第2話 箱の中にいたもの
唐揚げ弁当を食べ終えると、灯子さんが机の上に箱の底板を置いた。
昨夜、俺が女の子になるきっかけを作った箱だ。今はばらばらの板になっているが、見ると手首に煙が絡んだ感触を思い出す。
「ここ。木目と重なってるけど、文字があるでしょう」
指で示されたところをのぞき込む。
薄い墨の線が並んでいた。最後の一文字は「箱」に見える。その前は、崩れた書き方で読めなかった。
「これに、戻す方法が書いてあるんですか」
「そこまでは分からない。でも、何を入れていた箱なのかは分かるかもしれない」
灯子さんは、猫の絵のある側板を隣に並べた。
「まず、ここから出てきたものの正体を調べよう。何が律を変えたのか分かれば、戻す方法も探しやすくなる」
俺は自分の頭に触れた。
黒い耳が指をよけるように動く。
午前中は仕事で気が紛れていた。でも、弁当を食べ終わっても身体は戻らないし、どうすれば戻れるのか、見当もついていなかった。
「読める人って、誰です?」
「真砂堂の真砂さん。さっき電話したら、現物を持っておいでって」
「ああ、あそこか」
真砂堂は、古道具の店だ。
俺も荷物を運びに何度か行ったことがある。普通の皿や箪笥のほかに、持ち主がいなくなっても鳴り続ける鈴や、怪異を閉じ込めた壺まで扱っている。
うちの仕事で読めない札が見つかると、灯子さんはよく真砂さんに相談していた。
「箱を封じていた札も残ってる。両方、見てもらおう」
「お願いします。俺も、昨夜のことなら説明できます」
灯子さんが板を布で包む間に、俺は店の鍵を取りに行った。
壁の鍵束へ手を伸ばす。
指先が輪に触れただけで、つかめなかった。
「……ここも届かないのか」
足元の踏み台を寄せる。
たった一段上がれば済む。それなのに、昨日はいらなかった一段が、妙に気になった。
*
真砂堂は、商店街を抜けた川沿いにある。
灯子さんと並んで歩くうちに、俺の足だけ忙しくなった。追いつこうとすると、ほとんど小走りになる。
「灯子さん、少しゆっくりで」
「あ、ごめん。いつもの調子で歩いてた」
歩幅を合わせてもらい、息をつく。
道を行く人の視線が、ときどき頭の上に止まった。隠したかったが、フードは耳を押す。午前中に試して懲りていた。
今は、とにかく箱のことだ。
そう言い聞かせて、灯子さんの抱えた包みを見ながら歩いた。
店に着くと、奥の机で白髪の女主人が眼鏡を上げた。
「いらっしゃい。灯子、そちらが電話で言ってた……」
「律です」
俺から名乗ると、真砂さんは口を閉じた。
顔を見て、猫耳を見て、もう一度顔に戻る。
「先月、その棚を運んでくれた律?」
「ほかに律っていましたっけ」
「いや。声まで変わるとは思ってなくてね」
真砂さんは机の前の椅子を引いた。
「立ったままじゃ疲れるだろう。順に聞かせておくれ」
座ろうとして、しっぽを思い出した。
背もたれとの間に挟まないよう、横へ回す。先だけが座面からはみ出したので、膝に載せた。
真砂さんが見ている。
「……まだ座り方が決まってないんです」
「背もたれのない丸椅子もあるよ」
「次は、それでお願いします」
灯子さんが箱を広げると、真砂さんは机の上を片づけ、手元の灯りを近づけた。
「これが壊れたとき、律はどこにいたんだい」
「すぐそばです。依頼人が持ち上げたら底が抜けて、黒い煙が出ました」
蔵で猫の声がしていたこと。
箱の猫の絵が動いたこと。
依頼人を逃がしたあと、煙を止めようとしたが、腕に絡まれたこと。
思い出せる順に話すと、灯子さんがその先を補った。
「煙が律を包んだあと、姿が見えなくなったの。引っ張り出したときには、もう今の身体だった。煙は消えて、箱の中にも残っていなかった」
俺は灯子さんを見た。
「じゃあ、あそこで変わってたんですね」
「うん。目を覚ましたのは事務所だけど、変わったのは蔵の中」
眠っている間に何かあったのではない。
あの煙に包まれたときだ。
自分の覚えているところと、その先がようやくつながった。
