第7話 跳んだ先で、止まれ
白い線を踏まないように着地する。それだけのことが、三回続けてできない。
あかり便利屋の裏庭で、俺は膝に手をつく。靴の先は、地面に引かれた四角の外。背後では、空の木箱から下りたときに蹴った小石が、まだ転がっている。
「今のは、どこを見ていましたか」
「……足」
「降りる場所を、降りながら探すと遅いです」
澪は俺の隣へ来ると、高さ三十センチほどの木箱を指さす。
昨日、隣で戦ってほしいと言った相手は、先生になるとなかなか厳しい。
「もう一度。踏み切る前に、あの四角を見る。着いたら膝を曲げて、そこで止まってください」
「了解」
木箱へ上がるために片足を載せると、灰色の上着の裾がしっぽに引っかかる。片手で直している間にも、澪の視線は俺の足元から動かない。耳やしっぽばかり見られるのも困るが、これはこれで落ち着かなかった。
昨日の泥は落としてある。しっぽを触っても痛みはなく、軽く屈伸するぶんには脚も動く。
だから今日は、低いところからの練習だけ。
その約束で始めて、すでに俺の息だけが上がっている。
白い四角を見る。両足が入る広さはある。
遠くへ行こうとせず、縁から身体を前へ送る。
靴底が地面に触れるのに合わせて、膝を緩める。前へ流れかけた身体を、腕を広げて支えると、腰の後ろでしっぽが大きく振れる。
四角の中に、両足が残る。
「そうです。今の」
「……止まれた」
顔を上げた途端、澪が笑う。つられて口元を緩めると、しっぽの先までぴんと上向きになってしまう。
「喜ぶと、そこまで上がるんですね」
「足見てろよ、足」
「今は止まってますから」
言い返す言葉を探しているうちに、裏口が開く。
灯子さんの持つ盆で、コップの氷が鳴る。その音に両耳が向き、澪の笑みが深くなるのを、俺は見なかったことにする。
「休憩。澪ちゃんにも、連絡が来てるでしょう」
盆を台へ置く灯子さんの手には、スマホもある。
澪が自分の画面を確認すると、表情が仕事のものへ変わる。
「下流の捜索班からです。昨日の排水口より先で、濡れた台車を見つけたそうです」
「また、勝手に動くやつか」
「倉庫に持ち帰った人がいて、そこで暴れています。作業員は全員、建物から出たと」
汗で額へ張りついた髪を、指でよける。
昨日、排水口の怪異は倒した。それでも、すでに力を移された物までは止まらない。赤い傘を別に祓ったのも、そのためだ。
「行こう。ほかの荷物を取り込む前に」
「脚は?」
「歩ける。まだ跳び回れはしない」
そう答えると、澪はうなずく。
「では、まず外から見ます。無理なら、そこで待っていてください」
俺は水を飲み干し、空のコップを盆へ戻す。
できることを確かめに行く。できるつもりで飛び込むのは、昨日までで十分だ。
*
川沿いの倉庫は、正面の大きなシャッターが半分ほど開いている。
その脇で待っていた男性が、灯子さんを見るなり手を上げる。以前、この倉庫の雨漏りで呼ばれたときにもいた、管理人だ。
「奥です。荷物を載せてないのに、一人で走り回って」
男性の額には汗が浮いている。俺にも説明しようとして目が止まるが、灯子さんが先に続ける。
「うちの佐倉です。事情はあとで。中に人はいませんね?」
「ええ、三人ともここに」
道路から離れた事務棟の前に、作業着の二人が見える。管理人にもそちらで待ってもらい、灯子さんがシャッター脇に立つ。俺と澪は、腰をかがめて中をのぞく。
入口から奥の壁まで、中央に真っすぐな通路が延びている。両側には腰ほどの高さまで木製の荷台が積まれ、その上に箱や袋。入口から見て左側の荷台は、手前の一つだけ何も載っていない。
怪異は、通路の奥にいる。
青い板に四つの車輪。後ろに押し手のついた、ありふれた台車だ。
ただし、荷物を載せる板の上には、鉄くずが山のように盛り上がっている。細い金具も、曲がった板も、濡れた黒い筋で貼りつき、前側へ向けて尖っている。
ごろ、ごろ、と車輪が鳴る。
床には何本もの黒い轍。その線が入口まで続いていないことを確かめてから、澪が刀を抜く。
「芯は見えますか」
「前には、鉄ばかりだな」
横を向いた台車の押し手の下で、黒い水が膨らむ。
