第14話 今度は、俺が倒す
東の水門を出たのは、襲撃から一時間ほど後だった。
応援の討伐師二人が見張りを引き受け、灯子さんは管理人から受け取った水路図を車のボンネットへ広げる。
俺の指のしびれは薄れていた。物をつまめるし、握っても痛みはない。ただ、さっきみたいな力比べを続けるのは、やめておく。
そのつもりで、図の黒い線を追う。
外套が消えた暗渠は、途中で二つに分かれている。
片方は北の旧取水場。もう片方は、その手前の点検用の通路へ。
取水場へ向かうには、どちらを通っても一度、地上の水受けを横切る。
「ここで待てます」
「先回りするの?」
灯子さんへうなずく。
「水の中は追わない。あいつが出てくる場所へ行く。取水場を壊される前に」
澪が図へ指を置いた。
「北の守りを見ている人には、正面の入口に残ってもらっています。裏の水受けには、まだ誰もいません」
「じゃあ、俺たちが裏を押さえる」
自分で言ってから、工具袋の中を見る。
折れた棒と砕けたくさびは、もう使えない。持っているのは札と、小さな道具ばかりだ。
それでも、脚は動く。
音も聞こえる。
何ができないかを確かめるだけで、一日を終えたくなかった。
灯子さんは図を畳み、俺の上着の裂け目を一度見る。
「近づくなら、相手の刃を受けないこと」
「はい」
「走る先は、澪ちゃんにも知らせて」
「分かってます」
澪が隣で、刀の袋を肩へ掛ける。
「私も、佐倉さんに合わせます」
その一言で、背中に入っていた力が少し抜ける。
今日は彼女が作った隙間へ入るだけじゃない。
俺が作った道を、彼女にも使ってもらう。
*
旧取水場の裏には、膝より浅い水受けがある。
南側の点検階段を下りると、正面の北側に古い排水管が二つ。右はコンクリート壁、左には水受けから取水場の建物へ入る通用口がある。
入口を守る討伐師は、建物の向こう側だ。
灯子さんは階段の上で連絡を取り、俺と澪は乾いた縁へ下りる。
排水管から流れる水は細い。川そのものと違い、底も足場も見通せる。
右の管から、金属を引く音がする。
「来る。右だ」
澪が刀を抜く。
俺はその横から、縁に落ちていた小石を拾う。
黒い水が管の口で膨らみ、布の形へ変わる。
まず木札を握った袖。続いて肩、頭、裾。東の水門にいた外套が、浅い水の上で立ち上がる。
その後ろから、二つの鉄の輪が転がり出た。
車輪だ。
縁には短い針金がびっしり生え、軸の穴から黒い水を垂らしている。一つは正面の俺たちへ、もう一つは左の通用口へ。
外套の襟で、鈴が鳴りかける。
俺は小石を投げた。
鈴に当たる。
音が潰れ、二つの車輪が一瞬、向きを迷う。
「左を止めて!」
澪が通用口へ走る。
俺は正面の車輪へ踏み込む。相手が回転を速めるより先に、横から蹴る。
靴底が鉄の縁を打つ。
車輪が傾き、針金を石へ擦りつけながら右へ転がる。その先は壁だ。ぶつかって跳ね返る前に、俺はその軸へ札を叩きつけた。
回転が鈍る。
倒れた車輪を追わず、顔を上げる。
鎖を振り上げた外套が、すぐ前へ来ている。
靴の下へ落ちる影。
鉤が真上から下りてくる。
右へかわす。壁に片足をつき、地面をもう一度蹴る代わりに、そこから身体を押し上げる。
思ったより高い。
だが、目は離さない。
外套の肩を蹴り、水へ落とす。
ここまでが、最初の一呼吸だった。
*
起き上がった外套が、鎖を横へ払う。
俺は膝を折って下へ潜り、そのまま距離を詰める。飛んでくる鉤ばかり見ていたら、いつまでも近づけない。
鎖を振る袖。
その内側へ。
木札を持つ左袖に手が届く。
掴んで引くと、布の中から冷たい水が指へ絡む。力は俺より強い。握った札を引き抜こうとしても、袖は少し伸びるだけだ。
