第13話 守れたもの、奪われたもの
木の棒が、俺の目の前で二つに切れる。
刃と刃が擦れ合う音。握った側だけが手に残り、もう半分は川岸の石へ落ちる。
考えるより先に腰を引くと、大きな鋏が胸元をかすめた。灰色の上着の前に浅い裂け目が走る。
「律、右へ!」
灯子さんの声に、右のコンクリート壁へ寄る。
空いた場所へ澪が踏み込み、鋏の片刃を刀で打ち上げる。俺はその後ろへ下がり、背中で階段の最下段を確かめた。
ここから上がれば、堤防の道へ戻れる。
だが、澪の前にはまだ敵がいる。
古い植木鋏に、濡れた針金が何重にも巻きついている。長さは俺の腕ほど。二本の柄は石を蹴る脚になり、開いた刃が人の膝から腹の高さまでを狙ってくる。
中心のねじだけが、黒く濡れていた。
「身体は?」
「切れてない。上着だけ」
刀を構え直す澪に答え、折れた棒を足元へ置く。
川の異変を探しに来たのではない。
すでに始まっている襲撃を止めるため、俺たちはここへ呼ばれた。
*
二十分前まで、俺は店の裏庭で、横へ跳ぶ練習をしていた。
澪が地面に引いた二つの四角。その片方からもう片方へ移り、外へはみ出さずに止まる。
昨日、梢たちと昼飯を食べたときには、練習を先にしたいと言えた。
それを覚えていてくれた澪が、今朝、時間を空けて来てくれたのだ。
三回目に両足が四角へ収まったところで、店の電話が鳴る。
灯子さんは受話器を置くと、湯を沸かしかけていた手を止めた。
「東堤の水門。点検に入った人が、怪異に襲われてる」
澪もすぐに刀の袋を取る。
俺は工具袋を肩へ掛け、灯子さんについて車へ向かった。
水門には、昔から川守りの札が納められている。
門扉を動かす設備とは別に、岸の小さな木箱に入れてあるものだ。川の水そのものを止める札ではない。水路を伝って流れ込む怪異を、その場所で足止めするための守り。
それを定期的に点検し、古くなれば納め直すのも、町の討伐師たちの仕事だった。
俺が前にここへ来たのは、守り箱の雨よけを取り替えたときだ。
札を扱うのは澪の家の人で、俺は木の傷みを見て、灯子さんが作業の連絡をまとめた。
普通の清掃係には、箱を開けないよう伝えてある。
今日もその人は、木箱の周りに溜まった枝をどけるだけのはずだった。
「川の怪異が増えてから、点検を早めたんです」
車の後部座席で澪が言う。
「昨日までは、ここの守りに異常はありませんでした」
「じゃあ、今日は誰かが?」
「まだ分かりません。ただ、あそこには人がいます」
灯子さんのスマホがもう一度鳴る。
信号で止まってから受けた彼女が、短く場所を答え、通話を切る。
「篠宮さんのほうも。西の水門で、守り箱に濡れた物が寄ってきてるって」
同じ朝に、川の両側。
助手席から振り向くと、澪は俺と目を合わせたまま、刀の袋の口を開く。
「西側へ援護を回すと、ここが空きます」
「だから、両方か」
ただ流れ着いた物が、たまたま人の近くで動き出していた。
これまでは、そう考えていた。
もし、近づきたい場所を選んでいたのなら。
俺は窓の外へ目を戻す。
車はもう、東堤の道へ入っていた。
*
堤防から下りる階段の先に、横長の作業床がある。
階段を下りた向きで、左が川、右が護岸の壁。正面の奥に水門の鉄扉があり、その右隣に守り箱が取りつけられている。
岸から離れず戻れる道は、背後の階段だけだ。
作業床は、向こうまで十数歩。
奥で、作業着の男性が腰を落としている。右足を押さえ、立ち上がれない様子だ。
その手前に、さっきの鋏。
