第1話 耳は触るな、依頼を聞かせろ
電話が鳴った。
受話器に手を伸ばしたら、シャツの袖だけが机を滑った。
「……くそ」
袖口から指を出し、今度こそつかむ。
「はい、あかり便利屋です」
『あら。今日は女の子が出るのね。律くん、いる?』
目の前の鏡に、知らない女が映っていた。
寝癖だらけの黒髪。大きな目。肩のずり落ちた、見覚えのある俺のシャツ。
そして頭の上に、黒い三角の耳が二つ。
「俺です」
『え?』
「佐倉律です。おはようございます、小野寺さん」
耳が片方、受話器に向いた。
鏡の中でそれが動いたのを見て、危うく電話を落としかけた。
*
俺は二十二歳で、男で、便利屋だ。
少なくとも昨日の夜までは、三つとも間違っていなかった。
勤め先の「あかり便利屋」は、商店街の外れにある。
店のガラス戸には、家具の移動、探し物、片づけのお手伝い、と貼ってある。その下に、小さく一行。
『不思議な困りごとも、ご相談ください』
うちの電話を鳴らすのは、たいてい、その一行を見た人だ。
処分したはずの箪笥が、翌朝には元の部屋に戻っている。誰もいない二階から、毎晩足音がする。ほかの業者に話したら、気味悪がられて断られた。
そんな相談を聞いて、現場へ行く。
先週は、空き家の雨戸を閉める仕事をした。
閉めるだけなら誰でもできる。困るのは、鍵を掛けても内側から開け返されることだった。
窓辺に居着いていた小さな怪異を見つけ、家主に断って庭先へ寝床を移したら、雨戸は開かなくなった。
相手が何で、何をしているのか。それを確かめてから、追い出すなり、落ち着かせるなりする。
力ずくが必要な仕事もあるが、話がつくなら、そのほうが家も道具も傷まない。
俺はそういう仕事を、店主の灯子さんと引き受けている。
昨日の夕方に呼ばれたのも、そんな現場の一つだった。
「蔵を壊す前に、中を空にしたいんですがね」
依頼人の男性は、庭の端に建つ土蔵を振り返った。
戸は半分開いていた。中に積まれた木箱や古い棚が、夕日の届くところだけ赤くなっている。
「奥で猫が鳴くんです。業者さんと探したんですが、一匹も見つからなくて。荷物を動かそうとすると、また鳴くもんだから……挟んでしまいそうで、作業にならないんですよ」
「分かりました。先に中を見ます。灯子さん、明かりお願いします」
俺は軍手をはめて、戸を大きく開いた。
灯子さんが懐中電灯を照らす。埃の浮く光の中に、割れた植木鉢や、ひもで縛った雑誌が見えた。
猫の姿も、足跡もない。
奥へ進んだとき、細い声がした。
にゃあ。
「今のです」
入口で待っていた依頼人が、身を乗り出す。
声は、壁際の棚の下から聞こえた。
しゃがんで光を当てると、靴箱ほどの木箱が一つ置いてある。ふたには、端の剝がれた古い札が貼られていた。
「この箱、何が入ってます?」
「さあ。父の代からあったと思いますが。どければ、後ろが見えますかね」
俺が棚の手前の植木鉢をよける間に、依頼人が横から手を伸ばした。
箱の側面に、墨で描かれた猫が見えた。
妙だったのは、その絵の口が開いたことだ。
「待って、持ち上げないで――」
木の裂ける音がした。
持ち上がった箱から、底板だけが抜け落ちた。
黒いものが、床いっぱいに広がった。
最初は埃だと思った。けれどそれは、懐中電灯の光を遮りながら、依頼人の腕へ向かって這い上がった。
「手を離して! 外へ!」
俺はその腕を引き、入口へ押し出した。
箱が転がる。黒い煙が向きを変えた。
灯子さんが戸口で依頼人を受け止めるのが見えた。
これで外へ出せる。
俺も後ろへ下がりながら、腰の道具入れから札を抜いた。
いつもなら、まず相手を足止めする。
煙が抜けてこようとする棚の柱へ、札を押し当てた。
紙が張りつくより早く、手首が冷たくなった。
「律、こっち!」
返事をしようとして、息が詰まった。
黒い煙が腕に絡み、肩まで駆け上がってくる。振り払っても指の間をすり抜けるだけで、つかめない。
目のすぐ前で、黄色い光が二つ開いた。
猫の目だ。
そう思った瞬間、ぐらりと床が傾いた。
灯子さんの伸ばした手に、自分の手を伸ばす。
指が触れたところまでは、覚えている。
次に目を開けたときには、事務所のソファに寝かされていた。
起き上がったらズボンがずり落ち、悲鳴みたいな声が出た。
その声が自分のものだと分かるまでに、少しかかった。
灯子さんに鏡を渡され、説明を聞こうとしたところで、電話が鳴ったのだ。
いつもの癖で取った電話は、小野寺さんからの依頼だった。
*
「小野寺さん、何だって?」
奥から灯子さんが出てきた。
うちの店主は、両手に服を抱えている。
