第5話 跳べるなら、俺が行く
「袖、どう?」
「落ちてこないです」
両腕を伸ばして曲げても、灰色の上着の袖口は手首からずれない。
しゃがんでも肩は突っ張らない。腰のポケットには、仕事用のスマホが収まる。
昨日、灯子さんと約束した仕事着を買いに来ていた。
商店街の衣料品店で、借り物のパーカーを脱ぎ、薄手の上着を試しているところだ。
「これにします」
「鏡も見ておこう」
「動けるから、いいんじゃないですか」
「後ろ、しっぽに裾が当たってない?」
それは困る。鏡の前で横を向き、後ろへ手を回してみる。
裾はしっぽの根元より少し上。腰をひねっても引っかからない。
袖も肩も余っていない。
服が合うだけで、思っていたより身体の小ささが分かる。
「……こういう感じになるんだな」
灰色なら地味でいい。そのつもりで選んだのに、黒い髪と猫耳まで含めて、妙にまとまって見える。
「似合ってますよ」
店員さんに言われ、顔を上げる。
「あ、どうも」
「そちらの色でよろしいですか?」
「はい。これで」
返事を急いだ俺の隣で、灯子さんは黙って値札を確かめている。こういうときだけ、気づいていないふりがうまい。
会計を済ませ、上着はそのまま着ていく。
ズボンは、しっぽを通せるようにした借り物をもう少し使う。新しいものも一本買ったが、直すまでは袋の中だ。
店を出ると、灯子さんのスマホが鳴る。
画面をのぞくが、真砂さんからではない。昼の配達についての確認らしい。
元に戻るための調査は、まだ返事待ちだ。
蔵の家から借りた書類は今朝返し、分かったことも伝えてきた。今できる用事は済んでいる。
今日は、この服で店へ戻る。
そのつもりだった。
背後の路地から、金属のぶつかり合う音が響く。
*
衣料品店の脇から、店の裏口へ荷物を運び込む路地が延びている。奥は行き止まりで、表通りへ戻るには、この入口を通るしかない。
十メートルほど先で台車が横倒しになり、その向こうを茶色い脚が動いている。
犬か――いや、あれは傘の柄だ。
折れた柄を四本の脚にして、何本もの古い傘が大きな犬ほどの形を作っている。骨をむき出しにした背中で布がばたつき、曲がった一本が首のように持ち上がる。
その先では、配達用の前掛けをした男性がシャッターに背をつけている。横は空箱の山で、逃げられる隙間がない。
男が一歩ずれると、傘の塊もそちらへ動く。
「灯子さん!」
呼び声に振り返った灯子さんが、すぐに通話を切る。
路地を見て、買い物袋を衣料品店の前へ置く。
「店の中へ入っていてください!」
店員さんへ声を掛けながら、俺たちは通路へ駆け込む。
逃げ道はこちら側にあるが、男性との間には傘の怪異が立ち塞がっている。
まず怪異を脇へ引きつけ、あの人が表通りまで逃げる道を空ける。
壁際へ工具袋を下ろすなり、札のケースを引き抜く。
棚の隙間へ物を押し込むときに使う短い作業棒も、腰の道具差しへ入れる。隣では、灯子さんも札と棒を取り出している。
怪異の動きを一時的に鈍らせる、仕事用の札だ。身体か、怪異が宿る物へ貼れば効く。ただし、貼る前に逃げられたら意味がない。
一昨日、箱から出た煙には、それが間に合わなかった。
「こっちだ!」
曲がった傘の柄が、声を追って俺を向く。
「そのまま動かないで! こっちへ向けます!」
男性のうなずきを確かめ、片手を上げて怪異へ近づく。目は離さない。
話が通じるか確かめたかったが、傘の塊は止まらない。
前脚を折り畳んだかと思うと、低くなった胴が俺めがけて飛んできた。
「速っ――」
右へ跳ぶと、思った以上の勢いで壁が迫る。手を突いて肩をぶつけずに済んだ、そのすぐ横で傘の柄が地面を叩く。
乾いた音が耳の奥まで突き抜けた。
頭を振りたい。だが、怪異はもう脚をひねってこちらを向いている。
「律、下がって!」
左側から回った灯子さんが、外側の傘布へ札を押し当てる。怪異の脚が止まり、俺はその隙に壁から身を離した。
びりっ、と布の裂ける音。
足元へ落ちてきたのは、札の貼られた布だけだ。残った傘の塊が、また脚を踏み出す。
「表の布じゃ駄目。本体を探して!」
怪異の胴へ目を凝らすと、重なった骨の内側に赤いものがちらつく。
*
「あの赤い傘、拾わなきゃよかったんだ!」
シャッター際の男性が叫んだ。
「傘立てに戻したら、ほかの傘までくっついて……!」
言われて目を走らせると、通路の脇に金属の傘立てが転がっている。
怪異の下へ、黒い雫が落ちている。
今日は雨なんか降っていない。
中心の赤い傘だけが、黒い水を滴らせている。
骨が動くたび、ほかの傘も引かれるように動く。
「真ん中の赤いやつです。あれが動かしてる!」
「そこへ貼ろう。私はあの人を表通りへ連れていく。右へ引きつけて、左側を空けて」
灯子さんが男性へ向けて、手を伸ばす。
その手を追うように、怪異の首まで男のほうへ回る。
そっちへ行くな。
右壁沿いから空のプラスチック箱を蹴りつけると、怪異の横腹で軽い音が弾けた。
「おい。こっちを見ろって」
傘の柄が俺を向き、胴を右へ寄せてくる。
空いた左壁沿いを、灯子さんが男性のところまで進む。彼の腕を支え、来た道を入口へ引き返していく。
あと少し、俺を追わせればいい。
一歩下がる俺を追って、怪異の背中が開く。束になった傘骨が、横から払ってくる!