さらに奥、水門の前には、黒い外套を着た何かが立っている。
人と同じ高さ。裾は足元の水へ溶け込み、顔のあるはずの場所には、垂れた布しか見えない。
片方の袖から細い鎖が伸び、その先に小さな鈴。もう片方の袖は、守り箱の蓋へ触れている。
触れるたび、袖から白い煙が上がる。いったん引き、また押しつける。守りはまだ働いているが、外套は傷む布を気にせず、同じことを繰り返している。
俺たちが下りても、そいつはこちらを向かなかった。
鈴を、一度鳴らす。
鋏が跳ねる。
動けない男性の前へ割って入ろうとして棒を出し、それを切られたのが、さっきだ。
今は澪が鋏の正面、俺はその後ろの階段側。
灯子さんは最下段にとどまり、男性へ声をかける。
「こちらへ来られますか。壁に沿って」
「足が……引かれて、ひねって」
男性が片手で壁をつかむ。
鋏がすぐに向きを変える。澪へ開いていた刃が、男性のほうへ。
「向こうを見るな!」
澪が刀の峰で柄を打つ。
鋏が横へずれ、男性との間に彼女の身体が入る。だが、刃を切り落とすところまではいかない。ねじの周りを、巻かれた針金が厚く覆っている。
黒い外套の鈴が鳴る。
鋏は澪へ跳びかかり、二枚の刃で刀を挟む。
澪が刀を引く。針金の脚が石を踏ん張り、彼女の腕を前へ引こうとする。
刀をひねって外した途端、今度は閉じた刃先が、槍のように腹へ伸びる。
澪が半歩引く。
鋏も、その分だけ進む。
俺は工具袋の口を開けながら、奥の外套を見る。
鋏が刃を開く前には、必ず鈴が鳴る。その音のあとに柄が動き、足元が向き直る。
外套は戦いを見ているのではない。守り箱へ触れたまま、こっちを動かしている。
「澪、鈴が合図だ。あいつが鋏を使ってる」
「なら、奥を止めます」
澪が横へ踏み出そうとすると、また鈴。
鋏の柄が広がり、刀の届く距離をふさぐ。
男性の手が、壁から滑る。
膝が地面へつき、短い声が漏れる。
鋏を抜けて外套へ行けば、ここを守る人がいなくなる。
「先に、こっちだ。人を出そう」
「……はい」
澪は正面へ戻る。
俺は灯子さんに目を向け、男性との間の壁際を指す。
「俺が迎えに行きます。灯子さんは階段で受けてください」
「律、刃の横を通るのよ。澪ちゃんが正面へ向けている間に」
何でも切れる鋏でも、二枚の刃の間に入らなければ挟まれない。
右の壁沿いを進むには、その口を左へ向けてもらう必要がある。
「澪、川側へ寄せられるか」
「三歩だけ。先へ出すぎないでください」
刀を振って誘う澪に、鋏がついていく。
彼女は川へ背を向けず、階段側を向いたまま、作業床の左寄りへ移る。右の壁際が空いたところで、俺は腰を落として走る。
男性まで、四歩。
顔を上げた彼が、俺の耳を見る。
「便利屋です。腕、肩へ回せますか」
「あ、はい」
返事を待ちながら左腕を背中へ入れる。
立ってもらうと、思っていたより重い。以前なら身体ごと支えられた相手の肩が、今は俺の頭より上にある。
持ち上げるのは、無理だ。
「壁へ手をついて。痛くない足で、少しずつ」
男性の右手を壁へ戻す。
俺は左側から腰を支え、彼が左足を出すのに合わせて一緒に動く。しっぽが壁へ挟まらないよう、背中を少し斜めにする。
鈴が鳴る。
鋏が、こちらへ向き直る。
「まだ、こっちです!」
澪の刀がねじへ向かう。
芯を守ろうと刃が閉じ、刀を受ける音が背後に響く。男性の歩みが止まりかけたので、俺は顔を上げて首を振る。
「大丈夫。止まらずに」
「でも」
「彼女に任せてください」
自分にも聞かせるように言う。
