第6話 今度は、隣で戦う
入口で俺の顔を見た朝霧澪が、目を丸くして立ち止まる。
紺色の短い上着に、動きやすそうな黒いズボン。肩には細長い布袋を提げている。
俺より四つ年下の、高校生だ。
怪異を討つ刀を家から受け継ぎ、川の東側を担当している。
前に一緒に仕事をしたときも、この格好だった。
変わったのは、俺のほうだ。
「……佐倉さん?」
「そう。おはよう」
澪の視線が、頭の上へ動く。
次に、椅子の横へ出したしっぽへ。
「灯子さんから聞いてはいましたけど」
「俺も、聞くだけだったら信じなかったと思う」
顔を見上げて話している自分に気づき、背筋を伸ばす。以前はこちらが見下ろしていた相手だ。
澪も何か言いかけたが、俺と目が合うと口を閉じてしまう。
「何だよ」
「いえ。……声も違うんですね」
「そのうち慣れてくれ」
真面目にうなずいた澪の目が、またしっぽへ戻っていく。
「そこは慣れなくていい。先に傘の話」
灯子さんが奥から運んでくる保管箱へ、二人で場所を空ける。
中の赤い傘は、札とひもで閉じられたまま。昨日はあんなに暴れたくせに、今はぴくりともしない。
*
机へ広げた見取り図を指でたどり、昨日の動きを説明する。表通りへ出る入口から、奥のシャッターへ。怪異を右へ寄せ、空いた左側を使って男性を逃がした。
澪はときどき図へ目を落としながら、黙って聞いている。
「外側の傘に貼っても、布だけ捨てられた。中心の赤い傘を止めたら、全部ばらけたんだ」
「ほかの物を取り込むんですね」
「ああ。赤いやつだけ、ずっと濡れてた」
差し出された澪のスマホには、川沿いの道で横倒しになった買い物かごが写っている。底からにじむ黒い水まで、昨日の傘とそっくりだ。
「一昨日、私が止めたものです。空き缶を巻き込んで動いていました。その前には、仲間が濡れた長靴を回収しています」
傘、かご、長靴。
どれも古道具だが、同じ種類ではない。
「雨は?」
「三件とも、その日は降っていません」
灯子さんが広げた地図へ、それぞれの場所を書き込んでいく。澪がかごと長靴、俺が昨日の搬入路。
三つの印は、川へ流れ込む排水路に沿って並んだ。
「上がってくるなら、ここかもしれません」
澪の指は、川岸の古い排水口で止まる。
その脇には、流れてきたごみを引き上げるためのコンクリートの作業床があるという。
「昨日、通りから見たときに、ごみが不自然に積まれていたんです。中を確かめる前に、傘と同じものか見ておきたくて」
地図を引き寄せると、見覚えのある曲がり角が目に入る。
「ここなら、去年、倒木を片づけに行った。階段で下りられるな」
「はい。先に退路を決めて、それから調べます」
「佐倉さんは、上で灯子さんと待っていてください。昨日、戦ったばかりでしょう」
俺を見ながら言う澪に、反射的に口を開きかける。だが、机についた腕にはまだ重さが残っている。
しっぽはもう痛まない。けれど昨日と同じように跳んで、同じ場所へ着地できる自信はない。
「分かった。上から見て、何かあったら知らせる」
それも必要な仕事だ。
これまでだって、そうしてきた。
*
川沿いの遊歩道からのぞくと、階段の下に作業床が広がっている。
階段の下から見ると、正面の護岸に排水口があり、その前に濡れたごみが積まれている。右手は川、左手は壁だ。
排水口までの距離は十歩ほど。退くときは、来た階段へ戻るしかない。
階段の上で、澪が刀を抜く。
「私が近づきます。二人はここで見ていてください」
灯子さんが、階段の両脇へ札を貼る。
怪異が遊歩道へ上がってきたとき、動きを鈍らせるためだ。
通り掛かった人を迂回路へ案内し、俺も階段の上から様子をうかがう。
最後の段を下りた澪が、刀を身体の脇へ構えて進む。
その行く手で袋が膨らみ、下に埋もれていた板まで、ゆっくりと持ち上がっていく。
「澪、動くぞ!」
ごみの山が、人の形に立ち上がる。
澪より頭一つ高い胴は黒い泥でできていて、板や袋を表面へ貼りつけている。太い両腕の先には、手の代わりに束になった板。
下半身は泥の山のまま、排水口の前に広がっている。
胸の真ん中が赤い。目を凝らせば、泥に埋まっているのは自転車の尾灯だ。
割れたレンズの周りから水が湧き、黒い筋となって胴へ流れ込んでいる。
