第4話 かわいいだけでは終われない
夕方、真砂堂へ持っていく物を机に並べた。
蔵の持ち主から借りた書付と、その書き写し。それから、割れた箱の破片。
「全部あります」
灯子さんに言って、書類を封筒へ戻す。
昼食のあとは店で休んだ。耳を隠す練習もしていない。鏡を見るたび試したくなったので、途中から鏡は引き出しにしまっていた。
今日の用事は、元の身体へ戻るほうの話だ。
書き写しにあった『元の姿に復した』という一文。それが古い原本にも書かれているのか、真砂さんに確かめてもらう。
「戻し方、分かるといいですね」
「うん。まずは、書いてあることをちゃんと読んでもらおう」
灯子さんが箱を包んだ風呂敷を持ち上げた。
俺は書類を鞄へ入れ、あとから工具袋を持った。
「それも持っていくの?」
「いつもの癖です。置いていきます?」
「ううん。持てるなら」
肩へ掛けてみる。
男の身体では平気だった位置だと、袋が膝の横に当たる。いったん下ろし、肩ひもを短くした。
今度は歩いても邪魔にならない。
戻るまで使うなら、合わせておいたほうがいい。
留め具を引いて確かめ、店を出た。
*
真砂さんは、机の広い場所を空けて待っていてくれた。
「電話で聞いた書付だね。見せてごらん」
薄い原本を広げ、その隣に便箋を置く。
真砂さんは眼鏡を掛け直し、古い文字を一行ずつ追い始めた。
俺の前には、背もたれのない丸椅子があった。
昨日、しっぽを持て余したのを覚えていてくれたらしい。座ると、しっぽを後ろへ逃がすだけで済んだ。
しばらく、紙をめくる音だけがした。
「よく写してある。難しいところは、読みやすい言葉に直してあるね」
真砂さんが便箋へ指を置く。
「猫が人に移って、女の姿になる。ここは原本にもある。猫を離したあと、元の姿へ戻ったという箇所も、写し間違いじゃないよ」
膝の上で握っていた手を開いた。
「じゃあ、戻った人はいたんですね」
「記録の上ではね。この文章は、箱を預かった家の人が、起きたことを残したものらしい」
灯子さんが身を寄せた。
「猫を離すやり方は、やっぱり書いてない?」
「うん。そこを担当した人は別にいる。この、祈祷師の宗玄という人だ」
真砂さんが読んだ名前は、便箋にもあった。
今朝は、その先の『元の姿に復した』にばかり目が行っていた。
「この人に聞ければ……」
「かなり昔の記録だから、本人には無理だろうね。でも、仕事の覚え書きや、弟子へ伝えたものが残っている可能性はある」
灯子さんが手帳へ名前を書いた。
「どこで活動していた人か、調べられる?」
「古い道具の持ち主を調べるときに頼む、郷土資料の研究をしている知り合いがいる。まず、その人に名前を聞いてみるよ」
俺はうなずいてから、風呂敷の包みへ目を向けた。
「箱のほうは。直したら、使えるんですか」
真砂さんは底板を取り出し、割れた縁を合わせた。
「木の箱としてなら直せる。ただ、猫を中へ入れた手順も、札で封じた手順も、まだ分からない。箱を直して置けば勝手に戻る、という話ではなさそうだね」
なるほど、と口に出す。
都合のいい期待を一つずつ外されていくのは、少しつらい。
けれど、何をすればいいかも、一つずつ絞られていた。
「まず宗玄って人の記録を探す。箱は、それが見つかるまで、このまま残しておく」
「そうしよう。破片をなくさないようにね」
真砂さんには、借りてきた書類を撮影してもらった。
原本は俺たちから持ち主へ返す。今後の調査には、今日読んでもらった内容と写真を使うことになった。
「こちらで調べがついたら、店へ連絡するよ」
「お願いします」
真砂さんは写真を保存すると、棚の上の細長い包みへ目をやった。
「灯子。澪の刀の手入れも終わってるから、会うなら伝えておくれ」
「分かった。律のことと一緒に連絡する」
真砂堂は、討伐師が使う道具の手入れも引き受けている。
