第3話 その耳、しまえますか
朝、鏡の前で髪留めをつけ直した。
一度目は低すぎた。二度目は髪を取りすぎて、目尻の辺りが引っ張られた。
三度目で、ようやく昨日と似た位置に収まる。
「……よし」
下を向いてみる。髪は落ちてこない。
頭を上げると、鏡の中の猫耳もぴんと立った。
寝たら戻っている、ということはなかった。
昨夜は灯子さんに着替えを借り、事務所の奥の休憩室で休んだ。横向きになればしっぽを下敷きにせずに済むと分かるまで、何度も寝返りを打った。
今も少し眠い。
それでも今日は、九時に約束がある。
「律、出られる?」
「はい。写真も入ってます」
スマホの画面には、昨日、真砂堂で撮らせてもらった古い帳面があった。
うつし身箱。猫の絵。かつて箱を修繕に出した人の名前。
今日はこれを手掛かりに、蔵の持ち主が保管している書類を調べる。箱にいた猫が何をする怪異なのか、もっと詳しく分かれば、俺の身体を戻す方法にも近づけるはずだ。
俺は工具袋の持ち手を握った。
灯子さんが、俺の顔を見てうなずく。
「髪、自分でできたね」
「三回やりました」
「きれいに留まってる」
素直に返事をするには、少し気恥ずかしかった。
代わりに、いつもより丁寧に鍵を掛けた。
*
蔵のある家までは、灯子さんの運転する軽自動車で向かった。
門の前で迎えてくれた依頼人が、俺を見て、一瞬言葉を止める。
「おはようございます。佐倉です」
「……お電話では聞いていましたが、本当に」
その人は深く頭を下げた。
「私が箱を動かしてしまったばかりに」
「俺も、もっと早く気づけばよかったんです。今日は箱のことを調べさせてください」
玄関へ歩きながら、庭の奥に目をやった。
蔵の戸は閉じていた。
あの暗がりに入ったのは、一昨日の夕方だ。それほど時間がたっていないことが、不思議だった。
母屋の座敷には、段ボール箱が三つ並んでいた。
「父が残したものです。古い家の書類も、まとめて引き継いでいたようで。箱のことが書いてあるかは分かりませんが」
依頼人は、座卓の上に一冊の大学ノートも置いた。
「父が片づけたときのメモです。こちらから見たほうが早いかもしれません」
「助かります」
いきなり全部を開けずに済みそうだった。
俺は座布団へ膝をつき、しっぽを脇へ逃がす。依頼人の視線が一瞬そちらへ動いたが、何も聞かれなかった。
ノートには、蔵の棚ごとにしまった物が書かれていた。
農具。食器。古い帳簿。
数ページめくったところで、灯子さんが指を止める。
「『猫の箱、書付は別封筒』。これじゃない?」
その下に、封筒を入れた文箱の特徴があった。
黒塗り、蓋に梅。
「梅の箱なら、ここに」
依頼人が段ボールの一つから取り出してくれた。
蓋を開けると、手紙の束と、大きさの違う封筒が並んでいる。
俺たちは順に表書きを確かめた。
探していたものは、一番下にあった。
茶色くなった封筒に、『うつし身箱について』と書いてある。
「あった」
思わず声が出た。
膝の横で、しっぽが畳をぱたんと叩く。
依頼人がこちらを見た。
俺は封筒から目を離さないふりをした。
*
封筒の中には、折り畳まれた薄い紙が一枚と、後から書き写したらしい便箋が入っていた。
便箋の最後に、依頼人の父親の名前があった。
「父の字です。古いものを読んでは、こうして書き直していたので」
元の紙は、俺にはほとんど読めなかった。
だが、便箋のほうは読める。
灯子さんと肩を寄せ、頭からたどった。
『この猫は、黒い煙となって人を包み、その身に移る。移られた者は、猫耳と尾を持つ女の姿となる』
指先が止まった。
女の姿。
はっきり、そう書いてある。
「……俺だけじゃ、なかったんですね」
声にすると、胸の奥が少し緩んだ。
理由もなく、自分だけがこんな姿になったのだと思っていた。
同じことを知っていた人がいる。
続きを読んだ。
『娘に化けることを好んだ猫である。その形が移ったものと見られる。元の男女によらず、同じ変化をする』
灯子さんが、自分のスマホで昨夜の箱の写真を開いた。