「胸の赤いの、あれが中心じゃないか!」
「確かめます!」
怪異が腕を振り上げ、澪の頭めがけて叩きつける。
澪は川側へ一歩。空振りした腕が床にぶつかる音へ、刃の風切り音が重なった。
切断された肘から板と泥が落ちる。その向こうへ澪が踏み込み、胸へ刀を伸ばす。
もう一本の腕が、赤い尾灯を覆う。
刀が板へ食い込み、それ以上進まない。芯までは、まだ遠い。
澪が刃を引き抜いて退く間にも、床の泥は肘へ這い戻っていく。板を巻き込み、切られる前と同じ太さに膨らむまで、ほんの数秒。
「腕を斬っても戻るのか」
「胸を壊さないと、止まりませんね」
怪異を動かしている中心を、討伐師は芯と呼ぶ。
この怪異なら、黒い水を吐き出している赤い尾灯だ。
だが、近づけば腕が来る。腕を斬って進んでも、もう一本に胸を守られる。
澪はもう一度正面へ出ると、低く身を沈めた。胸を守る腕の下から、刀を突き上げる。
刃先が赤いレンズに届きかける。その頭上で、再生した腕が動いた。
刀を引いた澪が、後ろへ跳ぶ。
板の先が肩をかすめ、上着の端がちぎれ飛ぶ。
「いったん戻れ!」
俺が呼ぶと、澪は怪異から目を離さず、階段の下まで退いた。
灯子さんと俺も、そこへ下りる。
追ってくる気配はない。怪異は排水口の前に居座り、両腕を引き寄せて赤い尾灯を隠している。
「肩は?」
「服だけです。でも、二本とも相手をしていると、芯を斬る前に追い返されます」
澪の息がまだ荒い。
その肩越しに、怪異が殴った床を見る。濡れた板の跡が、階段からでもはっきり分かる。
あの手は、地面まで下りてくる。
そこなら、俺にも届く。
「片方の腕を、俺が床に止める」
澪がこちらを見る。
「俺を殴らせて、避けたところで札を貼る。残った腕は、澪が斬ってくれ。そうすれば胸が空く」
「避け損ねたら、直撃します」
「分かってる。だから、跳ぶ先も決めておく」
壁側の空いた床を指さす。
ごみはない。着地したあと、すぐ壁へぶつかるほど狭くもない。
「俺は壁側。澪は川側から入る。そっちへは跳ばない」
澪が足元と怪異を見比べる。すぐにうなずきが返ってくる。
「腕を止めるだけでいいです。胸には近づかないでください」
「任せる」
灯子さんから渡される札を、二枚受け取る。
「一枚が剝がれたら離れて。二枚目は退くためにも使えるから」
「はい」
「私は階段の前にいる。戻るならここへ」
一枚を指に挟み、残りはすぐ抜けるようポケットへ差しておく。
*
並んで近づき、腕が届く手前で二手に分かれる。澪は川側へ、俺は壁側へ。
胸を守っていた腕が、俺の動きにつられて開いた。澪の刀を向いていた赤い尾灯まで、こちらへ傾く。
「そう。こっちだ」
あと一歩、腕の届くところへ入る。
板の束が頭上へ持ち上がり、黒い肘が伸びきる。
その影が、俺を覆う。
今だ。
壁側へ跳ぶ。脇を通り抜けた腕が床へ激突し、頬に冷たい泥が飛んできた。
着地しても勢いが残る。ずれた足を踏み直し、膝を曲げて止まった先に、板の束が横たわっている。
黒い手首が、もう浮きかけている。
戻すな。
しゃがみ込み、手首から床へ橋を架けるように札を押しつけた。
持ち上がりかけた手が、床へ落ちる。
怪異はなおも腕を引くが、札で留めた部分は動かない。泥の肘だけが、不自然に長く伸びていく。
「止めた!」
川側から澪の刀が振り下ろされる。胸に残った腕の肘を断ち、その先を板ごと落とす一太刀。
赤い尾灯が、むき出しになる。
あと一歩で、澪の刀が届く。
びり、と足元で紙が鳴る。
暴れる手首に引かれ、札の端が指一本分ほど浮き上がっている。
今、こいつが戻ったら、また胸を覆われる。
手首の横にしゃがんだまま、ポケットへ手を突っ込む。二枚目を抜いて剝がれた端へ押し重ねると、黒い泥が指を伝ってきた。
冷たさに手を引きかける。蔵の煙が這い上がってきたときと、同じだ。
それでも、指を離すわけにはいかない。
「澪、早く!」
澪が刀を引き、赤い尾灯へ切っ先を合わせる。踏み込む足に押し出されるように、刃が真っすぐ伸びた。
レンズが割れる音。その奥の黒い塊まで刀が貫く。
指に絡んでいた力が、ふっと抜けた。
怪異の胴が崩れ始めている。
手を離して立とうとしたが、足元へ流れ込む泥に靴が滑る。