細長い包みは、澪が予備に預けている刀だ。俺も運んだことがあった。
「あいつ、今も東側を回ってるんですか」
「そう。他の子たちと受け持ちを分けてね。妙な品が増えていると言っていたから、うちでも持ち込まれた場所を控えてる」
俺はうなずいた。
便利屋に来る小さな相談が、討伐の必要な事件につながることもある。どこで何を見つけたかは、互いに知らせるようにしていた。
頭を下げ、封筒を鞄へしまった。
今日この場で戻ることはできない。
でも、戻ったという記録は確かめられた。次に調べる相手も決まった。
そこまで考えたところで、頭の耳が入口へ向いた。
ちりん。
少し遅れて、もう一度。
ちりん、ちりん、ちりん。
*
「ああ、また始まった」
真砂さんが入口を振り返った。
戸の内側に、小さな風鈴が掛かっている。薄い青色のガラスで、短冊はついていなかった。
戸は閉まっている。
空気も動いていないのに、中の舌だけが揺れていた。
「ずいぶん鳴りますね」
「今日、引き取った品なんだ。置き場所を変えるたびに鳴くから、仕事が済んだら見ようと思っていてね」
俺が立ち上がると、音が止まった。
一歩近づく。
ちりん。
もう一歩。
ちりりりん。
耳がぴくっと動いた。
風鈴の音が、また強くなる。
「……俺を見てません?」
「気になるみたいだね」
風鈴を下からのぞく。
ガラスの内側に、丸い白いものがしがみついていた。小指の先ほどの大きさで、両腕で舌を押している。
こちらを見て、片手を伸ばした。
俺はそっと右へ動く。
白いものも、右へ回る。
左へ戻ると、左へ。
「小さいのが入ってます。こいつが鳴らしてる」
「見えるかい。どんな様子?」
「何か、こっちへ手を……」
白いものが跳んだ。
「うわっ」
額へ向かってきたので、とっさに両手を出す。
白い塊は俺の手を蹴り、頭の上へ乗った。
耳の先に、冷たい指が触れる。
「ちょ、そこは駄目だって!」
肩が上がる。
耳が逃げる。
白いものは耳を追って、髪の上を駆け回った。
灯子さんが横から手を差し出した。
「律、しゃがんで」
言われるまま膝を曲げると、頭が軽くなった。
灯子さんの手の中で、白いものがじたばたしている。
「何だったんですか、今の」
「あなたの耳を引っ張ろうとしてた」
「何で!」
真砂さんが風鈴を外し、机の上へ持ってきた。
「ここで見てくれるかい。ちゃんと仕事として頼むから」
俺は乱れた髪を押さえた。
頭の上は、もう痛くもくすぐったくもない。
白いものはまだ、灯子さんの指の間からこちらを見ていた。
「……分かりました。まず、俺以外にも同じことをするのか見ましょう」
*
真砂さんに、風鈴を引き取ったときの話を聞いた。
古い家の軒先に下がっていたもので、持ち主の家族が片づけに来たという。短冊はその前からなくなっていたらしい。
「店に来てからは?」
「最初は箱に入れておいた。鳴り続けるから出して、棚に置いても鳴く。吊るせば落ち着くかと思ったんだけどね」
真砂さんが、指先で吊りひもを揺らした。
灯子さんの手の中で、白いものがそちらを向く。
「少し、離してみてください」
机の上で手を開いてもらう。
白いものは、今度は吊りひもへ飛びついた。ぶら下がると、揺れが止まる。
するすると降りてきて、自分でひもを押した。
揺れる。
追う。
止まると、また押す。
俺は頭の耳に触れた。
「……動くものなら、何でもいいのか」
真砂さんに薄い紙を一枚もらい、細長く切った。
指でつまんで、白いものの前に下ろす。
反応はない。
軽く息を吹きかけると、紙へ飛びついた。
紙が止まる。
白いものは端を持ち上げ、落とし、もう一度持ち上げた。
「短冊を動かして遊んでたんじゃないですか。軒先なら、風も来るし」
灯子さんが風鈴を見た。
「短冊がなくなって、風も来なくなったから、自分で揺らしてた?」
「たぶん。俺の耳も、動くから気になったんだと思います」