一歩進むたび、刀と鋏の音が遠ざかる。階段まで戻ると、灯子さんが男性の右腕を受け取り、いちばん下の段へ腰を下ろさせた。
「上で手当てします。律、ここから離れないで」
彼女が男性の顔を見て話す。
俺はうなずき、澪へ振り返る。
鋏の脚が、彼女の踏み出す足を狙って低く伸びる。
澪が避けて壁側へ戻る。その脇で、守り箱の蓋が割れた。
*
木片が石へ落ちる。
黒い外套が、箱の中から細長い木札を抜き出している。
「待て!」
俺が呼んでも、布の顔は動かない。
袖に挟まれた札から、白い紙片が剝がれる。その下に刻まれた文字へ、黒い水が染み込んでいく。
灯子さんが息をのむ。
「納め直すまで、ここの守りが使えない」
木札は、紙を貼るだけの台ではないらしい。
今は説明を聞く時間がない。外套はもう水門の左端、川に接した縁へ動き始めている。
鈴が続けて二度鳴る。
鋏が、俺と男性のほうへ向く。
澪は鋏の奥側、壁寄りにいる。ここへ戻るより、鋏が跳ぶほうが速い。
刃を開いた怪異が、階段へ向けて脚を縮める。
俺は工具袋から、木のくさびを抜く。
寺の戸棚を開いたままにした道具だ。片手に一本ずつ。
ねじを祓える刀は、澪が持っている。
俺がやるのは、その刀が届く一瞬を作ること。
「こっちへ来い!」
男性の前へ出る。
澪もこちらへ走り始めるが、その刀を待たず、鋏が低く跳びかかってくる。
刃は、開いている。
次に閉じれば、脚を挟まれる。
右の壁側へ跳ぶ。
両足を狭い場所へ収め、膝を曲げる。今朝、白い線の内側へ止まったときと同じように。
すぐ左で、鋏の先が空を切る。
右手のくさびを、二枚の刃の根元へ差し込む。掴もうとするな。開いている隙間へ、押し込むだけ。
刃が閉じる。
くさびが鳴り、先端の木が砕ける。
まだ止まらない。
左手の一本を、最初のくさびの横へ押し重ねる。
両腕に返ってくる力で、肩が壁へぶつかる。刃を支えるのは俺の手ではなく、間へ残った二本の木だ。それでも、握っていた指がしびれる。
澪が俺の左へ来る。
刀の切っ先は、ねじへ向いている。だが、針金がその前を覆う。
「そのままでは、入らない!」
澪の声。
俺は手を引き、鋏の脚を見る。閉じきれない刃を無理に動かそうとして、針金がねじの周りへ集まっている。
ただ固いだけじゃない。
芯を守るために、動くものだ。
空いた手で札を抜き、足元を踏ん張っている針金の束へ押しつける。
札を貼られた束の動きが鈍り、片方の脚が床へ落ちる。
怪異が傾き、残る脚を伸ばして姿勢を立て直す。その動きでねじを覆っていた針金が下へ引かれ、丸い頭が指二本分ほどのぞく。
「今、ねじ!」
澪が刀を下から差し上げる。
刃先が露出した中心へ入り、彼女が柄を返すと、黒い水が俺の袖へ散る。
閉じようとしていた力が消えた。
鋏は二本のくさびを挟んだまま倒れ、針金が地面へほどけていく。
俺は壁へついた背中を離し、奥を見る。
黒い外套は、水門の縁へ下りかけている。
盗んだ木札が、袖から見える。
「澪、あっち!」
彼女が刀を抜き、奥へ走る。
俺も続こうと足を出したとき、黒い外套が鈴を石へ打ちつける。
音は鳴らない。
割れた鈴から、黒い水が噴き出す。
作業床の奥が、薄い泥の膜で覆われていく。
澪が踏み込む直前に止まり、刀を突き出す。しかし、届くところにはもう裾しかない。
布が水面へ崩れる。
木札も、その下へ引き込まれていく。
「追わないで!」
灯子さんの声に、俺も足を止める。
川は足のつかない深さだ。黒い筋が水中を走り、水門の手前の暗渠へ吸い込まれる。
澪は縁まで近づかず、濡れた石を見つめる。