真砂さんは手帳へ短く書きつけた。
「ほかに、その煙に触った人は?」
「依頼人は、絡まれる前に離しました。灯子さんは?」
「私の手にも少し。でも、変化はない」
「なるほど。触れた人が全員こうなるわけでもないんだね」
真砂さんは底板を持ち上げ、灯りにかざした。
「文字は……『うつし身箱』だね」
「うつしみ?」
「この箱につけた名前だろう。ただ、名前だけじゃ、何をする道具かまでは分からない」
板を裏返した指が、隅で止まった。
「ああ。この印なら、調べられるよ」
示されたところに、小さな四角い焼き印があった。
黒ずんだ木に紛れて、俺は気づいていなかった。
「うちで修繕した品に入れる印だ。今は使ってない、祖母の代のものだけどね」
「ここで直した箱なんですか?」
「そのはずだよ。何を直したか、帳面に残してある。箱の名前とこの猫の絵を頼りに、探してみよう」
真砂さんは後ろの書棚を開けた。
下の段からひもでまとめた帳面を出し、机へ置く。
俺は椅子を寄せた。
たまたま詳しい人に会えた、というだけじゃない。この店に、箱を扱った記録が残っているかもしれないのだ。
*
帳面は三冊あった。
古い紙を傷めないよう、真砂さんが一枚ずつめくっていく。
そこには皿のひびや、戸棚の蝶番の直し方に混じって、札を貼った壺の絵もあった。
「字はこっちで読むから、律は猫の絵がないか見ていて」
「分かりました」
机に身を寄せると、髪が頬を滑って目に掛かった。
払う。次のページで、また落ちてくる。
朝につけた髪留めが、歩いている間に緩んだらしい。
「律、ちょっと顔を上げて」
灯子さんに言われ、顔を向ける。
「留め直していい? 紙に触りそう」
「あ、はい」
髪留めが外れ、指で髪をすくわれた。
つい顎を引くと、灯子さんが小さく笑った。
「動くと留めにくいよ」
「慣れてないんですって」
ぱちん、と音がした。
目の前がすっきりする。
「はい。これで見える」
「ありがとうございます」
「うん。かわいい」
お礼を言った口のまま、固まった。
灯子さんはもう帳面へ目を戻している。
こっちは、戻すのに少しかかった。
耳が熱い気がする。
頭の上の耳なのか、前に耳があった辺りなのか、自分でもよく分からなかった。
次のページをのぞき込む。
そこに、丸くなって眠る猫の絵があった。
「これ。横の板と同じじゃないですか」
真砂さんの手が止まる。
灯子さんが実物の側板を並べた。
曲げた前脚の形と、身体を囲むしっぽの線が同じだ。
「名前も『うつし身箱』。寸法も合う。これだね」
真砂さんが帳面の向きを変えた。
「修繕したのは底の継ぎ目。ここに、補強したって書いてある」
昨夜、抜け落ちた底板を見る。
古くなっていたのは、そのときからだったのか。
「中身のことは?」
急かすつもりはなかったが、声が少し大きくなった。
真砂さんは欄外の細かな字に指を置いた。
「『猫の怪を収む』。猫の怪異を入れた箱だと書いてある。続きは……『中の猫、人の姿を借る。開封無用』」
俺は膝の上のしっぽを見た。
記録にある猫。
昨夜、煙の中で見た猫の目。
今、自分に生えている耳としっぽ。
「じゃあ、中にいた猫が、俺をこうしたってことですか」
「その可能性は高いね。猫を入れた箱が壊れ、中身が律を包んで、身体が変わった。昨夜の話と、この記録はつながる」
真砂さんは、そこで一度言葉を切った。
「ただ、身体をどう変えたのかまでは、この文に書いてない。『姿を借る』というのも、人に化けるのか、人に取りつくのか、それだけじゃ判断できないんだよ」
「女になった理由も?」
「ここにはないね」
「戻す方法は」
真砂さんはページの下まで読み、裏も確かめた。
「……残念だけど、それもない。修繕の控えだから、中身を扱う手順までは残さなかったんだろう」
肩から力が抜けた。
帳面が見つかったとき、少し期待しすぎたらしい。
膝の上のしっぽが、くたりと落ちた。
引き上げようとしたら、灯子さんが椅子を少し横へずらしてくれた。床に垂れても、脚で踏まない位置になった。
