第16話 荷札の先にも、仕事はある
「律、上着」
「今、脱ぎます」
「うん。その前に、しっぽ」
事務所の椅子へ腰を下ろしかけ、俺は慌てて立ち直る。
座面に置いた自分のしっぽを、危うく尻で踏むところだった。
灯子さんが工具袋を受け取り、澪が椅子の背へ手を添える。
二人とも、笑うのを我慢している顔だ。
「疲れてるだけです」
「分かってるよ」
「佐倉さん。今度は大丈夫です」
澪に座るところまで見届けられ、俺は裂けた灰色の上着を脱ぐ。
袖から右手を抜くと、腕の奥に重さが残る。指は動くが、工具を握り続けたい感じではない。
約束どおり、今日は写真を送って終わりにする。
糸巻きの荷札、崩れた板、胸から外れた真鍮の札。
撮った順番を確かめ、灯子さんがまとめる報告へ添える。古道具市の主催の番号は、以前の運搬依頼の控えから見つかった。
「ここです。棚を買ったお客さんの、搬出の確認をしたときの」
「ありがとう。問い合わせは私がしておくね」
送信の表示を見届けたところへ、澪の電話が鳴る。
彼女は店の入口で短く返事をし、戻ってくると、俺たちの机へ画面を向ける。
東堤の守り箱だ。
壊された蓋には仮の板が取り付けられ、中に新しい木札が納まっている。
「代わりの守りが入りました。封じも確認できたそうです」
俺は画面を少し拡大する。
朝、男の人の足を支えた壁が、写真の端に写っていた。
「……よかった」
言ってから、背もたれへ身体を預ける。
あそこを見張っていた人たちも、これで交代できる。
「取り返したほうの札は?」
「家で調べます。今は別に保管して、使いません」
「雨よけは、明日、管理の人に寸法を聞こう。仮の板のままじゃ長持ちしない」
灯子さんが手帳へ書き、俺の前の端末をそっと閉じる。
「明日の仕事、確保できたね」
「そういう意味で言ったんじゃ」
「今日の分は、もう終わり」
澪まで、隣でうなずく。
俺は反論する代わりに、両手を膝へ下ろした。
*
目を開けると、机がずいぶん近い。
頬の下に畳んだタオルがあり、肩には薄い毛布が掛かっている。
起き上がると、しっぽまでその中から出てきた。
「おはよう。まだ夕方だけど」
向かいの灯子さんが、針を止める。
手元には俺の上着。裂け目の裏に、同じ色の布が当ててある。
「寝てました?」
「四十分くらい。澪ちゃんは、引き継ぎに帰ったよ」
机の端に、小さな紙が置いてある。
また明日、と書かれた字の下で、丸い猫がこちらを見上げている。耳が妙に大きい。
「これ、俺ですか」
「描いているところ、見てないからねえ」
灯子さんの声が楽しそうだ。
俺は紙を捨てる場所を探すふりをして、端末のケースへ挟む。
「古道具市、聞けました?」
「出店の受付番号が荷札に残ってたでしょう。照合してもらえた。榎本古道具店だって」
主催から店へも連絡が入り、糸巻きの写真を確認してもらえたらしい。
店主は、売った品に間違いないと答えている。
「ほかの品もあるかもしれないから、川の事件を説明して、同じ仕入れの物は触らずに置いてもらってる。明日の九時に、店で話を聞けるよ」
「買った人は?」
「市で現金払い。名前は聞いていないそうよ」
そこは切れている。
それでも、糸巻きがどこから来たかは聞ける。
俺が毛布を畳み始めると、灯子さんは上着を膝へ下ろす。
「明日、行く?」
「行きます。運搬のときのことなら、俺も聞ける」
「じゃあ、今夜はしっかり食べよう」
流しの横に、買い物袋がある。
のぞくと、卵と豆腐と、切り分けられた鶏肉が見えた。
「何か手伝えることは」
「味見」
「もうちょっと働かせてください」
「じゃあ、お椀を二つ。下の棚ね」
手を洗ってから棚を開ける。
取った椀を食卓へ置くと、鍋からだしの匂いが上がってくる。腹が鳴る前に、灯子さんが小皿を差し出した。
鶏肉を一切れ食べる。