右の袖が戻ってくる。
鎖を短く持ち替え、鉤の先を俺の背中へ。
俺は掴んだ布を放し、左の通用口側へ跳ぶ。
耳の脇を鉤が通る。すぐ後ろに澪がいて、刀でその先端を横へ弾いた。
「左の車輪は祓いました。右は?」
「札で止めてる」
「分かりました」
澪が俺の隣から前へ出る。
外套が一歩退き、襟の鈴を鳴らす。
壁際で、札の紙が裂ける。
止めていた車輪が立ち上がり、俺たちの右へ転がってくる。
澪がそちらへ刀を向ける。
その動きを見て、外套は左の通用口へ進む。
東と同じだ。
道具に足を止めさせて、自分だけ仕事を済ませる。
今度は、行かせない。
「俺が外套。車輪を頼む!」
澪の返事を聞きながら、敵と通用口の間へ走る。
鉤が俺の胸へ真っすぐ伸びるが、足を止めずに半歩ずれる。軌道の横を抜けると、外套の袖にぶつかるほど近づいた。
腕を掴まない。
押し返そうともしない。
左袖の縫い目へ、指を引っかける。
布が裂ける感触と一緒に、指先が熱くなる。
黒い筋が、爪の先へ伸びていた。
長さは、指先からほんの数センチ。
湾曲した黒い爪。布を押しているはずの手が、その中の冷たいものまで捉えている。
引ける。
俺は左足を踏み込み、肘を後ろへ引く。
爪に絡んだ黒い筋が切れ、木札を握る袖が、肩からちぎれて落ちる。
水が弾ける。
外套が初めて、俺から大きく退いた。
足元に、奪われた札がある。
息が止まりかける。
だが、そっちを見るのは一瞬で十分だ。
敵はまだ、立っている。
*
外套が鉤を振る。
逃げるための大きな横払い。俺は一歩引き、先端が通り過ぎるのを待つ。
左手の爪は、もう短くなり始めている。
右手を握っても、何も起こらない。
さっきは、布の中の水を掴もうとした。
人間の指では抜けてしまう、あの筋を。
鉤が外套の右へ戻る。
次の振りまで、わずかな間。
俺は、右手を開く。
目の前にある鎖ではなく、その奥で袖を動かしている黒い水を見る。
触って、引き裂く。
指先に熱が走る。
今度は自分で伸ばした爪が、右袖の内側へ入る。
黒い筋が切れる。
鎖を持つ袖が垂れ、鉤が石へ落ちる。
外套が後ろへ崩れる。
顔の布がめくれ、その奥に人の顔がないことが見えた。水で縛られた、小さな木の人形。胸には真鍮の札が埋め込まれ、そこから細い筋が全身へ伸びている。
芯は、そこだ。
「佐倉さん、顔の奥!」
右の車輪を斬った澪の声が届く。
俺はうなずかず、そのまま踏み込む。
外套が水へ沈もうとする。
残った裾が俺の足へ巻きつく。
持ち上がらない。
一瞬、靴が水に縫いつけられたようになる。
跳んで逃げたら、また逃がす。
腰を落とす。
足へ絡む裾を左手で引き裂き、空いた右手を人形の胸へ突き込む。
爪が真鍮を擦る。
金属は切れない。
その周りへ指を入れる。
札を人形へつないでいる黒い筋が、爪の間で震える。さっき、袖の中で切れたのと同じものだ。
俺はそれを掴み、引いた。
人形の胸から、真鍮の札が抜ける。
全身の水がほどけ、外套がただの濡れた布になって落ちる。襟の鈴が一度だけ地面へ当たり、その音も途切れた。
水受けに、もう動くものはいない。
俺は札を握ったまま、息を吐く。
爪が指先へ引っ込んでいく。その手を開いても、さっきまでの黒い筋は残らない。
澪が駆け寄る。
「佐倉さん」
「……止まった?」
「はい。止まりました」
彼女は刀を下げ、俺の足元と人形を確かめる。
それから、まっすぐ俺を見る。
「佐倉さんが、倒しました」
頭の上で、耳が立つ。
隠そうとする暇もなく、しっぽまで上がってしまう。
「見てただろ。確認、要らない」
「はい。見ていました」
澪が笑う。
