第18話 開ける扉は、俺が選ぶ
「今朝、点検の予定は入っていません」
電話の向こうで紙をめくる音がする。
俺は工房の戸口へ腰を下ろし、端末を左手で持ち直す。右腕は膝へ預けたままだ。
「鍵を出した記録も、ありませんね。何かありましたか」
「橋の下に、怪異がいる可能性があります。管理扉の外まで確認をお願いできますか。中へは入らずに」
事情を伝えると、担当の人の声が引き締まる。
近くにいる職員へ連絡し、鍵と図面も持って来てくれるという。
電話を切ったところで、澪が隣へしゃがむ。
「橋の岸側に着いた人から、連絡がありました。扉は閉じています。ただ、奥で金属を引く音がするそうです」
「外から開けたんじゃないのか」
閉まった扉の中で、誰かが仕事をしている。
俺は工房に残る設備図へ目を戻す。
矢印の先は、橋の上でも、岸辺でもない。真ん中の橋脚だ。
灯子さんが母屋から戻ってくる。
持ち主と一緒に確かめた予備の鍵は、玄関の掛け釘にあったという。
「使われたかどうかは分からない。手伝った四人の名前と連絡先も預かったから、聞いていくよ。今は、橋を先に見よう」
工房は持ち主の了承を得て戸を閉め、立ち入らず待ってもらう。
榎本さんの店では、到着した討伐師が残りの品を一つずつ確認していると連絡があった。今のところ、次に動いた物はない。
俺は立ち上がり、澪から工具袋を受け取ろうとする。
彼女は肩ひもを握ったまま、俺の右手を見る。
「今日は、もう二回使っています」
「分かってる。次は、こっちを使う」
左手で袋の口を開け、工具の柄を見せる。
澪はそれを見てから、肩ひもを短く整えて渡してくれた。
「重いときは言ってください」
「ああ。必要なときも、頼む」
彼女がうなずく。
その返事を聞いて、俺は灯子さんの車へ向かう。
*
橋の西岸の階段を下りると、梢が弓を背に、通路の手前で待っていた。
川は南へ流れ、橋は東西に架かっている。橋桁の下、岸から中央の橋脚へ続く細い点検通路が見える。
その入口を、金網の管理扉が塞いでいた。
「佐倉さん。差し入れ、食べました?」
「食った。うまかった。……今、聞くのか」
「顔を見たら、聞きたくなって」
梢の目が、俺の耳から工具袋へ移る。
「でも、右手はまだ重そうですね」
「見ただけで分かる?」
「袋を持ち替えなかったので。いつもは右ですよね」
からかう調子のまま、よく見ている。
俺は袋を左の腰へ寄せ、扉の向こうへ耳を向ける。
がん、と鉄が鳴る。
少し間を置いて、もう一度。
橋の上を走る車の音とは違う。何かを締め上げ、そのたびに硬い物が引っかかっている。
管理の職員が二人、階段を下りてくる。
一人が岸辺へ図面を広げ、もう一人が扉の鍵を確認する。壊された跡はなく、錠は掛かったままだった。
「通路の先には、何があるんですか」
俺が聞くと、職員が橋脚の脇を指す。
「古い取水用の空洞です。今は使っていません。点検通路はその入口の床までで、中へ入る設備じゃありません」
「水路へ、つながっていますか」
「昔は。今は奥を塞いであります。それとは別に……こちらの確認も必要だと」
図面に重ねられた引き継ぎの紙を、灯子さんが読む。
橋脚の空洞の奥に、黒い水を吐く怪異を封じた石蓋がある。水路を廃止するときにも、その蓋と封じは残された。
設備の点検は管理の人が、封じの確認は川を担当する討伐師が行う、と書かれている。
「知っています。家にも記録があります」
澪の声が低くなる。
「川守りで流れを抑え、その内側の封じを保つ。ここが、守りを置く理由の一つです」
俺は工房の図を開く。
三つの守りから、橋脚へ集まる矢印。
「札を盗んだのは、ここの蓋を開けるためか」
「その可能性が高いです。東は戻りましたが、弱った間に近づかれていたなら……」