口元が緩むのが、自分でも分かる。
「どう?」
「うまいです」
「よし。耳も合格って言ってる」
頭へ手をやると、灯子さんが笑う。
両耳とも、鍋のほうを向いていた。
*
翌朝、直った上着へ腕を通す。
右腕は、曲げても上げても昨日のようには重くない。袖の継ぎ目を指でなぞると、内側の布が柔らかく触れる。
「ありがとう。引っかからないです」
「袖口も少し直したから。手、出してみて」
灯子さんが両袖の長さを見ているところへ、澪がやってくる。
俺を見るなり、足を止めた。
「きれいに直りましたね」
「ああ。これなら、また使える」
「似合っています」
「昨日と同じ上着だぞ」
「昨日も、そう思っていました」
そこで真面目に返されると困る。
工具袋を取ろうとした手元で、しっぽが机の脚を叩く。
澪の口元が緩んだのを見て、俺は先に入口へ向かう。
「行くぞ。九時に遅れる」
「まだ八時半です」
「道が混むかもしれないだろ」
背中で、灯子さんまで笑っている。
榎本古道具店は、北町の商店街を抜けた先にある。
灯子さんの車を店の脇へ止めると、白髪交じりの男性が、半分開けた引き戸から顔を出す。
「あかりさんだね。どうぞ。……そちらの子も?」
「佐倉です。前に市で、棚の積み込みを」
男性の目が、俺の顔と耳を行き来する。
「あの背の高い兄さん?」
「はい。事情があって、今はこれで」
何度説明しても、ここだけは慣れない。
榎本さんは口を開けかけ、それから店の奥へ目を向ける。
「……じゃあ、持ち上げる前に脚の緩みを見てくれたの、あんただったか」
「留め具、一つ抜けてましたから」
「助かったよ。今日は、こっちが助けてもらう番だな」
同じ仕事の続きを話す声に、肩の力が少し抜ける。
俺は入口の段差を越え、差し出された帳面の前へ立つ。
店内には時計や火鉢、木の椅子が並ぶ。
昨日の写真を机へ置くと、榎本さんは棚から一枚の紙を持ってくる。仕入れの品を撮った写真だ。
「糸巻きは、これ。先々週、引き取ったときの」
写真の中では、同じ白い荷札が乾いた木に留まっている。
上には何も座っていない。鈴も、鉤も、真鍮の札もない。
「売るときも、このままでしたか」
「ああ。買ったのは帽子をかぶった人でね。顔までは覚えちゃいない。古い織り道具が欲しいと、これ一つ持っていった」
ただの品だったものに、あとから何かを足したのか。
写真だけで、怪異ではなかったとは決められない。それでも、昨日の身体の部品が、初めから全部そろっていたわけじゃない。
「引き取り先は、どこですか」
「北の橋の向こう。元は染め物をやっていた、工房だよ。今の持ち主から、残った道具を頼まれてね」
榎本さんが帳面の住所を示す。
灯子さんが持ち主の連絡先を確認する横で、俺は写真を見直す。
糸巻きの後ろには、桶と木枠が積まれている。
その端に、真鍮色の細い板が三枚並んでいた。
「この板も、引き取ったんですか」
「いや、それは置いてきた。道具を並べた作業台にあったんだが、何に使うのか分からなくて」
澪が顔を寄せる。
俺は昨日回収した札の写真を開き、その隣へ置く。
角を落とした細長い形。
上端の小さな穴。
ただの金属板なら、似たものはいくらでもある。だが、二体の胸で見た形に、よく似ている。
「この写真、送ってもらえますか」
灯子さんの声に、榎本さんがうなずく。
そのとき、店の奥で、かり、と木が擦れた。
俺は耳を向ける。
引き戸の外では車が走っている。店の時計の音に混じって、もう一度、同じ音がした。
「同じ工房から来た品は、どこに?」
「奥の土間。言われたとおり、昨日から触っていないが」
榎本さんが奥へ向きかけるのを、灯子さんが止める。
澪が刀の柄へ手を掛け、俺は通路の先をのぞく。
店から一段下がった土間は、裏口まで真っすぐ続いている。左には木枠、右には桶。その間の床に、浅い水がにじんでいる。