俺はその隣で、握りしめていた札のケースを緩めた。
人は助けた。
鋏も止めた。
守りの札は、持っていかれた。
*
灯子さんが応援に場所を伝え、男性を階段の上へ誘導する。
救急の車が着くまで、俺たちは作業床を見張る。黒い水へ触れないよう泥の広がった範囲を示し、戻ってきた灯子さんにねじと鈴の破片を別々に収めてもらう。
男性は手当てを受け、俺たちへ頭を下げた。
無事に病院へ向かう車を見送っても、澪の肩は下りない。
「奥へ行こうとして、鋏を回り込めませんでした」
「行ってたら、あの人がまた襲われた」
俺が言うと、澪は刀を拭く手を止める。
「でも、守りは」
「取り戻す。あの人を助けたのも、間違いにはしない」
声にしてから、自分の手がまだ震えていると分かる。
刀を持っていない俺の指を、澪がそっと見る。
「手、見せてください」
「しびれてるだけ」
「だけ、じゃないです」
腕を差し出すと、握ったり開いたりできるか確認される。切れていないと分かって、彼女はようやく小さく息を吐く。
「止まれていました。さっき」
「朝、教わったから」
「……私も、戻ってきてもらえてよかったです」
礼を言われるより、そちらのほうが胸へ来る。
俺は目をそらし、しっぽの泥を指で払う。耳が上がっているのを澪に見られた気がしたが、彼女は何も言わなかった。
灯子さんのスマホから、梢の声がする。
『西は守れました。寄ってきたのは二体。どっちも同じ黒い水です。こちらの守り札は残っています』
灯子さんが東の状況を伝える。
外套と鈴、盗まれた木札。梢は途中で口を挟まず、最後まで聞く。
『じゃあ、川を流れてきた物を回収するだけじゃ足りないですね』
「そう。誰かが、守りを狙ってる」
灯子さんは俺と澪を見てから、電話へ続ける。
「ここの代わりの札は、朝霧さんの家に頼む。納めるまでは、こちらに見張りを置きたい」
『私もそっちへ回れます』
「西は空けないで。両方を襲ったなら、こちらへ集めるのが狙いかもしれない」
澪が自分の電話で家へ連絡する。
灯子さんは現場の管理先へ、暗渠の点検口を開けられる人と、水路図を頼む。
別々の仕事が、同じ場所へつながっていく。
俺は工具袋からノートを出し、川岸の形を描いた。
黒い筋が消えた穴は、雨水の出口ではない。以前、清掃に来たとき、上流の旧水路につながると聞いている。
「灯子さん。ここ、河原のほうへ逃げたんじゃないです」
「分かる?」
「水路図で確認したいです。この先は、北へ曲がってるはずなので」
澪が通話を終え、俺の図を見る。
「北の水路には、もう一つ守りがあります。今は使われていない取水場の前です」
「そこにも連絡を」
「します。代わりの札は、夕方までに持ってきてもらえます」
それまでは、ここを空けられない。
けれど、敵が次の守りへ向かうなら、待っているだけでもいられない。
灯子さんが手帳を開く。
「現場を守る人と、追う人を分けよう。律、道と点検口の確認を頼める?」
「はい。刃物に棒を出すのは、もうやめます」
「それも大事だけど、今日は手を休めて。図なら、指で示してくれれば私が書く」
俺はノートを渡し、川の曲がる先を指す。
昨日は四人で写真を撮って、次も来ていいと話した。
あの机へ全員で戻るには、ここから先の仕事を終わらせる必要がある。
鋏を倒した場所に、二本の砕けたくさびが残っている。
使えなくなった道具を袋へ収め、奪われた木札が消えた穴をもう一度見る。
次は、流れ着くのを待たない。
俺たちから、行き先を押さえる。