また、鉄が鳴る。
今度は、続けて二度。
職員の一人が、管理扉を開ける。
その先へは進まず岸へ下がり、もう一人と一緒に遊歩道の立ち入りを止めに向かう。灯子さんは扉の内側へ立ち、担当者へ状況を送る。
東西北の守りは動かさず、橋の封じを扱える人を呼ぶ。
俺は通路の先を見る。
左の北側には手すり、その下を川が流れる。右の南側には橋の構造材が並び、通路を越えて身をかわす余地はない。
正面の橋脚の手前だけが、少し広い作業床になっている。
その床で、黒いものが動いていた。
*
濡れた角材を組んだ、四つ脚の台。
その上へ手回しの巻き上げ機が載り、二本の柄がひとりでに回っている。
巻き取られる鎖の先は、橋脚の空洞へ消えていた。
左には、首のない人形が一体。
膝ほどの背丈で、右腕の先に尖った鉄棒をつけている。胸の真鍮札から黒い筋が脚へ延び、俺たちが通路へ入ると、床を蹴って立ち上がる。
奥で、鎖が張る。
低い位置にある石の蓋が、わずかに手前へずれた。
継ぎ目から染み出す黒い水が、床へ一滴落ちる。
「引きはがしてる!」
俺が走り出すと、人形の鉄棒が正面へ向く。
狭い通路を突っ込んでくる。頭へ向かう先端を避けようと腰を落としたところへ、棒が下がる。
避ける場所を、追ってくる。
後ろから弦の音がした。
俺の肩の上を梢の矢が抜け、人形の鉄棒を横から打つ。先端が左の手すりへぶつかった隙に、俺は右足を前へ差し出す。
人形の膝を蹴り払う。
板の脚が前後に開き、身体が通路へ倒れる。跳び越えようとした俺の前で、鉄棒の腕が起き上がった。
「そのまま、前へ!」
すぐ後ろまで来た澪が刀を差し入れ、鉄棒を手すり側へ押さえる。
俺は人形の背を越え、作業床へ走る。
澪の刀が胸の札へ入る音が、背後に響いた。
巻き上げ機の柄が回る。
俺は四つ脚の台の左へ回り込み、工具袋から札を抜く。黒い筋の集まる角材へ貼ると、柄の動きが一拍鈍った。
止まらない。
札の端が濡れ、少しずつ浮いてくる。
右手を開く。
指先に熱を呼ぼうとしても、重い腕の奥で感覚がぼやける。爪は、出ない。
なら、予定どおりだ。
俺は台から離れ、鎖の行き先を見る。
空洞の入口は人の腰より少し高いくらいで、奥の石蓋まで、外から光が届く。蓋を横切る鉄の帯へ鎖の鉤が掛かり、その帯ごと引き剝がそうとしていた。
石の奥で、何かが水を吸う音がする。
開いたら、川へ落ちる。
それを追って水の中へ入れる者は、ここにはいない。
「澪、巻くほうを止めてくれ! 俺は鉤を外す!」
人形を祓った澪が、作業床の右へ入る。
刀を振る前に、巻き上げ機から二本の柄が跳ね上がった。彼女が半歩退くと、柄は床を打ち、また回る位置へ戻っていく。
回すだけの物じゃない。
近づく人間を払えるようにしてある。
俺は空洞の口へ近づき、鎖へ触れないよう横から鉤を見る。
外れ止めのある、普通の荷役用の鉤だ。
だが、いっぱいに引かれている。留め具を開けても、鉄帯から抜ける隙間がない。
「一度、緩めたい! 巻くのを止めて、少し戻せれば!」
澪の刀が柄を受け流す。
黒い筋を斬りに行くには、台の下へ潜らないと届かない。もう一度札を貼り直す時間も惜しい。
俺は巻き上げ機の側面を見る。
歯車の脇で、小さな爪形の金具が動いている。一歯進むたび落ち込み、巻いた鎖が戻るのを止めている。
あれを上げれば戻る。
だが、いきなり解放したら、柄が逆に振り回される。
「梢! 柄にベルトを掛けて、引けるか!」
通路から弓を下げた彼女が、作業床へ入る。
俺は工具袋の短い荷締めベルトを、床へ滑らせる。
「柄に輪を掛けて、鎖が緩むほうへ! 澪、反対を押して!」
梢が左側から近づき、振り下ろされた柄の根元へ輪を投げ入れる。締まったベルトを両手で引くと、回ろうとする柄が止まった。