「厨房に何かいる。棚の奥で動いて、金属をこする音がするそうです。十一時には仕込みに使いたいから、見てほしいって」
「引き受けたの?」
「見には行くって」
灯子さんは俺を見た。
正確には、ソファの上で膝を抱えた俺と、腰に巻いた毛布を見た。
「その格好で?」
「だから困ってるんでしょうが」
頭の耳が、ぺたっと倒れた。
灯子さんの視線が上へ動く。
「……何です」
「ううん。服、持ってきた」
渡されたのは、紺色のパーカーと、腰がゴムになったズボンだった。
事務所の奥を借りて着替える。
シャツを脱ぐ前に鏡を伏せた。さっき、男の身体ではなくなったことは嫌というほど確認した。もう十分だ。
パーカーは袖を一度折れば着られた。
ズボンを上げると、背中側で何かが引っかかった。
「……あ」
忘れたかったものが、そこにあった。
黒くて長い、しっぽだ。
腰をひねると一緒についてくる。手で押さえると、背骨の下のほうがむずむずした。
これは本当に、俺に生えている。
「灯子さん」
「きつい?」
「しっぽを入れるとこがない」
カーテンの向こうが静かになった。
「笑ってません?」
「裁縫箱を探してる」
「声が笑ってるんですけど」
結局、ズボンはいったん返した。
毛布に戻って待つ俺の横で、灯子さんが縫い目を少しほどき、端を針と糸でかがっていく。
机の反対側には、昨夜の箱が置かれていた。割れた板に、墨で猫の絵が描いてある。
「……俺、化け猫になったんですか」
「見た目と、昨夜の気配からするとね。でも、この箱の中身が何だったかは、まだ調べてる」
「女になったのも、そのせい?」
「それも含めて」
灯子さんは針を止め、こちらを見た。
「律。今日は休んでいいんだよ」
俺は膝の上の手を開いた。
昨日より小さい。指にあった細かい傷までなくなっている。
こんな手で、いつもの道具が使えるんだろうか。
机の端に置いたスマホには、小野寺さんから厨房の写真が届いていた。
棚の下から、鍋のふたが半分出ている。
「……見に行くだけ行きます。難しそうなら、連絡する」
「無理はしないこと」
「はい」
ここに座っていても、鏡が気になってしまう。
見慣れた店へ行って、知っている人の話を聞きたかった。
*
小野寺弁当は、事務所から歩いて五分だ。
今日は七分かかった。
一度は通りの自転車のベルに耳が跳ね、もう一度は店のガラスに映った自分を見て足が止まった。
フードは途中で下ろした。耳が押されて、ずっと誰かに頭をつかまれているようだった。
「……律くん?」
裏口を開けてくれた小野寺さんが、俺の顔と耳を交互に見た。
「その、昨夜ちょっと仕事で」
「まあ」
「俺もまだ詳しく分かってなくて」
「まあまあ」
小野寺さんの手が、ゆっくり持ち上がる。
耳が逃げるように後ろへ倒れた。
「耳は触らないでください。先に依頼の話を」
「ごめんなさい。つい。痛くない?」
「痛くはないです」
「そう。何かあったら座ってね」
それ以上聞かずに厨房へ通してくれたのが、ありがたかった。
奥の棚から、しゃり、しゃり、と音がする。
耳がそちらを向く。頭を動かすより先だった。
俺は工具袋を下ろし、床に膝をついた。
「いつからです?」
「今朝、袋を捨てようとしたら飛び出して。最初はネズミかと思ったんだけど」
「中には何を?」
「昨日片づけた古いもの。先代の使ってた布巾とか、前掛けとかね」
棚の隙間をのぞく。
暗いはずの奥が、やけにはっきり見えた。
壁の染みも、転がった豆も、その手前でもぞもぞしている灰色の塊も。
布だ。
四隅を足のように立てた古い布巾が、鍋のふたを抱えている。
しゃり、しゃり。
身体を左右に振って、懸命に磨いていた。
「……働いてる」
「え?」
「布巾です。ふた、磨いてます」
俺の声で動きが止まった。
布の端が持ち上がる。
目があるわけでもないのに、こっちをうかがっているのが分かった。
「よう。ちょっと出てこないか」
ふたを引きずって、さらに奥へ逃げた。
「取れる?」
「棚を動かす前に、試します」
工具袋から、新しい手ぬぐいを出した。
怪異だからといって、何でも札を貼れば片づくわけじゃない。物が化けた相手は、元の使われ方にこだわることが多い。
「小野寺さん、拭いていいもの、あります?」
「これなら。もう洗ってあるけど」
渡された盆を床に置き、手ぬぐいで拭く。
わざと、隅を少し残した。
棚の下で、布巾が動いた。
「よし、きれいになった」
片づけるふりをする。
灰色の端が、じりじり出てくる。
あと少し。
俺は手を止めた。
背後で、しっぽが揺れた。
布巾が飛び出した。
「うわっ」
盆ではなく、俺のしっぽへ。
ほこりでも払うつもりだったのか、布の端が毛に触れた。
