第17話 その手は、届かせない
「右手、貸してください」
車に乗る前に、澪が俺の前へ手のひらを出す。
さっきの桶を踏み押さえた靴底を確かめていた俺は、右手を開いて見せる。
「痛くはないぞ」
「はい。木のささくれが」
親指の付け根に、細い木片が引っかかっている。
澪は俺の手首を支え、その先を布でつまむ。ちくりとするほどでもなく、木片は抜けた。
「これで大丈夫です」
「助かった。そっちの靴は?」
「少し擦れただけです」
桶を蹴り倒した右足を、彼女が上げる。
底が剝がれていないのを見届け、俺は車の扉を開ける。
灯子さんは電話を終え、運転席の横で手帳を閉じるところだった。
「工房の持ち主、来てくれるって。今朝は誰も入っていないそうよ。様子を見に入らず、門の外で待ってもらう」
「店のほうは?」
「確認を頼んだ人が、もう少しで着く。それまでは榎本さんも外で待ってくれるよ」
川の守りを空けずに動ける、近くの討伐師だという。
榎本さんへ挨拶をして車へ乗ると、澪が隣から小さな袋を渡してくる。
「手を使ったので、袋は開けてあります」
中には、一口大の焼き菓子が二つ。
俺が顔を上げる前に、彼女は自分の分も取り出す。
「梢さんからです。今朝、会ったときに」
「あいつ、俺が食ってばっかりだと思ってないか」
「よく動くので、おなかがすくだろうと」
間違ってはいない。
一つ口へ入れると、甘い匂いが鼻へ抜ける。隣から視線を感じるので、残りの一つは袋ごと膝へ下ろす。
「何だよ」
「ちゃんと食べてくれて、よかったなと」
「お前ら、俺を何歳だと思ってるんだ」
運転席で灯子さんが笑う。
俺は言い返す前に二つ目も食べ、空の袋を小さく畳んだ。
*
北の橋を渡り、川沿いの細い道へ曲がる。
低い塀の向こうに、瓦屋根の建物が二つ並んでいる。手前が母屋で、奥が工房らしい。
門の外で待っていた女性が、灯子さんへ手を振る。
「お電話の、あかり便利屋さん?」
「はい。今日はありがとうございます」
持ち主は、ここで染め物をしていた人の娘だという。
父親が仕事をやめてからは使っておらず、建物の整理を少しずつ進めているそうだ。
「売れる道具を榎本さんに見てもらって。残りは処分するつもりだったんですけど」
女性は端末の写真へ顔を寄せる。
作業台に並ぶ三枚の板を見せると、眉が寄った。
「これ、父の道具じゃないと思います」
「見覚えはありませんか」
「ありません。仕分けの日には、近所の方にも手伝ってもらったので、その誰かの物かと……」
手伝いに来た人は四人。
名前は分かるので、あとで灯子さんへ教えてもらうことになる。
俺は写真を閉じず、その日の順番を聞く。
「榎本さんが来る前から、置いてありました?」
「そこまでは。台へ物を並べ始めたのは朝で、榎本さんはお昼過ぎです」
その間に置けた人がいる。
まだ、誰の物かは分からない。それでも、工房で昔から使われていた道具とは限らなくなった。
灯子さんが調査と記録の了承を取り、工房の鍵を預かる。
持ち主には、門の外へ残ってもらう。
作業場の入口は南側にある。
引き戸を開けると、正面の北の壁まで土間が続き、中央に長い作業台が置かれている。右の東側には、布を巻く木の軸と、それを支える台。左の西側には浅い洗い槽が並び、北西の隅に裏口がある。
床の細い溝が洗い槽の脇を通り、裏口の手前の排水口へつながっていた。
俺は戸口から作業台を見る。
写真と同じ場所に、小さな板が一枚だけ残っている。
「二枚、ない」
澪が俺の隣で止まる。
灯子さんは持ち主へ声を掛け、仕分けのあとに入った人がいないか、確認を続ける。
土間の溝は、乾いている。
だが、作業台の北側には、濡れた足跡が二つ見えた。
靴底の形ではない。板の端を押しつけたような、細長い跡だ。
右の木の軸が、かすかに回る。
「澪。右」
巻かれた白い布の下から、黒い筋がのぞく。
布を支える木の台がきしみ、その陰から、板を重ねた腕が伸びてきた。
先端には、布のような白い手。
五本に分かれた細い端が、作業台の板へ向く。
あれを、取りに来ている。
俺は台の南端へ走る。
白い手が板をつかむ寸前、天板へ飛び乗って足を滑らせ、その指を靴底で払う。
布が足首に巻きつく。
