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化け猫になっても、便利屋は休めない  作者: あわいしゅん


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15/18

第15話 逃がさないのも、仕事のうち

「口、開けて」


 灯子さんが差し出す小さなパンを見て、俺は飲み物を膝へ下ろす。


「自分で食べられます」

「袋を開けただけ。はい」


 渡されたパンには、端まで卵が詰まっている。

 旧取水場の裏から駐車場へ戻って、二十分ほど。車の後ろの扉を開け、その縁へ腰を下ろしていると、風が汗の引いた首筋を冷やす。


 腕はまだだるいが、飲み物のふたは自分で開けられる。脚の震えも収まってきた。

 食べ始めた途端、腹が鳴る。


「聞こえた?」

「はい」


 隣の澪が、律儀に答える。


「そこは聞こえなかったことにしてくれ」

「二つ目もありますよ」

「……もらう」


 差し出す手に、彼女が袋を載せる。目が合うと、口元が少し緩んだ。


「元気が戻ってきましたね」

「食ってる顔で判断するな」

「耳も戻っています」


 頭へ手をやりかけ、パンを持っていることを思い出す。

 伏せていたらしい耳が、今はしっかり立っていた。


 灯子さんの電話が鳴る。

 彼女は車の脇で相手の話を聞き、水路図に丸を二つつける。


「旧沈砂池の中は無人。管理の人が記録と鍵を持って来てくれる。川側と東側の門も、閉められるって」

「今、水は来てますか」

「使っている水路とは切り離してある。古い管に残った水と、雨水が少し。閉めても、ほかの場所へあふれることはないそうよ」


 それなら、出口を塞げる。

 俺は残ったパンを口へ入れ、膝に図を広げる。


 旧沈砂池は、取水場から歩いて十分ほど上流だ。蓋のある細長い池の底へ砂を沈め、上の水だけを取水場へ送っていた。

 今は空の設備でも、川と東の水路へ続く古い管が残っている。


「二つ閉めたら、取水場へ出る管だけか」

「そっちは北の担当の一人が、水受け側から見てくれる。もう一人は守りに残るよ」


 東の見張りも、西の守りも動かさない。

 追うために、また別の場所を空けるわけにはいかない。


 澪が図の中央を指す。


「入るのは、ここの点検階段ですね」

「ああ。道が狭いから、俺が前を見る。手が要るところは頼む」

「分かりました」


 返事を聞いて、空の袋を畳む。

 腕を上げてみると、さっきより軽い。

 爪を試すために力むのはやめ、その手で工具袋の肩ひもを直す。


 何回使えるか分からないなら、届くところで使う。


     *


 管理の男性が最後のハンドルを回すと、足元の奥で重い音が響く。


「これで東側も閉まった。川側は、さっき確認したとおり」


 閉めたのは水の通り道にある鉄の門だ。川守りの札とは違い、怪異を祓う力はない。それでも、古い管を通って逃げる相手には壁になる。

 灯子さんが管理の人を柵の外へ送り、入口へ戻ってくる。


 開いた点検扉の向こうから、湿った空気が上がる。

 その奥で、かた、と木が触れ合う。


「いる」


 俺は階段の上からライトを向ける。


 南の階段を下りた先に、細長い池が北へ伸びている。底にたまった水は靴底ほど。西側、下りて左の壁に沿って、乾いた点検通路が一本続く。

 東側には閉めた門。正面奥には、川側の門を操作するための古い足場がある。

 取水場へ下る管は、池の南東の隅だ。


 奥の足場に、人の形をしたものが座っている。


 いや、椅子ではない。

 逆さに置いた木の糸巻きだ。


 その上へ濡れた板が寄り集まり、細い胴と長い両腕を作っている。顔の場所には丸い穴が一つ。胸には、木の人形に埋まっていたものと似た、真鍮の札が見える。

 札から出た黒い筋が、胴を巻き、足元の糸巻きへ続いていた。


 頭の左右には、鈴が三つずつ。

 その一つが揺れる。


 池の底に転がっていた木の人形が、二体、起き上がる。

 どちらも掌ほどの大きさだ。背中の糸が水面を横切り、奥の糸巻きにつながっている。


「あれが、外套を動かしてたのか」


 切れた糸も、足場から南東の管へ垂れている。

 さっき見つけたものの、反対の端だ。


