第15話 逃がさないのも、仕事のうち
「口、開けて」
灯子さんが差し出す小さなパンを見て、俺は飲み物を膝へ下ろす。
「自分で食べられます」
「袋を開けただけ。はい」
渡されたパンには、端まで卵が詰まっている。
旧取水場の裏から駐車場へ戻って、二十分ほど。車の後ろの扉を開け、その縁へ腰を下ろしていると、風が汗の引いた首筋を冷やす。
腕はまだだるいが、飲み物のふたは自分で開けられる。脚の震えも収まってきた。
食べ始めた途端、腹が鳴る。
「聞こえた?」
「はい」
隣の澪が、律儀に答える。
「そこは聞こえなかったことにしてくれ」
「二つ目もありますよ」
「……もらう」
差し出す手に、彼女が袋を載せる。目が合うと、口元が少し緩んだ。
「元気が戻ってきましたね」
「食ってる顔で判断するな」
「耳も戻っています」
頭へ手をやりかけ、パンを持っていることを思い出す。
伏せていたらしい耳が、今はしっかり立っていた。
灯子さんの電話が鳴る。
彼女は車の脇で相手の話を聞き、水路図に丸を二つつける。
「旧沈砂池の中は無人。管理の人が記録と鍵を持って来てくれる。川側と東側の門も、閉められるって」
「今、水は来てますか」
「使っている水路とは切り離してある。古い管に残った水と、雨水が少し。閉めても、ほかの場所へあふれることはないそうよ」
それなら、出口を塞げる。
俺は残ったパンを口へ入れ、膝に図を広げる。
旧沈砂池は、取水場から歩いて十分ほど上流だ。蓋のある細長い池の底へ砂を沈め、上の水だけを取水場へ送っていた。
今は空の設備でも、川と東の水路へ続く古い管が残っている。
「二つ閉めたら、取水場へ出る管だけか」
「そっちは北の担当の一人が、水受け側から見てくれる。もう一人は守りに残るよ」
東の見張りも、西の守りも動かさない。
追うために、また別の場所を空けるわけにはいかない。
澪が図の中央を指す。
「入るのは、ここの点検階段ですね」
「ああ。道が狭いから、俺が前を見る。手が要るところは頼む」
「分かりました」
返事を聞いて、空の袋を畳む。
腕を上げてみると、さっきより軽い。
爪を試すために力むのはやめ、その手で工具袋の肩ひもを直す。
何回使えるか分からないなら、届くところで使う。
*
管理の男性が最後のハンドルを回すと、足元の奥で重い音が響く。
「これで東側も閉まった。川側は、さっき確認したとおり」
閉めたのは水の通り道にある鉄の門だ。川守りの札とは違い、怪異を祓う力はない。それでも、古い管を通って逃げる相手には壁になる。
灯子さんが管理の人を柵の外へ送り、入口へ戻ってくる。
開いた点検扉の向こうから、湿った空気が上がる。
その奥で、かた、と木が触れ合う。
「いる」
俺は階段の上からライトを向ける。
南の階段を下りた先に、細長い池が北へ伸びている。底にたまった水は靴底ほど。西側、下りて左の壁に沿って、乾いた点検通路が一本続く。
東側には閉めた門。正面奥には、川側の門を操作するための古い足場がある。
取水場へ下る管は、池の南東の隅だ。
奥の足場に、人の形をしたものが座っている。
いや、椅子ではない。
逆さに置いた木の糸巻きだ。
その上へ濡れた板が寄り集まり、細い胴と長い両腕を作っている。顔の場所には丸い穴が一つ。胸には、木の人形に埋まっていたものと似た、真鍮の札が見える。
札から出た黒い筋が、胴を巻き、足元の糸巻きへ続いていた。
頭の左右には、鈴が三つずつ。
その一つが揺れる。
池の底に転がっていた木の人形が、二体、起き上がる。
どちらも掌ほどの大きさだ。背中の糸が水面を横切り、奥の糸巻きにつながっている。
「あれが、外套を動かしてたのか」
切れた糸も、足場から南東の管へ垂れている。
さっき見つけたものの、反対の端だ。
澪が俺のすぐ後ろで刀を抜く。
灯子さんは入口に残り、取水場側の見張りへ連絡する。
「小さいのが管へ向かう。澪、そっちを頼む」
