第8話 その音は、俺が拾う
澪から借りた地図には、川に沿って小さな丸が増えている。
買い物かご、長靴、赤い傘。それに昨日の台車。灯子さんが書き添えた品名を追いながら、俺は最後の丸より下流へ指を滑らせる。
「今日は、ここから先か」
「そう。澪ちゃんは上流側をもう一度見てくれるって。こちらには、西側の担当の子が来るわ」
事務所の机には、乾いた赤い傘が置いてある。
一昨日祓ってから、布で包んで保管していたものだ。昨夜も今朝も動かず、黒い水もにじまない。元の持ち主に確認し、処分するところまで灯子さんが引き受けている。
昨日の倉庫からも、台車に変化はないと連絡があった。
一つずつ、終わらせてはいる。
それでも、次に拾った誰かのところで暴れられる前に、残りを見つけたい。
地図を畳んで立つと、工具袋が椅子の背へ引っかかる。肩ひもを直しながら出口へ向き直ったところで、呼び鈴が鳴る。
「おはようございまーす。川の拾い物、手伝いに来ました」
入ってきた女の子は、肩までの茶色い髪を後ろで一つに結んでいる。薄い緑の上着に黒いズボン。背負った細長い袋からは、弓の上端がのぞいている。
篠宮梢。十九歳の大学生で、川の西側を受け持つ討伐師だ。
去年、神社の屋根へ引っかかった彼女の矢を、俺が脚立で回収したことがある。
「篠宮、弓、入口に当たる」
「あ、すみません。……え?」
梢が袋を押さえたまま、俺を見る。
一度灯子さんを見てから、もう一度、俺の顔へ。
「佐倉さん?」
「灯子さんから聞いてるだろ」
「聞いたけど。声が、全然」
そこまでは澪と同じだった。
違うのは、すぐに距離を詰めてくるところだ。
「耳、ちゃんと音のほう向くんだ」
「向く。だから横で手を鳴らすな」
「まだやってないです」
「やろうとしてただろ」
胸の前で合わせかけた両手が、そっと下りる。
代わりに笑みを広げる梢を見上げていると、今さら頬が熱くなってくる。前は脚立を押さえる彼女へ、上から道具を渡していたのに。
「背、抜いちゃいましたね」
「そのうち戻す」
「じゃあ、今だけ先輩の頭が近い」
手が伸びてきたので、一歩下がる。
背後でしっぽが椅子に当たり、かたんと音を立てる。梢が吹き出しかけるより先に、灯子さんが地図を二人の間へ差し出した。
「頭を触る相談は、律がいいと言ってから。今日は仕事よ」
俺は地図を受け取り、梢に最後の丸を示す。
その目から、笑いが引く。
「ここより下ですね。向こう岸の確認は、私の仲間も進めています」
「こっちは歩いて探す。黒く濡れた物があったら、先に知らせてくれ」
「はい。佐倉さんも、手では触らないで」
心配される側になったことには、まだ慣れない。
ただ、その注意には俺も素直にうなずける。
*
川沿いを下ると、遊歩道が古い歩道橋のたもとで少し広くなる。
右手に川、左手に土手。進行方向の先には、対岸へ渡る橋の入口がある。川との境には、腰ほどの高さの鉄柵が続いている。
灯子さんが後ろから地図を確かめ、梢は柵越しに川岸を見る。
俺は足元の草と、ごみの引っかかった場所を順に探していく。曇っているが、雨の匂いはしない。濡れていること自体が手掛かりになる。
橋まであと十歩ほどのところで、耳の奥を小さな音が引っかく。
かちん。
少し遅れて、ずる、と重い物を引く音。
「待って」
梢の靴が止まる。
俺は柵から一歩離れ、橋の下へ目を向ける。コンクリートの陰で、黒い縄がゆっくり動いている。
太さは手首ほど。川岸の草へ垂れた部分だけでも、人の背丈より長い。
その先に、錆びた鉄の鉤がついている。荷物を引っかけて運ぶためのものだろう。曲がった先端が護岸に触れるたび、さっきの音が鳴る。
「縄と鉤。橋の下、動いてる」
俺が指すと、梢は背中の袋から弓を出す。
灯子さんは来た道を振り返り、近づいてくる散歩の人へ、橋から離れて土手側を通るよう声をかける。
誰も橋へ入らなくなったのを確かめてから、俺たちは柵へ近づく。
縄が、止まる。
黒い水が鉤の付け根へ集まり、結び目がひと回り膨らむ。その中心には、縄を通す鉄の輪がある。
水は輪の内側から湧いていた。
「付け根の輪が芯ですね」