取っ手を板に固定する、後ろ側の金具。その片方を包む黒い塊から、水がぽたりと落ちる。
「後ろ。押し手の付け根だ」
「確認します。佐倉さんは、入口から出ないで」
澪が通路へ入る。
刀を下げ、台車の横へ回ろうとした瞬間、四つの車輪が一斉にきしむ。台車はその場で向きを変え、鉄くずの尖った側を澪へ向ける。
速い。
踏み込もうとする澪に、台車が突っ込む。彼女が横へ逃れると、鉄の先が上着の裾をかすめ、背後の木箱へ刺さった。
箱が裂け、中から緩衝材がこぼれる。
「戻れ、澪!」
すでに彼女は入口へ走っている。
台車は箱から鉄を引き抜くと、前輪を小刻みに揺らしながら、通路の中央へ戻る。追いかけてはこない。俺たちがシャッターの外へ退くまで、尖った前面をこちらへ向けたままだ。
「人のいるほうへ、前を向けますね」
澪が息を整えながら、裾を確かめる。布に浅い裂け目はあるが、脚には届いていない。
「横へ回っても、先に向き直られます。前から斬るには、鉄が厚いです」
「押し手の根元は、ずっと濡れてる。あれを狙うので、合ってるんだよな」
「はい。でも、後ろへ入らないと」
俺は床に残る新しい轍を見る。
曲がるときの跡は丸い。突進した跡は、通路を斜めに切って木箱まで一直線。
澪が避けても、台車はすぐには曲がれなかった。
「走り出す前なら、こっちを向ける。でも、勢いがつくと止まれない」
「……佐倉さんと、同じですね」
「今のは聞かなかったことにする」
朝の木箱から、何度もはみ出した自分の足を思い出す。
あいつの後ろを追うんじゃない。前へ走らせて、通り過ぎたところで後ろを取る。
入口脇の空の荷台なら、人一人が乗れる。
高さは朝の箱よりあるが、一昨日、傘と戦ったときの荷物台ほどではない。
「俺がここで待つ。あいつが入口へ走ってきたら、左の荷台へ跳ぶ。澪は反対側の陰にいて、通り過ぎたあとを狙ってくれ」
「入口まで出たら、外の人が危ないです」
灯子さんが、倉庫の中と背後の敷地を見比べる。
「作業員さんたちは事務棟に入ってもらう。入口も、下まで閉めましょう。あのシャッターなら、台車が抜ける隙間はなくせる」
「俺たちは?」
「脇の人用の扉。鍵を開けて、内側から使えるか確認するわ。私はそこにいる」
シャッターの右隣に、細い鉄の扉がある。
退く場所はそこ。戦うために、自分たちまで閉じ込めるわけにはいかない。
澪が俺の指さした荷台を見つめ、それから顔をこちらへ戻す。
「飛び越さないでください。乗って、止まるんです」
「四角を見てから、だろ」
「はい」
その返事を聞いて初めて、背中の強張りが少し緩む。
*
灯子さんが管理人に説明し、作業員たちを事務棟へ下がらせる。
人用の扉は、内側から押せば開く。実際に一度出入りして確かめてから、俺たちは倉庫へ戻る。灯子さんが内側の操作盤でシャッターを下ろす間も、澪は通路の奥へ刀を向けている。
金属の音に反応し、台車の車輪が動く。
だが、こちらへ走り出すほどではない。奥から動かず、人影を追うように前面を少しずつ揺らしている。
灯子さんが操作盤を離れ、人用の扉の前へ移る。澪は入口から見て右側の荷物の陰へ入り、俺は左の空いた荷台へ手をつく。
ぐらつきはない。上にも釘や破片は出ていない。
跳ぶのは、ここ。
その先の壁を見るな。台の中央だ。
上着のファスナーを上げ、肩の工具袋は灯子さんへ預ける。しっぽを脚に巻きつけようとしてみるが、緊張しているせいか、先が勝手にほどける。
「佐倉さん」
荷物の陰から、澪が小声で呼ぶ。
「しっぽまで、ちゃんと乗せてください」
「分かってる」
返事をしてから、口元が少し緩む。
守る場所が一つ増えただけだ。俺の身体だ。置いていくわけにはいかない。
通路へ出て、片手を上げる。
「こっちだ」
台車の向きが、俺へ揃う。
鉄くずの隙間から黒い水が垂れ、前輪がゆっくり回り始める。
まだ遠い。
俺は荷台のすぐ横で腰を落とし、両足を開く。前へ出る必要はない。あいつが来る場所で、待てばいい。
車輪の音が重なる。
青い板がぐっと沈み、鉄の塊が通路を走ってくる。
耳が勝手に伏せる。尖った金具は、俺の腹と同じ高さ。