ぞわっと腰が震えた瞬間、足が床を蹴っていた。
景色が下がる。
気がつくと、俺は厨房の脇にある配膳台の上にいた。
両足をそろえ、膝を曲げて、指先まで台についている。
……何だ、この座り方。
「律くん、すごい」
小野寺さんが目を丸くしている。
俺だって丸くしたい。
台は腰より高い。助走もしていない。飛び乗ろうと思った覚えさえない。
「だ、大丈夫です。ちょっと不意を突かれただけで」
降りようとして、床が思ったより遠いことに気づいた。
膝が伸びない。
小野寺さんが何も言わず、踏み台を寄せてくれた。
「……どうも」
一段ずつ降りる。
床では布巾が、さっきの盆を磨いていた。
俺が大騒ぎした間に、隅まできれいになっている。
「お前なあ」
布巾がぴたりと止まった。
端をすぼめて、後ろへ下がる。
その先には、捨てるための袋があった。
俺は手ぬぐいを畳んだ。
「……捨てられたくなかったのか」
返事はない。
ただ、布巾は盆の縁をもう一度こすった。
今度は、ゆっくりと。
小野寺さんが、隣にしゃがむ。
「お義父さんがね、何でも最後はこれで拭いてたの。もうぼろぼろだから、いい加減お役御免にしようって」
布巾の真ん中には、丁寧に繕った跡があった。
俺は工具袋へ伸ばしかけた手を戻した。
「厨房で使うのは、やめたほうがいいです。でも、店に置いておく気があるなら」
小野寺さんが立ち上がった。
裏口の脇から、小さな木の看板を持ってくる。
昼の弁当の名前を掛ける、年季の入ったものだ。
「これはどう? 道に出すから、すぐ汚れるのよ」
床へ置くと、布巾の端が持ち上がった。
俺がうなずくより早く、するすると看板へ這っていく。
しゃり、しゃり。
小野寺さんが笑った。
「じゃあ、これからはそれをお願いしようか」
*
回収の依頼は、看板の横に布巾用の小さな籠を置くことで終わった。
勝手に厨房へ戻るようなら連絡してもらう。今日は見立ての分だけ料金を受け取り、道具をしまった。
「律くん、お昼、まだでしょう」
帰り際、小野寺さんが弁当を差し出した。
「いつもの唐揚げ。灯子さんの分も」
「ありがとうございます」
ふたの内側が、うっすら曇っている。
温かい。生姜の匂いがした。
「よかった。ご飯は食べられそうね」
「そりゃ、腹は減りますよ」
「しっぽ、嬉しそうだから」
振り返る。
黒いしっぽが、先だけくいっと曲がっていた。
止めようとすると、今度は左右に動く。
「……弁当とは関係ないです」
「はいはい」
その返事には覚えがあった。
近所の子が、苦手な野菜を食べられたと自慢しているときの声だ。
俺は弁当を大事に持ち直した。
*
「おかえり。どうだった?」
「布巾でした。働き口を変えて解決。あと、弁当もらいました」
事務所へ戻ると、灯子さんは箱の板を机いっぱいに並べていた。
俺の耳を見て、少し表情を緩める。
「外、平気だった?」
「二度見はされました」
椅子を引き、座りかけて止まる。
しっぽを横へ逃がしてから、慎重に腰を下ろした。
「あと、変に高く跳びました。降りるのは怖かったです」
「どこか痛めた?」
「いえ。暗いところも見えました。……仕事には、使えるかもしれないです」
口に出してみると、少しだけ気が楽になった。
知らない身体だが、何もできなくなったわけじゃない。
弁当を開けようとして、髪が頬に落ちた。
耳へかけようとして、指が空振りする。
いつもの場所に、いつもの耳がない。
「これ、使う?」
灯子さんが引き出しから黒い髪留めを出した。
受け取って、邪魔な髪を横で留める。
「できてます?」
「うん。似合う」
「留まってるか聞いたんです」
「留まってるよ」
灯子さんは自分の弁当を開けた。
俺は机の隅の鏡を、ほんの少しこちらへ向けた。
髪を留めただけで、さっきより顔がよく見える。
目が合うと、黒い耳が小さく動いた。
……別に、変ではない。
「律」
慌てて鏡を伏せた。
「何ですか」
「箱の底に文字があった。午後、これを調べに行こう。あなたを戻す手掛かりかもしれない」
俺は箸を置いて、差し出された板を見た。
薄い墨の線が、木目に埋もれるように残っている。
「読める人、いるんですか」
「心当たりはある」
「じゃあ、食ったら行きましょう」
まずは唐揚げを一つ。
口へ運ぶ直前で、灯子さんが「あ、熱いよ」と言った。
俺は止めた。
念入りに息を吹きかける。
「……そこまで猫になってるか、まだ分かりませんからね」
「うん」
灯子さんの肩が、わずかに揺れた。
言い返そうとしたが、揚げたての衣がいい匂いだったので、後にした。
髪留めは、つけたままにしておいた。