とっさにしゃがむと、髪のすぐ上を骨がかすめた。耳まで伏せてやり過ごし、顔を上げようとしたところで、腰の後ろを引かれる。
「っ!」
しっぽだ。遅れてついてきた先端に骨が絡み、腰ごと引き戻される。
片膝が地面につく。見上げれば、怪異の前脚がもう頭上にある。
腰の作業棒を抜き、両手で突き上げた。
硬い柄を受けた途端、腕が押し込まれる。
重い。持ち上がらない。
今までの身体なら、踏ん張れたかもしれない。
でも今は、足を踏み直しても、じりじり滑る。
押し返すのは諦め、棒を斜めに傾ける。柄が滑り、俺の膝の横へ落ちた。
地面を叩いた脚をまたぎ、しっぽを手でつかんで骨から外す。
毛が数本、持っていかれる感触。痛みに、思わず歯を食いしばった。
「人のしっぽを……!」
言いかけて、息を吐く。
怒って近づいたら、また巻き込まれる。
「律、表通りへ逃がした!」
入口で手を上げる灯子さんが見える。
男性はすでに表通りへ出ている。店員さんの手招きに応じ、衣料品店へ駆け込むところだ。
これで、路地に残っているのは俺たちと怪異だけだ。
棒を持ち直し、周りへ目を走らせる。
*
怪異の正面には、硬い柄と骨が集まっている。
赤い傘へ手を伸ばしても、あの脚に阻まれる。
けれど背中が開いたとき、上からなら赤い布が見えた。
壁際の荷物台が目に留まる。
その上なら、怪異の背中を越せる高さになる。
以前の俺なら、走って回り込んでいた。
今の足なら、一度で上がれるかもしれない。
「灯子さん。入口側から、そいつを向かせてください」
「どうするの?」
「台に上がって、上から貼ります。赤い傘の骨の根元に」
台と俺を見比べる灯子さんに、うなずいてみせる。
「下へ飛び込まないで。貼ったら離れて。押さえる札は、こっちで足す」
「はい」
俺は棒を壁際へ置き、新しい札を一枚つまんだ。
今度はしっぽの位置も確かめておく。
灯子さんが傘立てを棒で叩く。
かん、と音が響く。
音のほうへ怪異が首を振る。
走る。
荷物台の手前で膝を曲げる。
跳べ。
靴の裏が台を越えても、まだ身体が浮いている。
高すぎる!