避けろ、と身体が先に動きかけるのを、足の裏でこらえる。まだ向きを変えられる距離だ。早く跳べば、荷台ごと狙われる。
あと数歩。
台の中央へ目を移す。
左へ跳ぶ。
靴底が木を踏み、膝を曲げるのと同時に、すぐ脇を鉄くずが突き抜ける。風にあおられたしっぽを腰ごと引き寄せると、金具の先が毛をかすめることなく通り過ぎていく。
その先で、シャッターが鳴り響く。
衝撃に肩が縮む。だが、両足は台の上だ。
前へ落ちない。立ち上がろうともせず、低い姿勢で通路を振り返る。
台車の前面が、へこんだシャッターへ押しつけられている。
押し手と、その根元の黒い塊が、倉庫の奥を向いてむき出しになる。
「今!」
右の荷物の陰から澪が出る。
台車の後ろへ回り込み、黒い塊へ刀を振り下ろす。
車輪が、逆に回る。
ぶつかった反動だけじゃない。台車そのものが後ろへ走り、迫る押し手に澪が刀を止める。そのまま一歩引かなければ、柄を持つ手へ鉄の棒が当たるところだった。
前しか走れないわけじゃない。
「下がるぞ!」
俺の声と、澪が退くのは同時。
後退する台車の前輪が、ちょうど俺のいる荷台の横へ来る。
ポケットの札へ指をかける。
追いかけて飛び下りるな。上から届く場所だけ狙え。
片膝をつき、片手で台の縁をつかむ。身体を支えたまま腕を伸ばし、青い板の側面へ札を押しつける。
濡れた鉄くずじゃない。車輪がついている、台車そのものへ。
指の下で板が震える。
後ろへ逃げる速さが鈍り、澪との間に一歩分の隙間が開く。
「長くは持たない!」
札の端がめくれる。俺は手を離し、台の上へ身体を戻す。
澪はもう追っている。今度は押し手の真後ろを避け、通路の右寄りから刀を差し入れる。
刃先が、濡れた付け根を貫く。
黒い水が弾けるのと同時に、板の上の鉄くずが崩れた。
澪が刀を抜いて離れる。落ちた金具が床を跳ね、車輪に当たって止まる。そのあとには、もう何の動きも続かない。
俺は台にしゃがんだまま、札を見る。
端が浮いている。それでも、台車は逃げない。
「止まったか」
「はい。芯は断ちました」
澪が刀を下げる。
俺もようやく、台の縁をつかんでいた指を緩めた。
*
灯子さんが人用の扉を開け、外へ無事を知らせる。
澪は台車の周りを一周し、散った金具にも反応がないことを確かめてから、俺の前へ来る。
「降りられますか」
「降りるほうが、今朝やったやつだろ」
台の下には鉄の破片がある。そちらを避け、入口寄りの何もない床へ目を合わせる。
低く腰を落とし、縁から下りる。着地の勢いを膝で受け止めると、靴は一歩も余計に動かなかった。
澪を見る。
彼女は俺の足元を見て、それからうなずく。
「今のも、できてました」
「だろ」
しっぽが上がる。
今度は気づいていたが、無理に押さえるのはやめておく。
灯子さんが戻ってきて、俺たちの服と手足を順に確かめる。怪我がないと分かると、へこんだシャッターを見上げて息をつく。
「修理の手配は、私から話すわ。二人は破片を踏まないようにね」
倒すところまでは澪の仕事でも、散らかった倉庫は勝手に片づかない。
手袋を受け取り、動かなくなった金具を丈夫な箱へ集める。台車は別にしておき、管理人へ、まだ使わず明日まで様子を見てもらうことにする。
「昨日のやつが、ここまで来てたんだな」
「同じ黒い水なので、つながっている可能性は高いです。見つかった場所も、仲間に伝えます」
澪は刀を収めてから、川沿いの地図をスマホに出す。
まだ調べていない区間があるという。今日はそこを重点的に見回ると連絡し、ようやくこちらへ顔を向ける。
「後ろへ来たとき、助かりました」
「俺も、追いかけて降りずに済んだ。練習してなかったら、飛びついてたかもしれない」
「では、次もやりましょう」
「今日の続き?」
「今日は休みます。次は横へ跳んで止まる練習です」
さっきより難しそうな宿題が増える。
けれど、その動きで助かる場面を、もう俺は知っている。
「……白い線、もう少し広くしてくれ」
「最初は、ですね」
澪が笑う。
俺は工具袋を肩に掛け直し、彼女と並んで扉へ向かう。段差の手前で、ほんの少し足を止める。
行きたい場所を見てから、踏み出す。
この身体で働くために覚えることが、また一つ増えた。