理由が分かっても、納得したくはなかった。
俺は玩具じゃない。
だが、怒っても風鈴は静かにならない。
「短冊、つけ直してみます。それで落ち着くか、軒下で確かめたいです」
「頼むよ。戸口の外なら、掛けられるから」
工具袋を開く。
細いひもと、紙に穴を開ける道具を出した。
袖が手元へ落ちてくる。
一度まくっても、すぐに戻った。灯子さんが黙って袖口を押さえてくれる。
「どうも。次の仕事着、袖が締まるやつにします」
「それがよさそう」
紙の上部へ穴を開け、ひもを通す。
舌の下に結ぶと、白いものが風鈴の中へ戻った。
両手でひもをつかんで、待っている。
俺は風鈴を持って戸口へ出た。
真砂さんに場所を決めてもらい、踏み台を使って軒の金具へ掛ける。
白いものは、その間じっとしていた。
少し待つと、川のほうから風が来た。
短冊が揺れる。
白いものも、ひもにつかまったまま左右へ揺れた。
ちりん。
涼しい音が一つ鳴った。
風が止まると、静かになった。
俺は踏み台から降り、横へ動いてみた。
頭の耳も、意識して少し動かす。
白いものは追ってこなかった。短冊へ目を向けて、次の風を待っている。
「……こっちのほうが、よかったわけね」
ちょっと腹が立った。
あれだけ人の耳を追い回したくせに。
*
しばらく様子を見ても、風鈴が鳴り続けることはなかった。
真砂さんには、また自分で鳴らし始めたら短冊が引っかかっていないか見てほしいと伝えた。
「短冊は仮のものです。雨に濡れたり破れたりしたら交換してください。同じくらいの軽い紙なら、動くはずなので」
「分かった。助かったよ。今日は店じゅう鳴りっぱなしだったから」
道具をしまい、作業代を受け取った。
灯子さんが領収書を書いている間に、俺は髪留めを直した。
小さな手で駆け回られたせいで、頭の片側だけ跳ねている。
「まだ変ですか」
真砂さんに聞くと、小さな鏡を向けてくれた。
「そこ。耳の後ろ」
指で髪を押さえる。
猫耳が邪魔で、うまく届かない。
「……灯子さん、ここだけお願いします」
頼むと、二度なでつけるだけで収まった。
鏡の中の俺は、不満そうな顔をしている。
でも、工具袋を肩に掛けた姿は、来たときより少し見慣れていた。
「律、今日はありがとう」
真砂さんが言った。
「耳を追われてるときは、どうなるかと思ったけどね。ちゃんと仕事にするんだから」
「そこまで含めて、忘れてもらえると助かります」
「かわいかったよ」
「仕事のほうを覚えててください」
真砂さんが笑い、領収書を引き出しへしまった。
「そっちも覚えておく。また頼むよ」
俺は、それには素直にうなずいた。
*
帰り道、灯子さんと並んで歩いた。
鞄の中には、まだ持ち主へ返す書付がある。箱の包みは灯子さんが持っている。
「戻し方、すぐには分かりませんでしたね」
「うん。宗玄さんの記録は真砂さんが調べてくれる。私たちは、書類を返すときに今日分かったことを伝えよう」
俺はうなずいた。
戻った人の記録は確かだった。あとは、そのとき何をしたのかを調べる。
今日はそこまで進んだ。
肩ひもの位置を直す。
短くしておいた工具袋は、歩いても膝へ当たらなかった。
「それと、仕事着を買いたいです。いつまでも借り物だと、汚すのが気になるんで」
「明日、見に行こうか」
「袖が締まって、ポケットがあって、動きやすいやつ」
「分かった。似合うのを探そう」
いつもなら、最後の一言は聞き流していた。
今日は、鏡に映った自分を思い出してしまった。
「……変に飾りがついてないのでお願いします」
「律が選んでいいんだよ」
それならいい、と答える。
しっぽが工具袋へ当たったので、反対側へ逃がした。
今の格好で、また仕事を一つ終えた。
明日は、そのための服を自分で選ぶ。
川のほうから風が吹いた。
後ろで、小さく風鈴が鳴った。