「佐倉さん!」
刀を抜いた澪が、崩れるごみを避けてこちらへ回る。上着の背をつかまれ、引き起こされる勢いで彼女の肩に手をついた。
二人で階段側へ下がった直後、さっきまで俺がいた場所へ板の束が落ちる。
動かない。
板も泥も、もう胴へ戻ろうとしない。赤い尾灯は、その間に割れたまま転がっている。
「……倒した?」
「はい。もう水が出ていません」
澪は刀を向けたまま、尾灯を見つめている。
俺もその先を確かめる。黒い水は湧いていない。散った泥が、ごみの間から川へ流れていくだけだ。
そこでようやく、澪の肩から手を離せる。
「悪い。最後、滑った」
「立てますか」
「ああ」
両足へ体重を戻す。
澪も上着をつかむ手を緩める。
支えられていたところに、まだ感触が残っている。
助かった、ともう一度言うと、澪は小さくうなずいた。
*
階段側から近づく灯子さんへ、無事を知らせて手を上げる。
濡れたごみを棒で動かしても、もう反応はない。
排水口をのぞき、奥の水も澄み始めていることを確かめる。
澪はしゃがんで尾灯の破片を拾い、札を貼った容器へ収めていく。
「これが、物を取り込んでいた芯です。傘たちも、ここで力を移された可能性があります」
「じゃあ、昨日の傘も止まるのか?」
「別に動き始めたものは、別に祓います。あれも帰ったら私が見ます」
澪の目が、また排水口へ向く。
「ほかに流れ出した物がないかは、仲間と手分けして確認します。ここを倒しただけで、全部終わったとは言い切れないので」
今日倒した相手と、残っている仕事。
どこまで済んだのかが分かり、俺もようやく肩の力を抜ける。
灯子さんが俺たちを見比べる。
「怪我は?」
「肩はかすっただけです」
「俺は、手が冷たいくらい。しっぽも無事」
言って、後ろへ手をやる。
指に触れる毛が、いつもよりふかふかしている。
普段より、ひと回り太い。
澪もこちらを見て、口元を押さえる。
「……怖かったんですか」
「怖くないわけないだろ」
少し強く言うと、彼女は手を下ろした。
「そうですね。私も、肩に当たりかけたときは」
俺はしっぽから手を離した。
からかわれたと思ったのは、早とちりだったかもしれない。
「次は、最後まで足元に気をつける」
「はい。佐倉さんは、降りるのと止まる練習を」
「分かってる」
澪が少し笑った。
「そこは、前と同じですね。注意すると、その返事」
*
動かなくなったごみは、灯子さんが管理先へ連絡し、回収を手配した。
俺たちは危ない破片を一か所へまとめ、遊歩道への迂回案内を片づけてから店へ戻った。
帰ってまず取り出すのは、保管していた赤い傘だ。
灯子さんが札を残して柄を押さえ、澪が黒い水のにじむ骨の根元へ刃を当てる。
短く言葉を唱えると、濡れた布から黒い湯気が上がった。
昨日のように取り込む傘が周りにないうえ、動きも封じてある。今度は暴れる間もなく、赤い色だけが残った。
「これで力は断てました。念のため、明日まで別にしておいてください」
札とひもを外しても、傘は動かない。
灯子さんが新しい布で包み、保管箱へ戻す。
ようやく昨日の仕事にも、終わりが見えた。
刀を拭き終えた澪が、こちらへ向き直る。
「助かりました。あの二枚目、間に合わなかったら、もう一度離れるつもりでした」
「こっちも、引っ張ってくれて助かった」
机の上へ、空になった札のケースを置く。
以前、澪と現場へ行ったとき、俺は戦いが終わるのを待っていた。
今日は彼女の刀が届くまで、同じ場所にいた。
「次も、組めますか」
聞かれて、顔を上げる。
「俺と?」
「はい。上から見ていたときの指示も、分かりやすかったので。無茶をしない範囲で」
頬をかいて返事を探す間に、しっぽが揺れ始める。澪の目がそちらへ向くのを見て、言葉が先に飛び出した。
「返事、そっちで判断するなよ」
「まだ何も言ってません」
笑いながら灯子さんが並べる湯飲みを、それぞれの手元へ寄せる。
「次の前に、練習ね。二人で」
俺は澪を見た。
彼女は、今度ははっきり笑った。
「着地から、付き合います」
「……お手柔らかに」
同じ現場へ行く相手は、以前からいた。
隣で戦う相手ができたのは、今日が初めてだった。