「煙に包まれて変わるところも、耳としっぽも、合ってる」
「猫がよく化けてた姿に、俺がなったってことですか」
「この記録を書いた人は、そう考えたんだね。少なくとも、男の人にも同じ変化が起きたことは記されてる」
俺は髪の先をつまんだ。
猫が気に入っていた姿だか何だか知らないが、ずいぶん勝手な話だ。
「変える前に、好みくらい聞けよ……」
隣で灯子さんが息を漏らした。
「そこに文句を言うんだ」
「言いますよ。こっちは服まで全部借りてるんですから」
それでも、さっきより声が出しやすかった。
俺は便箋を下へずらした。
知りたいことは、もう一つある。
「戻した人のことは?」
次の段落には、猫を人から離して、箱へ収めたときの話があった。
ただし、手順ではなかった。
誰が立ち会い、どこで行い、そのあと箱をこの家で預かることになったか。出来事の記録だった。
灯子さんが一行を指す。
『猫を離したのち、移られた者は元の姿に復した』
俺はその一行を、二度読んだ。
「……戻ったって、書いてありますよね」
「うん」
「耳が消えた、とかじゃなくて。元の姿に」
「そう書いてある」
息を吐くと、肩が下がった。
戻れると決まったわけじゃない。どうやったかも、まだ分からない。
それでも、戻った人がいた。
何もないところを探し続けるのとは違う。
俺は便箋を座卓へ置いた。指で折り目をつけてしまいそうだった。
「この書付、写真を撮らせてもらってもいいですか。真砂さんにも、元の文章と合っているか見てもらいたいです」
「もちろんです。よければ、お持ちください」
灯子さんと目を合わせる。
「では、一度お借りしてもいいでしょうか。お返しするときに、調べたこともお伝えします」
依頼人がうなずいた。
灯子さんは借りる書類を手帳へ書き留めた。
その手帳の表紙には、小さな刀の印が押された連絡先のカードが挟まっていた。
「そうだ。討伐のほうから連絡、来てません?」
「今日はまだ。どうして?」
「こんな姿で現場に出たら、間違われそうだなって」
人を襲う怪異を相手にするときは、うちだけで引き受けないこともある。
町には、怪異を斬る刀や、封じる術を受け継いだ討伐師がいる。俺が現場で顔を合わせるのは、学校へ通いながらその役目を担っている少女たちだ。
うちが居場所を調べ、彼女たちが強い怪異を討つ。俺は避難の手伝いや、終わったあとの回収に回ることが多かった。
「澪ちゃんにも、先に話しておく?」
朝霧澪。刀を使う討伐師で、何度か同じ現場へ行ったことがある。
仕事は早いが、怪我を隠していると、年上の俺にも遠慮なく説教をする。
「顔を合わせる前には、お願いします。刀抜かれたら困るんで」
「抜く前に聞く子だよ。でも、分かった」
俺は頭の耳へ触れた。
いつも回収する側だったのに、今度は事情を説明しないと、そちらと間違われかねない。
まず、この書付を読んでもらおう。自分に何が起きたか、俺自身もちゃんと話せるように。
俺は便箋と元の紙を、折り目に沿って丁寧に畳んだ。
その途中で、便箋の末尾に短い追記があるのに気づいた。
『なお、人に紛れるときは、耳と尾を隠すことができたという』
「……灯子さん」
「何?」
俺は自分の頭を指した。
「これ、しまえるらしいです」
*
耳としっぽを隠せても、元の男の身体に戻れるわけではない。
そこは分かっていた。
それでも、外で見られる理由が二つ減る。帽子もかぶれるだろうし、椅子に座るのも楽になる。
事務所へ戻る車の中で、俺はしっぽをじっと見ていた。
「今、試すのはやめてね」
運転席から声がする。
「見てるだけです」
「さっきから、すごく真剣だから」
窓ガラスに、耳を立ててしっぽをにらむ女が映っていた。
俺はそっと視線を前へ戻した。
事務所に着くと、まず真砂さんへ連絡した。
灯子さんが見つけた文面を読み上げると、夕方なら原本を見られるという返事だった。借りた書付は、それまで机の引き出しへしまった。
これで、戻し方を調べる段取りはついた。