人形は俺たちへ来ない。
二体とも浅い水を走り、南東の管を目指している。ここから逃がせば、また何かを着せられる。
澪が階段を下りきったところから右へ踏み込み、一体目の前へ刀を入れる。
俺は左の通路を北へ走る。
座った敵の右腕が上がる。
その先には、指の代わりに鉄の鉤。そこへ黒い糸が束になって絡み、引き絞られる。
嫌な音がする。
通路の壁を、糸の束が横に打つ。
俺は腹ばいになるように身を沈める。耳の上を風が抜け、肩の高さでコンクリートが欠けた。
伏せた背中へ、砕けた砂が落ちてくる。
爪が届く長さじゃない。
立って走れば、次は腰を払われる。
顔を上げると、糸の束が壁から離れ、敵の腕へ巻き戻っていく。
その間、胸の札の前を、左腕が横切っていた。
そこは守るのか。
「腕を振るほうが、空くぞ」
俺は起き上がり、敵がいる北へ踏み込む。
*
鈴が鳴る。
今度は左腕から、糸が伸びる。
俺は通路の端を蹴り、右の浅い池へ跳び下りる。糸がさっきまでいた場所を打ち、乾いた音を立てる。
着地した靴が滑るが、片手を底へついて踏みとどまる。
足元から冷たさが上がってくる。
見下ろすより先に、右足を引く。
細い黒い糸が、靴の先をかすめる。
水の中にも張ってある。
「佐倉さん、二体とも止めました!」
南から澪の声が届く。
すぐに俺のいる池へは来ず、左の点検通路へ上がる足音が続いた。
「底に糸がある。通路から来て!」
返事の間にも、敵の右腕が上がる。
今いる池の中央へ、糸の束が伸びる。
後ろへ跳ぶと、すぐ前の水が弾ける。
だが、その先の底で、細い筋が一斉に張った。
俺のいた場所から、北の足場まで。
濡れた床の上に、黒い線が何本も浮かび上がる。
振り回しているだけじゃない。
打った糸を底へ残して、近づく場所を減らしている。
敵の胸で、真鍮が光る。
あれを抜くには、足場へ上がらないと届かない。だが、地面を選んで走っていたら、その前に足を取られる。
俺は正面を見る。
敵の頭より上に、鉄の横棒が一本渡してある。昔、池から砂をすくう道具を吊っていたものだろう。両端は壁の受け金具へ収まっている。
「澪。あいつの右腕を、外へ向けてくれ!」
西の通路を進んでいた彼女が、足場の手前で刀を構える。
敵から見れば右側。俺からは左だ。
鈴が鳴り、右の鉤が澪へ向く。
彼女は前へ出すふりをして、すぐに一歩退く。通路を糸が打ち、その束が戻るより早く、刀を振り下ろす。
黒い束が途中で切れる。
敵の右腕が外へ流れる。
今だ。
俺は池の底を蹴る。
足元の糸を越え、敵の頭上へ。
伸ばした両手が横棒を掴む。
肩に重さが食い込み、棒から錆が落ちるが、手は離さない。
勢いのまま膝を引き上げると、真下で敵の左腕が俺の着地点を払う。
まだ下りない。
「こっちだ!」
ぶら下がったまま、靴底で鈴を蹴る。
二つまとめて割れる。
顔の穴が俺を向き、左腕が上へ伸びる。その鉤が足を狙ってくる直前に、俺は棒から手を離す。
敵の胸のすぐ前へ落ちる。
両腕は外と上。札を隠すものがない。
足場へ着地し、左手で敵の胴を押さえる。
板は硬い。爪で板ごと裂こうとは思わない。
真鍮の縁で震える、黒い水。
それを引っかける感触だけを思い出す。
右の指先に、熱が戻る。
「捕まえた」
伸びた爪を、札と木の隙間へ入れる。
黒い筋が切れる。胸の板が一枚外れ、その奥から、足元へ続く太い束が見えた。
札を引く。
抜けない。
胴だけではなく、下の糸巻きにもつながっている。
背後で鈴が鳴る。
敵の左腕が折れ曲がり、俺の背中へ鉤を向ける。胸へついた左手を放そうとしたとき、横から刀が入った。
「続けて!」
西の通路から足場へ上がった澪が、鉤を刀の根元で受け、外へ押しやる。
長くは止められない。刃と鉄が擦れる音がする。
俺はしゃがむ。
胸の札を無理に引かず、その下へ右手を滑らせる。
糸巻きから腹へ上がる束を、爪ですくう。