前へ流れる勢いを殺そうと両手を突き、膝まで台へ乗せて踏みとどまった。
下を見る。赤い傘は灯子さんへ向き直り、骨を開こうとしている。
今なら、届く。
台の縁から身を乗り出し、骨の隙間へ手を差し込む。赤い布へ札を押し当て、そのまま骨の根元へ巻きつけた。
ばちん、と何かが弾け、怪異の脚が止まる。
「貼った!」
灯子さんが赤い柄へもう一枚札を巻くと、周りの傘がばらばらに落ち始めた。首がなくなり、背中が崩れ、四本の脚も横倒しになる。
残るのは、小刻みに震える赤い傘だけ。
灯子さんがその骨を押さえ、柄と一緒にひもで縛る。最後の震えが収まるまで、俺は台の上で膝をついていた。
静かになると、自分の息ばかりが大きく聞こえる。
「律。終わったよ」
灯子さんが見上げてくる。
「降りられる?」
縁から足元をのぞく。上がるときには越せた高さが、今はやけに遠い。
「……手、借りていいですか」
今度は、最初から頼んだ。
*
気づけば、通路の入口に人が集まっている。
赤い傘を包む灯子さんにその場を任せ、避難した男性のもとへ向かう。
「怪我、ありませんか」
「大丈夫。あんたこそ、引っ張られてたけど」
「しっぽが少し。動きます」
確かめるように、先を曲げてみせる。
根元に違和感はあるものの、触れたところが強く痛むわけではない。
男性の勤め先は、衣料品店の向かいだそうだ。
今朝、通路に落ちていた赤い傘を、店の古い傘立てへ入れたという。
拾ったときから濡れていたが、そこで怪異だとは思わなかったらしい。
「この傘は、うちで預かって調べます。ほかに濡れたものや、勝手に動くものがあったら、触らず連絡してください」
灯子さんが名刺を渡し、傘を引き取る了承をもらった。
どこから来たものかは分からない。赤い傘の始末は、店で落ち着いてから考えることになった。
倒れた台車を起こし、散らばった傘のそばへ寄せる。
赤い傘から離れたものは、もう動かない。灯子さんが一本ずつ確かめたものを台車へ載せ、男性と一緒に片づけた。
買い物袋を預けた衣料品店へ戻ると、店員さんがタオルを持ってきてくれた。
「手、汚れてますよ。大丈夫でした?」
「はい。ありがとうございます」
タオルを受け取ろうとすると、指先が震える。今になって膝まで頼りなくなり、勧められた店先のベンチへ腰を下ろした。
しっぽだけは、自分で脇へ逃がしておく。
「あんなに小さいのに、すごいですね」
店員さんの声に、タオルから顔を上げる。
「……仕事なんで」
そこで声が裏返らなかったのは、少し誇っていいと思う。
横へしゃがんだ灯子さんの視線を追うと、買ったばかりの袖に黒い擦れ跡がついている。
「いきなり汚れたね」
「作業着ですから」
「うん。ちゃんと役に立った」
袖口を引いてみる。
ちゃんと手首で止まる。さっき札を貼るときも、袖をまくる必要はなかった。
鏡で見たときより、この服が気に入った。
*
少し休んでから、店へ戻った。
赤い傘は灯子さんが運び、事務所奥の保管箱へ入れた。封じた品を一時的に置くための箱で、蓋の内側にも札が貼ってある。
灯子さんは続けて、澪へ電話した。
乾いた日に濡れた傘が現れ、ほかの傘を取り込んで人を襲ったこと。拾われたのは、商店街の搬入路だったこと。
現場と赤い傘の写真も送る。
「……川沿いでも? 分かった。明日の朝、店で待ってる」
気になる言葉に顔を上げ、通話が終わるのを待つ。
「似たのが出たんですか」
「澪ちゃんの受け持ちで、濡れた古道具が動く騒ぎが二件。明日、傘を見比べてから、出た場所を一緒に調べることになった」
「俺も、現場の説明をします」
「うん。あなたの姿のことは昨日伝えてあるけど、実物を見たら驚くと思うよ」
頭へ向けられる視線には気づかないふりをして、椅子を引く。
腰を下ろし、しっぽを手元へ寄せる。
灯子さんにも確かめてもらう。毛は少し抜けているが、目立つ傷はない。
「次から、しっぽも動きに入れないとですね」
「それと、跳ぶ距離。台から落ちるかと思った」
「俺も思いました」
二人で、同時に息を吐いた。
跳べることと、狙った場所へ着地できることは別だった。
それでも、あの台へ上がれたから、赤い傘に手が届いた。
「……練習します。低いところから」
「私が見ていられるときにしよう。今日は休むこと」
「はい」
上着を脱ごうとして、ポケットから札の空いたケースが落ちた。
拾って、机に置く。
一昨日は、貼る前に煙に巻かれた。
今日は貼れた。
この手で、ちゃんと一枚。
机へ置かれた湯飲みから、湯気が上がる。
「あの人、最後にもお礼言ってたよ。助けに入ってくれて、ありがとうって」
湯飲みを両手で包むと、指先に温かさが戻ってくる。椅子の横で、しっぽの先がゆっくり揺れる。
「それなら、よかったです」
声には、まだ少し息が混じる。
でも、その返事は、無理に格好をつけずに言えた。