 澪が俺のすぐ後ろで刀を抜く。

 灯子さんは入口に残り、取水場側の見張りへ連絡する。


「小さいのが管へ向かう。澪、そっちを頼む」


 人形は俺たちへ来ない。

 二体とも浅い水を走り、南東の管を目指している。ここから逃がせば、また何かを着せられる。


 澪が階段を下りきったところから右へ踏み込み、一体目の前へ刀を入れる。

 俺は左の通路を北へ走る。


 座った敵の右腕が上がる。

 その先には、指の代わりに鉄の鉤。そこへ黒い糸が束になって絡み、引き絞られる。


 嫌な音がする。

 通路の壁を、糸の束が横に打つ。


 俺は腹ばいになるように身を沈める。耳の上を風が抜け、肩の高さでコンクリートが欠けた。

 伏せた背中へ、砕けた砂が落ちてくる。


 爪が届く長さじゃない。

 立って走れば、次は腰を払われる。


 顔を上げると、糸の束が壁から離れ、敵の腕へ巻き戻っていく。

 その間、胸の札の前を、左腕が横切っていた。


 そこは守るのか。


「腕を振るほうが、空くぞ」


 俺は起き上がり、敵がいる北へ踏み込む。


     *


 鈴が鳴る。

 今度は左腕から、糸が伸びる。


 俺は通路の端を蹴り、右の浅い池へ跳び下りる。糸がさっきまでいた場所を打ち、乾いた音を立てる。

 着地した靴が滑るが、片手を底へついて踏みとどまる。


 足元から冷たさが上がってくる。

 見下ろすより先に、右足を引く。


 細い黒い糸が、靴の先をかすめる。

 水の中にも張ってある。


「佐倉さん、二体とも止めました!」


 南から澪の声が届く。

 すぐに俺のいる池へは来ず、左の点検通路へ上がる足音が続いた。


「底に糸がある。通路から来て!」


 返事の間にも、敵の右腕が上がる。

 今いる池の中央へ、糸の束が伸びる。


 後ろへ跳ぶと、すぐ前の水が弾ける。

 だが、その先の底で、細い筋が一斉に張った。


 俺のいた場所から、北の足場まで。

 濡れた床の上に、黒い線が何本も浮かび上がる。


 振り回しているだけじゃない。

 打った糸を底へ残して、近づく場所を減らしている。


 敵の胸で、真鍮が光る。

 あれを抜くには、足場へ上がらないと届かない。だが、地面を選んで走っていたら、その前に足を取られる。


 俺は正面を見る。

 敵の頭より上に、鉄の横棒が一本渡してある。昔、池から砂をすくう道具を吊っていたものだろう。両端は壁の受け金具へ収まっている。


「澪。あいつの右腕を、外へ向けてくれ!」


 西の通路を進んでいた彼女が、足場の手前で刀を構える。

 敵から見れば右側。俺からは左だ。


 鈴が鳴り、右の鉤が澪へ向く。

 彼女は前へ出すふりをして、すぐに一歩退く。通路を糸が打ち、その束が戻るより早く、刀を振り下ろす。


 黒い束が途中で切れる。

 敵の右腕が外へ流れる。


 今だ。


 俺は池の底を蹴る。

 足元の糸を越え、敵の頭上へ。


 伸ばした両手が横棒を掴む。

 肩に重さが食い込み、棒から錆が落ちるが、手は離さない。

 勢いのまま膝を引き上げると、真下で敵の左腕が俺の着地点を払う。


 まだ下りない。


「こっちだ!」


 ぶら下がったまま、靴底で鈴を蹴る。


 二つまとめて割れる。

 顔の穴が俺を向き、左腕が上へ伸びる。その鉤が足を狙ってくる直前に、俺は棒から手を離す。


 敵の胸のすぐ前へ落ちる。

 両腕は外と上。札を隠すものがない。


 足場へ着地し、左手で敵の胴を押さえる。

 板は硬い。爪で板ごと裂こうとは思わない。


 真鍮の縁で震える、黒い水。

 それを引っかける感触だけを思い出す。


 右の指先に、熱が戻る。


「捕まえた」


 伸びた爪を、札と木の隙間へ入れる。

 黒い筋が切れる。胸の板が一枚外れ、その奥から、足元へ続く太い束が見えた。


 札を引く。

 抜けない。


 胴だけではなく、下の糸巻きにもつながっている。


 背後で鈴が鳴る。

 敵の左腕が折れ曲がり、俺の背中へ鉤を向ける。胸へついた左手を放そうとしたとき、横から刀が入った。


「続けて!」


 西の通路から足場へ上がった澪が、鉤を刀の根元で受け、外へ押しやる。

 長くは止められない。刃と鉄が擦れる音がする。


 俺はしゃがむ。

 胸の札を無理に引かず、その下へ右手を滑らせる。


