。使う札の位置に関わるから、寸法は変えずに直す。残っている板も、できるだけ使うよ」


 灯子さんと費用を確かめ、修繕を頼む。

 真砂さんは破片を一つずつ敷いた布へ移し、預かる数を紙に書く。俺も底板と側板を確認してから、名前を書く。


 ペンの先が、いつもより少し細く動く。

 それでも、書いたのは佐倉律だ。


「箱の持ち主には、私から連絡しておく。修繕して調査に使うことは、あらためて伝えないとね」


 灯子さんの言葉にうなずき、控えを受け取る。

 俺が壊してしまった箱を、今度は戻すために直してもらう。

 包みを持ち帰らないだけで、工具袋を掛けた肩が妙に軽い。


「できあがったら、連絡するよ。ただし、届いたからって勝手に試さないこと」

「分かってます」


 返事をしてから、灯子さんを見る。

 何も言っていないのに、同じ注意をする顔をしている。


「そこは、二人分聞きましたから」


 真砂さんが笑い、俺の控えへ日付を入れる。


     *


 店へ戻り、工具袋をいつもの場所へ掛ける。

 灯子さんが箱の持ち主へ電話している間、俺はスマホの写真を遡る。


 去年の仕事の写真。

 屋根の破損。交換した金具。片づける前の庭。

 物ばかり撮っていて、俺自身はなかなか出てこない。


「一枚くらい、ちゃんと撮っておけばよかった」


 ようやく見つかったのは、灯子さんが撮った店の写真だ。

 看板を拭き終えた俺が、脚立の横でこちらを見ている。髪は短く、袖は今より長い腕に合っている。

 画面に指を置いて大きくすると、顔より先に、上着のポケットから出た布巾が目に入った。


「その写真、あったんだ」


 電話を終えた灯子さんが、横からのぞく。


「看板を掃除したあとですよね」

「そう。お店の案内に使おうと思って撮ったの。結局、看板だけの写真にしたけど」

「俺が変な顔してたから?」

「拭き残しを見つけて、振り返るところだったから」


 なるほど。

 そう言われると、今にももう一度脚立へ乗りそうな顔だ。


 画面を机へ置く。

 戻りたい姿は、そこにある。


「やってみます。耳を隠したときみたいに、思い浮かべるところまで」

「うん。今日は札も箱も使わない。疲れたら、そこで終わりにしよう」


 灯子さんが隣の椅子へ座る。

 俺は自分の椅子を少し前へ引き、しっぽを背もたれの外へ逃がす。


 写真を見る。

 目を閉じる。


 短い髪。頭の上に耳はない。人の耳は、左右のいつもの位置にある。

 鏡で見慣れていたはずの顔を、写真から持ってくる。


 それなのに、背後のしっぽが椅子へ触れると、今の身体が戻ってくる。

 肩を動かせば、借り物ではない灰色の上着の袖口が、手首に当たる。


「……気になるものが、多い」

「一度に全部やらなくていいよ。前は、耳だけでも隠せたでしょう」


 目を開け、うなずく。

 最初から、元の身体全部を作ろうとしていた。


 写真をもう一度見て、頭の形だけを思い浮かべる。

 耳を髪へ押し込むより、猫耳のない自分の頭を、はっきりさせる。


 頭の上の感覚が、薄くなる。

 灯子さんの息遣いが、いつもと違う場所から聞こえる。


「隠れてるよ」


 返事をしたくなる。

 口を開きかけて、閉じる。

 前に隠したときは、そこで気がそれた。


 息を吐き、写真の顔を保つ。


「そのまま、名前を言える?」


 灯子さんの声へ、意識が寄る。

 頭の左右にある耳で、その声を聞く。


「佐倉、律」


 最後の一音で、頭の上がぴくりと動いた。

 聞こえる音が広がり、猫耳が戻る。


 俺は椅子の背へ寄りかけ、しっぽに気づいて身体を起こす。


「……名前を言うくらい、簡単だと思ったのに」

「今、最初のほうは保ててた。そこまではできたよ」


 灯子さんがメモへ短く書く。

 耳が隠れた。名前を言う途中まで保てた。身体の姿は変わらない。

 猫が離れた様子もない。


 俺もスマホの写真を見直す。

 小柄な女の子の姿に、猫の耳としっぽ。

 それが今の俺だと、周りはもう分かってくれる。

 けれど、前の俺まで消えたわけじゃない。


「もう一回だけ、いいですか」


 灯子さんが顔色を見て、うなずく。


 今度は名前を急がず、息を吐いてから口を動かす。

 佐倉、と言ったところで、廊下の時計が鳴る。

 猫耳が、そちらへ向いた。


「……お前なあ」


 頭の耳へ言うと、灯子さんが吹き出す。


「音がしたら向くのは、ちゃんと働いてるってことだけどね」

「今日は、そこ休んでほしいんです」


 俺も少し笑ってから、机へ肘をつく。

 額の奥が重い。前にも感じた、隠す練習の疲れだ。

 灯子さんがメモを閉じる前に、俺はスマホを伏せる。


「今日は、ここまでにします」

「うん。お茶、入れよう」


     *


 湯呑みを両手で持つと、手に収まる大きさが違う。

 さっきまで思い浮かべていた写真の手より、指が細い。


 灯子さんは向かいへ座り、箱の持ち主が修繕と調査に同意してくれたことを伝える。

 続いて、真砂さんへ練習の様子を送る。返し札を使わず、以前できた耳を隠す範囲で試したことも書き添える。


「この練習で、離す準備になってるんでしょうか」

「役に立つ可能性はある。でも、耳が隠れることと猫が離れることは、同じだと決まっていない。続きが読めたら、そこも確かめよう」


 俺はお茶を飲み、湯呑みを置く。

 すぐ戻れない理由が増えた、とは思わなかった。

 何も分からないまま待っていたときより、やることが具体的になっている。


「名前、途中で止めたのが、ちょっと悔しいです」

「耳が戻っても、最後まで言っていいんだよ」


 俺は顔を上げる。

 灯子さんは湯呑みを持ったまま、普通に俺を見ている。


 さっきは、猫耳が出たら失敗だと思って、黙ってしまった。

 別に、名乗れなくなったわけじゃない。


「佐倉律です」


 言い直す。

 いつもより高い声が、店の中に通る。


「知ってる。うちの便利屋さんでしょう」


 灯子さんが笑う。

 俺は頬が熱くなり、もう一度湯呑みを持った。


 そのとき、店の電話が鳴る。

 灯子さんが受け、話を聞きながら手帳を開く。


「はい。押し入れの中からですね。開けずに、少し離れて待っていてください」


 俺の耳が、電話へ向く。

 灯子さんは受話器を持ったまま、こちらを見る。


「今日は私が先に確認する。律は、休んでから写真の整理を頼める?」


 今すぐ工具袋を取ろうとしていた手を止める。

 寺の写真には、冊子以外に、木箱の置き場所や戸棚の状態も写っている。住職へ送る作業報告にまとめる仕事が残っていた。


「はい。撮る前と、下ろしたあと、分けておきます」


 電話の向こうで、依頼人が少し安心した声になる。

 俺はお茶を飲み終え、作業用のノートを開く。


 元に戻るための練習は、また明日。

 今日はこの手で、昨日助けた人に、終わった仕事を届ける。

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