俺は帳面へ向き直った。
「でも、この箱に猫の怪異がいたことは分かったんですよね」
「うん」
「戻し方は、別に調べる」
真砂さんがうなずく。
全部分かったわけじゃない。それでも、何が出てきたかさえ分からなかったときよりは進んだ。
「その猫のこと、もっと書いてあるものはありませんか」
俺が尋ねると、真砂さんは帳面の端を示した。
「探すなら、まず持ち主の家だね。ここに、預けに来た人の名前がある」
灯子さんがのぞき込んだ。
「昨日の依頼人と同じ姓。住所も、あの蔵の場所だと思う」
「なら、お宅に箱の由来を書いたものが残っているかもしれない。大事な品には、扱い方や、どこから手に入れたかを書いた紙を添えることがあるから」
見つかると決まったわけではない。
でも、次に何を探せばいいかは分かった。
「聞いてみましょう。俺から話します」
*
依頼人の番号は、仕事用のスマホに入っていた。
真砂さんに断り、店先の静かな場所で電話を掛ける。
『はい』
「お世話になっています。あかり便利屋の佐倉です。昨日の蔵の件で」
『ああ、佐倉さんは大丈夫でしたか。倒れられたから心配で……あなたは、お店の方?』
一度、息を止めた。
そうだ。顔が見えなくても、声が違う。
「本人です。昨日のあと、声や見た目が変わってしまって。今、その原因を調べているんです」
電話の向こうが静かになった。
俺は急いで続けた。
「起きて、普通に話はできています。それで、あの箱に関係する古い書類がないか、お聞きしたくて」
箱が猫の怪異を収めたものだったと、記録で分かったことを伝える。
依頼人は驚きながらも、最後まで聞いてくれた。
『父が残した書類なら、あります。箱のことがあるかは分かりませんが。蔵から出した分を、母屋にまとめてあって』
「見せてもらえますか。箱の名前は、うつし身箱といいます。猫の絵や、その名前が入った紙を探したいんです」
『ええ、もちろん。今は出先なので、明日の朝でもよければ』
俺は店内の灯子さんへ目を向けた。
聞こえていたらしく、うなずきが返ってくる。
「では、九時に伺ってもいいでしょうか」
『分かりました。……お手数を掛けて、すみません。私があの箱を持ち上げなければ』
「調べるために伺うんです。書類を見せてもらえるだけでも助かります」
挨拶をして電話を切る。
握っていたスマホを、持ち直した。
変わった声でも、用件は伝えられた。相手も、俺の話を聞いてくれた。
「明日、九時です」
机へ戻って言うと、灯子さんは手帳に予定を書き込んだ。
「じゃあ、二人で行こう」
「はい。今日の記録、写真に撮ってもいいですか。向こうで探すときに見比べたいので」
真砂さんが帳面を平らに広げてくれた。
箱の名前、猫の絵、持ち主の名前。文字が読めるよう、角度を変えて二枚撮る。
今度は髪が邪魔をしなかった。
*
店を出る前に、箱の破片を包み直した。
真砂さんは帳面に紙を挟み、机の端へ置いた。
「家の書類で読めないところがあったら、また持っておいで」
「ありがとうございます。お願いします」
川沿いへ出ると、さっきより日が傾いていた。
俺はスマホを開き、明日の予定に『うつし身箱の書付を探す』と付け足した。
今日中に元に戻れるとは、もう思っていない。
でも、明日は何をするのか、ちゃんと決まっていた。
「律、帰ったら服、もう一組探そうか」
灯子さんに言われ、自分の袖を見た。
借りたパーカーの袖口は、まだ一折りしてある。
「……そうですね。明日もこのままかもしれないし」
「動きやすいのを選ぼう。書類を広げると、埃も出るだろうから」
俺はうなずき、髪留めに指を触れた。
「これも、もう少し借りていいですか」
「もちろん。気に入った?」
「下を向いても邪魔にならないんで」
灯子さんが笑った。
俺は外しかけてもいない髪留めを、軽く押さえ直した。
戻す方法は探す。
その間、今の身体で仕事をする工夫もいる。
ひとまず明日は、この髪留めをつけていこうと思った。