桶の下から、細い黒い筋が伸びていた。
右の桶が跳ねる。
輪を締める鉄のたがが一つ外れ、縦に立つ。その内側へ濡れた板が集まり、車輪のような形になる。
俺は段差から左へ跳び退く。
たがが床を噛み、さっきまで立っていたところへ突っ込んでくる。店へ上がる段にぶつかり、端の木が欠けた。
「榎本さんを外へ!」
灯子さんが男性を連れて入口へ下がる。
澪は土間の右端へ下り、刀を抜く。俺は店側の床に残り、たがの内側を見る。
中心には、桶の底板。
割れ目に黒い塊が挟まり、筋が放射状に伸びている。回転を止めれば、ここから手が届く。
俺へ向き直るため、たががゆっくり傾く。
その横、壁に立て掛けてある木の棒が目に入る。先に短い横木がついた、荷を動かすための道具だ。
「榎本さん! この棒、借ります!」
「使ってくれ!」
返事と同時に、たがが走り出す。
俺は棒を取って左へ避け、その先を輪の中へ差し入れる。
回る板へ横木が引っかかる。
握ったままでは持っていかれる。すぐに手を放すと、回転した棒の柄が土間の床へ突き当たった。
たがが跳ね上がる。
「澪、倒して!」
右から澪の靴が板の側面を蹴る。
回転を乱した輪が左へ倒れ、俺は段差からその上へ飛び下りる。
靴底で底板を押さえると、鉄の縁が足首へ起き上がろうとする。
引っかかった棒が、きしむ。
折れる前に、終わらせる。
黒い割れ目へ右手を伸ばす。
指先に熱が集まり、短い爪が板の隙間へ入る。木を削る感触の奥で、冷たい筋が爪へ絡んだ。
そこだけを、引く。
黒い塊が裂け、輪の内側で張っていた力が抜ける。
足元の板がばらばらに落ち、鉄のたがは普通の輪になって土間を転がった。
澪が刀を下げる。
俺は残った桶から目を離さず、段差まで戻る。
「ほかは?」
「今は、動いていません」
右の指を開くと、爪が縮んでいく。
腕には少しだるさが残るが、昨日ほどではない。それを確かめるより先に、入口の榎本さんへ顔を向ける。
「怪我、ありませんか」
「ああ。……ありがとう。店まで持ち込んでいたのか、こんなものを」
俺は割れた桶を見る。
中心に真鍮の札はない。外套や糸巻きと、同じ作りではなかった。
「どこでこうなったか、まだ分かりません。でも、仕入れ先に残っている物も、見たほうがいいです」
灯子さんが電話を取り出す。
店に残る品は討伐師へ確認を頼み、動かなかったものも売らずに分けてもらう。工房の持ち主には、これから連絡する。
俺は借りた棒を拾う。
横木の角が割れていた。榎本さんへ見せると、彼は首を振る。
「人を守って折れたなら、十分だよ」
「店の段も、欠けました」
「そっちは、直す仕事を頼めるかい」
灯子さんと目が合う。
彼女がうなずくので、俺も榎本さんへ向き直る。
「はい。先に、奥を片づけられる状態にしてから」
澪が隣へ戻ってくる。
俺の手を一度見てから、耳の横についた木くずを取る。
「今日も、速かったです」
「あれくらいなら、もう逃がさない」
「はい。頼もしいです」
返事をしようとすると、彼女の指が髪の上で少し止まる。
俺は先に、その手へ木くずを載せた。
「なでるのは、片づけてから」
澪が目を丸くする。
しまった、と思うより早く、入口から灯子さんの声が飛んでくる。
「今の、覚えておくね」
「そういう予約じゃないです!」
しっぽが跳ねて、直った上着の裾を押し上げる。
榎本さんまで笑ったので、俺は仕事の写真を撮るふりをして、熱い顔を端末の陰へ隠す。
画面に残った仕入れの写真では、三枚の真鍮色の板が、まだ作業台に並んでいる。
昨日の二枚と同じものか。それとも、ほかにもあるのか。
灯子さんの電話がつながる。
俺は写真を閉じず、その声を聞きながら、北の橋へ向かう道を思い浮かべる。
買われた糸巻きの先は、切れていても。
積み出された場所までは、まだたどれる。