俺は顔をそらし、落ちた木札を拾いに行こうとして、膝から力が抜けた。
「おっと」
片膝をつく前に、澪の手が背中を支える。
疲れは一気に来る。走っていた間は気にならなかった脚まで、今になって重い。
「そこまで見なくていい」
「そこも、見ます」
笑ったまま言われ、俺も今度は言い返せなかった。
*
灯子さんが階段を下りてくる。
北の守りを見ている人から、通用口には何も入ってこなかったと連絡があったという。
澪が立ったまま見張り、俺は乾いた縁へ座る。
灯子さんはまず奪われた木札を拾い、次に真鍮の札と人形を別の容器へ収めた。
「取り返したんですね」
「うん。北の守りも残ってる」
取り返しても、東の札はそのまま納め直せない。
黒い水で汚された封じを調べ、納め直すのは朝霧家に任せる。
だが、敵に持たせたままではなくなった。
灯子さんが俺の隣へしゃがみ、指先を見る。
「爪、まだ出せる?」
「今は、出そうとしても出ないです」
手を開く。
傷はない。鋏のときのしびれとは違って、両腕の奥が重い。
「普通の金属は切れなかった。でも、あいつを動かしてる水の筋には、引っかかった」
「触れて、切り離せたんだね」
灯子さんは俺の言葉を手帳へ書く。
自分の手に何が起きたかは、まだ分からない。けれど、何を狙えば使えたかは覚えている。
戻ってきた澪が、冷たい飲み物を渡してくれる。
俺が礼を言って口をつけると、彼女は隣へ腰を下ろした。
「かっこよかったです」
「……今の姿で?」
「姿の話は、していません」
真正面から言われると、顔が熱い。
梢みたいにからかってくれたほうが、まだ返しやすい。
「でも、しっぽは、すごく上がっていました」
「それは忘れろ」
「無理です」
灯子さんが笑う。
俺は容器のふたを見つめて、飲み物をもう一口飲む。
木の人形は、掌ほどの大きさだ。
人間を倒したのではなく、これを動かしていた力を切った。その事実に、遅れて肩の力が抜ける。
ただ、人形の背には細い穴があり、切れた黒い糸のようなものが残っていた。
袖を動かしていた筋よりも細い。外套の裾から伸びて、右の排水管の中へ続いている。
「灯子さん。それ、人形の中だけで終わってないです」
俺が示すと、彼女は立って糸の先を確認する。
澪もすぐに腰を上げる。
「まだ動いてますか」
「音はしない。切れたまま。でも、こっちから入ってきてる」
外套は、鋏や車輪を操っていた。
その外套まで、別の場所から動かされていたのかもしれない。
灯子さんが水路図を開く。
俺は右の管を指し、図の分岐をたどる。
取水場の裏へ流れ込む古い管。
その手前に、一つだけ建物の印がある。
「旧沈砂池。砂とごみを沈めて、水だけ先へ送る場所です。今は使ってないけど、点検口は残ってる」
澪が図をのぞく。
「では、そこを」
「先に閉じよう。川へ出る口と、東へ戻る口」
俺は図の二か所を指す。
追いかけるだけなら、また違う水路へ逃げられる。今度は出口を減らしてから、相手のいる場所へ入る。
灯子さんが電話を取る。
「管理先に確認する。人が入っていないことと、どの門を閉められるか。朝霧さんたちにも、見張りの位置を変えてもらおう」
俺は容器の中の木札へ目を戻す。
失ったものは、一つ取り返した。
北の守りも、奪わせなかった。
次に行く場所は、敵が教えてくれた。
「その前に、休んでください」
立とうとした俺の肩へ、澪の手が載る。
今度は反抗せず、縁へ座り直した。
「分かった。……次も、一緒に来てくれ」
「はい」
彼女の返事は早い。
俺は右手を開き、そこにもうない爪の長さを思い出す。
あいつの芯へ届いた感触は、まだ残っている。