俺は鏡を机の上へ立てた。
「少し、試していいですか。耳を隠すほう」
「痛かったり、気分が悪くなったりしたら、そこでやめよう」
「はい」
灯子さんに見ていてもらい、鏡の前へ座る。
髪留めを外しても、耳は髪の上へ突き出していた。
隠れろ。
心の中で言ってみる。
変わらない。
もう少し強く念じた。
耳が、ぺたっと横に倒れた。
「……これは違いますよね」
「まだ見えてるね」
眉間に力が入る。
つられて肩まで上がった。
「律、息」
言われて、止めていたことに気づいた。
ふう、と吐く。
耳はまた立ってしまった。
猫なら簡単にできたことなのだろうか。
俺には、耳を倒すのと隠すのとで、どこをどう変えればいいのか分からなかった。
「一回、普通にしてみよう」
灯子さんが鏡の角度を直してくれた。
「普段、耳を動かすときは、そんなに力を入れてないでしょう」
「勝手に動くんです。そこが困ってるんですよ」
「じゃあ、動かそうとするより、帽子をかぶるときみたいに、邪魔にならない形を思い浮かべたら?」
それでできる根拠はなかった。
でも、さっきのやり方も、俺が適当に力んでいただけだ。
背もたれに寄りかかり、肩を下ろす。
昨日、フードをかぶったときのことを思い出した。耳が押されて、落ち着かなかった。
あの出っ張りがなければいい。
髪の中に、収まってくれれば。
頭の上が、むずっとした。
「あ」
灯子さんが声を上げた。
鏡の中の黒い三角が、髪の中へ沈んだ。
折れたのではない。
さっきまであった耳が、なくなっている。
「消えた?」
顔を近づける。
頭の左右へ手をやると、髪の下に、小さな人間の耳があった。
「灯子さん、こっちに耳が――」
振り向いた途端、頭の上で何かが跳ねた。
鏡へ向き直る。
猫耳が二つ、元気に立っていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……今、隠れましたよね」
「うん。ちゃんと見た」
「一瞬だったけど」
「できたよ、律」
嬉しくなって、もう一度鏡を見る。
緩んだ口元が映っていた。
慌てて引き締めたが、灯子さんはもう笑っていた。
「今、すごくいい顔してた」
「耳の話をしてください」
膝の横で、しっぽがぱたぱた動いた。
こっちは最初から、少しも隠れていない。
「次は、しっぽですね」
「まず耳を、もう一回できるか確かめよう。両方いっぺんだと、何をしたらできたのか分からなくなる」
それもそうだった。
俺は座り直し、もう一度、肩の力を抜いた。
*
そのあと、耳を隠すことは二回できた。
長いほうでも、鏡の前で十数秒ほどだ。灯子さんに声を掛けられ、返事をすると出てきてしまう。
しっぽは、後回しにした。
少し疲れたので、今日はそこで切り上げた。
灯子さんが淹れてくれたお茶を飲みながら、スマホのメモを開く。
猫の耳を隠せた。
隠している間は、人間の耳になる。
ほかのことに気を取られると戻る。
書いてから、もう一行足した。
女の姿としっぽは変わらない。
鏡の中には、相変わらず猫耳の女の子がいる。
けれど、朝とは少し違って見えた。
全部が勝手に決まって、俺にはどうにもできない身体だと思っていた。少なくとも耳は、自分でも変えられた。
「これ、できるようになったら、客先で帽子かぶれますね」
「うん。狭いところの作業もしやすそう」
「ヘルメットも。耳の分、穴を開けずに済む」
灯子さんが、俺の髪留めを机の端から寄せてくれた。
受け取って、朝と同じ位置へつけ直す。
戻った人がいることは分かった。
夕方には、その記録を真砂さんに確かめてもらう。
戻れる日までのことも、一つは自分で何とかできそうだった。
壁の時計を見る。昼を少し回っていた。
「昼飯、買いに行きます?」
「そうしようか。何がいい?」
考えた途端、猫耳が前を向いた。
俺は鏡を伏せた。
「……外で隠す練習は、まだやめときます」
食べ物のことを考えても出てこないようになるまで、もう少しかかりそうだった。