梢が弦へ矢をつがえる。
「私の矢は、当たれば祓えます。でも、周りの縄を抜くだけじゃ止まりません。あの輪を狙います」
「どこにいればいい」
「私の前には出ないでください。動いたら、場所を」
言い終わる前に、縄が橋の下へ縮む。
鉤が護岸を擦る。
その音が、急に高くなる。
「来る!」
梢が弓を引いたまま横へ動く。
鉤が柵を越え、さっきまで彼女の顔があった場所を横切る。続く縄が鉄柵の上を滑り、濡れた先端が遊歩道を打つ。
矢が飛ぶ。
縄の中ほどを貫いて川岸へ抜けたが、鉤は止まらない。梢は次の矢を取るより先に、土手側へ下がる。
俺も後を追いかけ、足元へ伸びてきた縄をまたぐように跳ぶ。高く上がらず、向こうの乾いた地面へ。
着地して顔を上げると、縄はもう柵の向こうへ引き戻されていた。
「速いな」
「芯を引っ込めてから、縄を振ってきます。狙える時間が短いです」
梢の視線は、橋の下を離れない。
弓を持つ左手は動かず、右手だけで次の矢を抜く。さっきまで俺の耳を触ろうとしていた手と、同じには見えなかった。
灯子さんが橋の入口から戻り、俺たちの後ろへ立つ。
「対岸にも電話したわ。向こうの担当が、人を止めてくれる。こちらは私が見ているから、退くなら土手側へ」
人がいなくなった遊歩道へ、また鉤が現れる。
今度は柵の隙間から、低く。
先端が俺の足首へ向かう。
「下!」
梢に知らせながら、足を引く。
鉤が靴先をかすめ、地面を削る。俺がいた場所を通り過ぎると、縄がぴんと張り、今度は逆向きに引き戻される。
金属音。
鉤の曲がった先が、柵の縦棒へ引っかかっている。
黒い縄が左右に振れる。鉤はすぐに向きを変え、隙間から抜けていく。
だが、止まる瞬間はあった。
俺は、空になった柵の隙間を見る。
縦棒と、その下をつなぐ横棒。あの角へ引っかければ、真っすぐ引くだけでは抜けない。
「篠宮。芯が柵のこっちで止まったら、射てるか」
「佐倉さんが離れてくれれば」
「分かった。引っかける」
工具袋から短い作業用の棒を取り出す。
先端が少し曲がっていて、溝に落ちた物を引き寄せるときに使う道具だ。鉤に手を近づけず、向きを押さえるくらいならできる。
「力で引っ張り合わないでくださいよ」
「柵に引っ張ってもらう。俺は向きを変えるだけ」
梢は足元と柵を見比べ、橋から離れるほうへ三歩移る。
俺と狙う隙間を、斜めから見通せる位置だ。
「射るときに呼びます。私のほうへ来ないで、真後ろの土手へ下がって」
「了解」
灯子さんにも目を向けると、土手側の空いた道を指してうなずいてくれる。
跳ぶ場所を決める。
今度は、射線も。
*
柵の前へ戻ると、しっぽが脚に触れる。
膨らんだ毛がズボンを擦り、そこで初めて、自分がどれだけ緊張しているか分かる。
狙われるのを待つのは、何度やっても慣れない。
棒を両手で持ち直す。
梢の弓が、俺の斜め後ろで小さくきしむ。その音につられそうになるのをこらえ、橋の下へ意識を向ける。
縄が草を擦る。
鉤はまだ見えない。
「佐倉さん、見えます?」
「見えない。でも、動いてる」
橋桁の陰へ黒い縄が寄っていく。
持ち上げるなら、さっきのように上から来る。地面を擦るなら、下。
聞こえるのは、石へ触れる硬い音だ。
「低い。こっちへ来る」
棒の先を下げる。
柵の向こうで鉤が跳ね、足元の隙間へ飛び込んでくる。
横へ半歩、身体を逃がす。
それでも近い。風がズボンの裾を引き、棒を握る手にまで冷たい水が飛ぶ。
鉤が通り過ぎる。
その曲がった内側へ、上から棒を差し込む。
縄が引き戻される力で、腕が前へ持っていかれる。
踏ん張って止めるな。棒を寝かせ、先端を柵の角へ送る。
がん、と鉄が鳴る。
鉤の先が、縦棒と横棒の交わるところへ掛かる。引っ張るほど深く食い込み、縄の結び目が遊歩道側で震える。
「ここだ!」
棒を押し下げる。鉤が上を向いて抜けようとするのを、てこのように使って抑える。
腕だけでは支えきれず、上から体重をかけると、靴底が少し滑る。
長くは無理だ。
「離れて!」
梢の声に、棒から両手を離す。
土手へ跳ぼうと腰を引いた、その足元を黒い縄が走る。
鉤につながっていない、もう片方の端。