引かれるより先に膝を曲げ、反対の足で天板を蹴る。横へ転がると、白い端が靴から抜け、台の角を締め上げた。
角の木が鳴る。
あれで首や腕を巻かれたら、簡単には外せない。
「板を狙ってる! 灯子さん、入口を!」
「分かった!」
澪が台の南側から右へ回る。
白い手の付け根へ刀が走り、切れた布が天板に落ちる。だが、巻かれた布の下から新しい先端が伸び、また指の形に分かれていく。
俺は台の上でしゃがみ、残った板をつかむ。
指先へ、冷たいものが触れた。
板の裏から細い黒い筋が立ち、手首へ伸びる。
「こっちもかよ!」
放り投げず、天板へ戻す。
追ってきた筋へ仕事用の札を押し当てると、黒い先端の動きが鈍る。その間に、灯子さんが広げた厚い布ごと板を包み、台の南端から渡す。
「動きます。開けないで!」
「預かる!」
包みを受け取った灯子さんが、戸口へ下がる。
白い腕が、そちらへ向き直った。
*
俺は天板を蹴り、伸びる腕の上へ落ちる。
両足で踏んだ板が折れ曲がり、腕の先が土間へ叩きつけられる。着地の衝撃が膝へ返り、俺も片手を床につく。
足元の布が、靴の縁をなぞる。
すぐに退く。
巻かれかけた足が外れ、床へ広がる白い指を、澪の刀が切り払う。
「腕だけでは止まりません!」
木の台の陰で、何かが起き上がる。
濡れた板を縦につないだ、俺より背の高い胴。肩の高さに布巻きの軸を抱え、そこから二本の腕を伸ばしている。
胴の下端は二つに分かれ、床へ突き立つたび、さっき見た細い跡を残す。
胸には、丸い穴がある。
真鍮の札は見えない。その代わり、抱えた軸の中央で、黒い帯が何重にも締まっていた。
腕を切られたあと、そこが引き締まる。
軸が回り、布が送り出されると、新しい手ができる。
「巻いてあるところだ。あそこを止める!」
白い手が左右に開く。
一つは台の南端にいる俺へ。もう一つは、その右で刀を構える澪へ。
俺は台の西側へ回り込む。
追ってくる腕が南の角へ引っかかり、天板の上を布が滑る。澪は東の壁側へ退き、横から来る手を刀で受け流す。
二人とも、入口から遠ざかる。
胴が一歩、南へ出る。
腕を伸ばしたまま入口を狙うには、作業台が邪魔になるらしい。
灯子さんは戸口を越え、外から包みを保管用の容器へ入れる。
その動きへ合わせるように、怪異の胸の穴が入口を向く。
両腕が、俺たちから離れた。
「行かせるか!」
俺は台の西側から天板へ跳び上がる。
高く跳ぶ必要はない。向こうの胴へ届けばいい。
白い手が入口へ伸びる、その付け根を蹴る。
相手の身体が東へ傾き、布の先が戸口の柱を打つ。俺は軸に手を掛けようとして、回る布に指を弾かれる。
滑る。
抱きつくのをやめ、靴底で胴を押して天板へ戻る。
肩の軸が回る限り、直接つかめない。
澪が東の壁際から前へ出る。
倒れかけた怪異の脚を刀で払い、相手が立て直す間に、俺と同じ作業台の南側まで下がってくる。
「佐倉さん、手は」
「大丈夫。回るのを止めたい」
俺は軸を支えていた台を見る。
東の壁へ寄せた木の台には、鉄の受けが二つある。軸の両端を載せる、上の開いた金具だ。
その手前に、取り外された細い鎖が落ちている。
重い巻物を扱うとき、軸が受けから跳ねないよう留める物だろう。
どちらも切れず、片側の金具につながっている。
「あの台に、載せ直す。東へ押せるか?」
俺の指す先を見て、澪がうなずく。
「腕は、こちらへ向けます」
彼女が作業台の南端から東へ走る。
白い手が追い、壁の手前で左右から閉じようとする。澪は踏み込みを止め、低く身を沈めながら布の先を切る。
二つの腕が、どちらも東を向く。
軸の西端が空く。
俺は天板の北寄りへ進み、横から怪異の肩を蹴る。
板の脚が土間を擦り、胴が木の台へぶつかる。抱えていた軸の東端が受けへ落ち、続いて西端が金具を打った。
まだ回る。
黒い帯が台ごと持ち上げようと、ぎりぎり音を立てる。
俺は台の脇へ跳び下り、落ちていた鎖をつかむ。
回る布には触れず、西端の細い軸の上へ鎖を渡す。その輪を受けの横の鉤へ落とし、工具袋から抜いた作業用の金具で口を留める。
軸が跳ね、鎖が張る。
受けから浮くのは止まったが、布はまだ巻き戻っていく。
「そっちも鎖!」
東端に近い澪が、もう片側の鎖を掛ける。
腕を縮めた怪異が、俺の肩へ白い指を向ける。