 糸巻きから腹へ上がる束を、爪ですくう。


 切れた筋が手首へ跳ね、冷たい水へ戻る。

 その瞬間、左手に押さえていた胴の重さが消えた。


 真鍮の札が、板の間から滑り落ちる。

 俺は爪を引き抜き、その札を足場へ押さえつける。


 背中で木が崩れる。

 澪の刀から鉤が落ち、空の糸巻きが一度だけ回った。


 池の底を覆っていた線が、端からほどける。

 残った鈴は、どれも鳴らない。


 俺は足場にしゃがんだまま、右手を開く。

 短くなっていく爪の間から、水が滴る。


「……もう、糸は出てないか」

「はい。全部、止まっています」


 澪が刀を下げる。

 その足元で、真鍮の札を押さえる俺の手も、ようやく緩んだ。


     *


 灯子さんが下りてきて、真鍮の札を容器へ収める。

 俺は足場に座り直し、腕を膝へ預ける。右腕の奥が重い。最後の一回に絞ってよかった。


 澪が俺の前へ膝をつき、顔をのぞく。


「耳、見せてください」

「また立ってる?」

「砂が入っています」


 彼女が取り出す布を見て、俺は黙って頭を傾ける。

 耳の外側をそっと拭かれると、勝手に先が震える。笑い声をこらえるような息が聞こえた。


「今、笑っただろ」

「すみません。動いたので」

「動くんだよ、自分でも」


 もう片方へ顔を向けると、今度はちゃんと、真面目な顔で拭いてくれる。

 それが余計に落ち着かない。


「上から来るとは思いませんでした」

「下は糸だらけだったからな」

「はい。……腕を止める役を任せてもらえて、よかったです」


 布が耳を離れる。

 俺は髪を直し、彼女の刀へ目を向ける。


「助かった。あそこで手を引いたら、たぶん抜けなかった」


 澪はうなずいて、布を畳む。

 頭の上へ戻りかけた彼女の手が、途中で止まる。


「何だ」

「いえ」

「……砂が残ってるなら、取ってくれ」


 指先が一度だけ、耳の間を撫でていく。

 砂を取る動きにしては、ずいぶんゆっくりだった。


 灯子さんが電話を切る。


「取水場の管にも動きはなし。管理の人には、門を閉めたままにしてもらうね」

「東は?」

「代わりの守り札を運んでいるところ。納めるまでは、見張りを続けるって」


 ようやく、息が深く入る。

 盗まれた札を取り返して、逃げ道を塞いで、糸の元を止めた。

 朝から引きずっていた仕事が、ここで一つ区切れる。


 灯子さんは崩れた板を撮影し、足場に残った糸巻きを裏返す。

 底には白い荷札が一枚、錆びた釘で留めてある。


「これ、読める?」


 差し出された写真を拡大する。

 水でにじんだ文字の中に、店の名前と日付が残っていた。


「北町古道具市……先週の日曜だ」


 町外れの広場で月に一度開かれる市だ。灯子さんの車で、買った棚の運搬を頼まれたことがある。

 ただの古い糸巻きが、そこで売られたのか。

 売られた時点で、もうこうなっていたのか。


 俺は荷札の写真をもう一枚撮る。


「主催の連絡先、店にあります。出した店を聞ける」

「うん。持ち帰って調べよう」


 灯子さんは荷札を無理に剝がさず、糸巻きごと袋へ入れる。

 誰かが仕込んだのかどうかも、まだ分からない。それでも、水路の中を手当たり次第に探すより、確かな聞き先ができた。


 立ち上がろうとすると、澪が手を出してくれる。

 俺はその手を借り、足場から通路へ戻る。


「帰ったら、今日は終わりにしましょう」

「写真を送るくらいはする」

「送ったら、終わりです」


 階段の上から灯子さんまでうなずく。


「上着も預かるよ。裂けたところ、今夜のうちに直しておく」

「また手間かけます」

「仕事着が働いた証拠。律も、よく働いたね」


 まっすぐ褒められると、どうも返事が遅れる。

 澪の手を放し、工具袋を肩へ掛け直す。


「……じゃあ、夕飯の買い出しは俺が」

「休む仕事も引き受けて」


 先に階段を上がる灯子さんの声が弾む。

 隣で澪まで笑っている。


 俺は言い返すのをやめ、二人と一緒に明るい外へ出る。

 車に着いたら、まず店へ写真を送ろう。


 それが終わったあとの席は、自分から後部座席を選ぶつもりだ。

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