切れた筋が手首へ跳ね、冷たい水へ戻る。
その瞬間、左手に押さえていた胴の重さが消えた。
真鍮の札が、板の間から滑り落ちる。
俺は爪を引き抜き、その札を足場へ押さえつける。
背中で木が崩れる。
澪の刀から鉤が落ち、空の糸巻きが一度だけ回った。
池の底を覆っていた線が、端からほどける。
残った鈴は、どれも鳴らない。
俺は足場にしゃがんだまま、右手を開く。
短くなっていく爪の間から、水が滴る。
「……もう、糸は出てないか」
「はい。全部、止まっています」
澪が刀を下げる。
その足元で、真鍮の札を押さえる俺の手も、ようやく緩んだ。
*
灯子さんが下りてきて、真鍮の札を容器へ収める。
俺は足場に座り直し、腕を膝へ預ける。右腕の奥が重い。最後の一回に絞ってよかった。
澪が俺の前へ膝をつき、顔をのぞく。
「耳、見せてください」
「また立ってる?」
「砂が入っています」
彼女が取り出す布を見て、俺は黙って頭を傾ける。
耳の外側をそっと拭かれると、勝手に先が震える。笑い声をこらえるような息が聞こえた。
「今、笑っただろ」
「すみません。動いたので」
「動くんだよ、自分でも」
もう片方へ顔を向けると、今度はちゃんと、真面目な顔で拭いてくれる。
それが余計に落ち着かない。
「上から来るとは思いませんでした」
「下は糸だらけだったからな」
「はい。……腕を止める役を任せてもらえて、よかったです」
布が耳を離れる。
俺は髪を直し、彼女の刀へ目を向ける。
「助かった。あそこで手を引いたら、たぶん抜けなかった」
澪はうなずいて、布を畳む。
頭の上へ戻りかけた彼女の手が、途中で止まる。
「何だ」
「いえ」
「……砂が残ってるなら、取ってくれ」
指先が一度だけ、耳の間を撫でていく。
砂を取る動きにしては、ずいぶんゆっくりだった。
灯子さんが電話を切る。
「取水場の管にも動きはなし。管理の人には、門を閉めたままにしてもらうね」
「東は?」
「代わりの守り札を運んでいるところ。納めるまでは、見張りを続けるって」
ようやく、息が深く入る。
盗まれた札を取り返して、逃げ道を塞いで、糸の元を止めた。
朝から引きずっていた仕事が、ここで一つ区切れる。
灯子さんは崩れた板を撮影し、足場に残った糸巻きを裏返す。
底には白い荷札が一枚、錆びた釘で留めてある。
「これ、読める?」
差し出された写真を拡大する。
水でにじんだ文字の中に、店の名前と日付が残っていた。
「北町古道具市……先週の日曜だ」
町外れの広場で月に一度開かれる市だ。灯子さんの車で、買った棚の運搬を頼まれたことがある。
ただの古い糸巻きが、そこで売られたのか。
売られた時点で、もうこうなっていたのか。
俺は荷札の写真をもう一枚撮る。
「主催の連絡先、店にあります。出した店を聞ける」
「うん。持ち帰って調べよう」
灯子さんは荷札を無理に剝がさず、糸巻きごと袋へ入れる。
誰かが仕込んだのかどうかも、まだ分からない。それでも、水路の中を手当たり次第に探すより、確かな聞き先ができた。
立ち上がろうとすると、澪が手を出してくれる。
俺はその手を借り、足場から通路へ戻る。
「帰ったら、今日は終わりにしましょう」
「写真を送るくらいはする」
「送ったら、終わりです」
階段の上から灯子さんまでうなずく。
「上着も預かるよ。裂けたところ、今夜のうちに直しておく」
「また手間かけます」
「仕事着が働いた証拠。律も、よく働いたね」
まっすぐ褒められると、どうも返事が遅れる。
澪の手を放し、工具袋を肩へ掛け直す。
「……じゃあ、夕飯の買い出しは俺が」
「休む仕事も引き受けて」
先に階段を上がる灯子さんの声が弾む。
隣で澪まで笑っている。
俺は言い返すのをやめ、二人と一緒に明るい外へ出る。
車に着いたら、まず店へ写真を送ろう。
それが終わったあとの席は、自分から後部座席を選ぶつもりだ。