今度は、下がらない。
右の指先へ力を集める。
まだ残る腕のだるさの奥に、熱が灯る。伸びた爪で、軸と胴をつなぐ黒い帯へ触れる。
浅い。
外側の一筋しか切れない。
白い指が袖をかすめる。
俺は身体をひねり、爪を入れた右手だけを残す。澪の刀が肩の前へ入り、布を押しのけた。
「届きますか!」
「あと、少し!」
帯の下へ指を曲げる。
軸が巻き戻る。だが、両端の鎖が張り、抱えた胴を引き寄せるだけになる。
その動きで、帯の内側が爪へ押しつけられた。
引っかかった感触を逃さず、肘を引く。
黒い帯が、まとめて切れた。
胴が俺の前で崩れる。
澪の刀へ絡みかけた白い布が垂れ、回り続けていた軸が、鎖を一度鳴らして止まった。
俺は右手を離し、台へ左手をつく。
息を吐くと、爪が少しずつ短くなっていく。
戸口の外から、灯子さんが声を掛ける。
「律、澪ちゃん!」
「止まった。……包みは?」
「容器の中。こっちも、もう動いていないよ」
俺と澪は、同時に入口を見る。
持ち主は門の外に立ったまま、灯子さんの肩越しにこちらを見ていた。
その人まで腕が届かなかったことを確かめて、俺はようやく膝の力を抜いた。
*
「上着、無事ですね」
澪の指が、俺の袖の汚れを払う。
布の指にかすられたところは、黒く湿っているだけで裂けてはいない。
「直してもらったばっかりだからな」
「佐倉さんも、無事です」
顔を上げると、彼女が笑っている。
俺は伸ばしかけた右腕を下ろし、左手で彼女の袖を指す。
「そっちは?」
「大丈夫です。巻かれていません」
「なら、よかった」
包みを守った灯子さんが、入口で俺たちを手招く。
持ち主へ現状を説明してから、作業台の前へ戻り、写真と見比べる。
三枚の板があった位置には、埃の薄い四角が三つ。
残っていた一枚を包んだ場所にも、黒いしみが残る。持ち主は、榎本さんの搬出後には誰も入れていないという。
「鍵は、一つだけですか」
「父が使っていた分もあります。母屋の玄関に掛けてあって……そこまでは、確かめていません」
確認は、灯子さんが付き添って行うことになる。
俺は写真を広げ、作業台の奥に写る物へ目を留める。
紙を挟む、薄い木の板。
今も台の北の端に、裏返して置いてある。
灯子さんへ示してから、残った筋がないか見ながら表へ返す。
挟まれているのは、工房の設備図だった。
洗い槽と排水の位置。その隅に、新しい鉛筆の線で、別の図が描き足されている。
三つの四角が、川に沿って並ぶ。
東、西、北。
澪が隣へ来た途端、その顔から笑みが消える。
「守りの場所です」
東の四角には丸がつき、西と北には、短い線が引かれている。
その三つから伸びた矢印が、川の中央の橋脚へ集まっていた。
今、車で渡ってきた北の橋だ。
「こんな書き込み、父はしません」
戸口から見ていた持ち主が、首を振る。
灯子さんが紙全体を撮影し、澪は守りを担当する人たちへ連絡を入れる。
丸が成功で、線が失敗なのか。
そうとは、まだ決められない。昨日の襲撃の結果を書いたなら、あとからここへ入った者がいることになる。
だが、守りを奪おうとした相手が、その先でどこを見ているのか。
初めて、場所が一つに絞れた。
「橋の下、管理用の扉があります」
俺は図の矢印を指す。
「前に、落書き消しで道具を運んだ。橋脚の点検通路へ入る扉です。管理先に、中へ誰か入ってないか聞けます」
「お願い。こちらからも、橋の周りを見てもらう」
灯子さんへうなずき、端末を出す。
右腕が重いので左手へ持ち替えると、澪がその動きを見て、工具袋を引き受けてくれる。
「次も、走って入るのは待ってくださいね」
「分かってる。先に、開けていい扉か聞く」
俺が電話帳を探していると、頭の上へ彼女の手が触れる。
一度、髪の流れに沿って、ゆっくりと。
「……木くず?」
「今度は、お疲れさまです」
言い返そうとしたところで電話がつながる。
俺は立ち上がった耳を片手で押さえ、仕事の声をどうにか取り戻す。
「あかり便利屋の佐倉です。北の橋の、点検通路について確認したいんですが」
目の前の紙では、三本の矢印が橋脚を指している。
守りをなくした先で、何を通すつもりだったのか。
その扉を、向こうの都合で開けさせるわけにはいかない。