橋の下に残っていた縄が柵を越え、足首へ巻きつこうとしている。
「っ!」
棒を残して足を上げる。
片足だけで跳ぼうとして、身体が後ろへ傾く。
無理に高く跳ぼうとするな。
上げた足を土手側へ下ろし、残った足で地面を押す。転ぶように下がりながら、肩から先に縄の届く範囲を抜ける。
しっぽが大きく振れ、崩れかけた身体が横へ戻る。
乾いた音が、耳のすぐそばを通る。
梢の矢は俺のいた場所を横切らず、その先の柵へ真っすぐ伸びる。
抜けかけた鉤の付け根で、鉄の輪が割れた。
張りつめていた縄が落ちる。
俺の足を追ってきた端も、地面へぶつかったまま動かない。棒が柵から外れ、石の上を転がる。
膝をつく。
呼吸をしようとして、口を閉じていたことに気づく。
「佐倉さん!」
弓を下げた梢が駆け寄ってくる。俺は片手を上げ、もう片方の手で足首を確かめる。
ズボンは濡れているが、巻きつかれてはいない。靴も脱げていない。
「大丈夫。避けた」
「……今のを大丈夫って言われると、困ります」
差し出される手を握る。
立ち上がる途中で腿が震え、思ったより強く梢へ寄りかかってしまう。彼女は弓を持つ腕を遠ざけ、空いた手で俺を支える。
「耳、ぺたんこですよ」
「それで無事か判断するな」
「じゃあ、顔を見て言います。すごく怖かったでしょう」
間近からのぞかれ、俺は目をそらす。
返事をしなくても、たぶん分かっている。
「……お前、よくあれを当てるな」
「止めてくれましたから。それと、ちゃんと離れてくれたから」
梢は俺が一人で立てるまで、手を離さなかった。
*
灯子さんが、濡れたズボンの裾を持ち上げて確かめる。
足首に赤い跡もないと分かると、ようやく息を吐いてくれた。
「もう今日は、飛び込む仕事は終わり」
「はい」
「返事だけじゃなくてね」
「分かってます」
梢が吹き出す。
そちらへ顔を向けると、彼女は急に真面目な顔で、割れた輪を指さす。
「回収します。そこ、動かないでいてください」
縄を棒で動かしても反応はない。梢は鉤と輪を札で包み、灯子さんの用意した容器へ収める。俺は土手側へ下がったまま、手袋を渡す係だ。
川岸に残る縄まで引き上げると、黒い水はもう出ていない。
地図には、歩道橋の脇に新しい丸がつく。
「これで最後なら、いいんですけど」
梢が川の先を見る。
灯子さんは地図を閉じず、まだ印のない区間へ指を置く。
「決めつけずに、ここまで確認しましょう。律は私と上を歩く。橋の下をのぞくのは、篠宮さんたちに任せるわ」
「了解です。対岸の二人とも合流します」
捜索が終わるころには、足の震えも収まっている。
合流した討伐師たちと、次の水門までを両岸から確かめる。怪しい濡れ物はほかに見つからず、回収済みの品が再び動いたという連絡もなかった。
これで川全体の安全を言い切れるわけではないが、今日見ると決めた区間は、最後まで歩けた。
帰り道、梢が俺の隣へ並ぶ。
「次も、音の場所を教えてもらえますか。橋の陰、私には分からなかったので」
「ああ。そのために来たんだし」
「便利ですね、その耳」
「便利だけど、触らせる話にはならないぞ」
伸びてきかけた手が、また止まる。
梢は残念そうに指を曲げてから、今度は普通に手を振る。
「じゃあ、耳を借りたいときは、お仕事で」
「そうしてくれ」
今の姿になってから、初対面みたいな顔をされることばかりだった。
それでも、仕事が終わるころには、次の頼まれ方が一つ増えている。
悪くない、と思ったところで、灯子さんのスマホが鳴る。
画面を見た彼女が足を止める。
「真砂さんから。宗玄の名前が出てくる帳面が、見つかったそうよ」
俺も立ち止まる。
川の音を拾っていた耳が、今度は灯子さんの声へ向く。
「戻し方の?」
「そこまでは、まだ。宗玄が仕事をした寺の記録らしいわ。写しを見せてもらえるから、明日、真砂堂へ来てほしいって」
今の身体でできることは、少しずつ増えている。
だからといって、元へ戻る道を探すのをやめたわけじゃない。
「行きます」
返事をして、工具袋を肩へ掛け直す。
歩き出す前に足元を見る癖だけは、戻ってからも残るかもしれない。