右側では澪が刀を収め、もう一方の柄を下から押し上げる。
二人が回転を止めたところで、俺は側面へ寄る。
左手の工具を爪形の金具の下へ差し込み、支点を作って持ち上げる。
「戻して!」
梢が引き、澪が押す。
歯車が逆へ動き、鎖がたるむ。
俺は工具を抜いて金具を落とす。
次の歯で機械が止まる。その隙に空洞の口へ戻り、鉤の外れ止めを押して鉄帯から抜く。
外れた。
鎖を床へ落とすと、巻き上げ機が暴れ出す。
柄を放した二人が外へ跳ぶ。俺も空洞の前から伏せて離れ、頭のすぐ上を鉄の鉤が引き戻されていく。
巻き取られた鎖が、機械へぶつかる。
四つ脚の台が浮き、左へ倒れた。
裏側に、濡れた赤い木片が見える。
そこから黒い筋が、脚と機械の両方へ伸びている。
「澪、下!」
彼女が踏み込む。
跳ねた柄がこちらへ戻るより早く、刀が赤い木片を貫いた。
黒い筋が切れ、倒れた台から力が抜ける。
最後に一度、歯車が鳴る。
俺は床へ片膝をつき、空洞の口を見る。
石蓋は、少しずれたままだ。
そこから伸びる黒い水を、梢の放った矢が床へ留める。彼女は次の一本をつがえ、入口へ構える。
「こっちは見ています。蓋、戻せますか!」
灯子さんが通路を渡ってくる。
床へ広がる水を避け、石のずれと鉄帯を確かめると、俺へうなずいた。
「持ち上げず、そのまま奥へ押そう。澪ちゃん、手を貸して」
俺は入口の左へ、澪は右へ立つ。
指を隙間へ入れず、前面の鉄帯へ手のひらを当てる。右腕は使わない。左肩から体重を乗せると、澪と一緒に石がわずかに動く。
奥で、水音が強くなる。
梢の矢羽根が震える。
「もう、一度!」
息を合わせて押す。
石が受けの縁へぶつかり、黒い隙間が消えた。
灯子さんが鉄帯と周りの石へ応急の札を渡して貼る。
その端を押さえ終えるまで、俺たちは手を離さない。
足元の水が、動かなくなる。
矢の震えも、止まっていた。
*
「ここまで。あとは、封じの人に渡そう」
灯子さんの声で、ようやく石から手を離す。
俺は作業床の乾いた端へ座り、左手のひらを膝へ向ける。
赤くなってはいるが、切れてはいない。
梢が隣へしゃがむ。
「今日は、爪を使わなかったんですね」
「出なかった。けど、道具のほうは知ってたから」
「じゃあ、佐倉さんが来てよかったです」
まっすぐ言われ、俺は空洞の口へ顔を向ける。
澪は刀を収め、応急の札から水がにじまないか見ている。
「二人が回してくれなきゃ、外せなかったよ」
「はい。ちゃんと手を貸せました」
梢が笑って、俺の上着の肩へ手を置く。
そのまま頭まで上がってきそうなので、俺は先に、空いた左手を出す。
「立つほうを頼む」
「了解です」
彼女に引いてもらって立つと、横から澪が工具袋を取る。
今度は、俺も取り返さない。
灯子さんが担当者との電話を終える。
封じの補修をする討伐師が、もう岸まで来ているという。管理の人には、機械と鎖の回収まで通路を閉じてもらう。
俺は転がった人形へ目を向ける。
胸の真鍮札には、外套と糸巻きで見たものに似た刻みがある。
ここにも一枚あった。工房の写真に写った三枚だけで、全部と決めるわけにはいかない。
「これ、動かす前に写真を」
灯子さんが端末を向ける。
倒れた巻き上げ機の下には、道具を包んだらしい新しい麻袋も残っている。
泥をかぶっているが、口の折り目は乾いていた。
機械を持ち込み、鎖を掛け、川守りを襲わせた者がいる。
今日は、その仕事を途中で止められた。
「次は、これを置いたやつだな」
俺の声に、澪がうなずく。
梢は弓を背へ戻し、入口の扉を見る。
「あの鍵は、閉まったままでしたよね」
俺も通路を振り返る。
外から入ったなら、閉めて出た者がいる。
水から入ったなら、鎖も機械もここまで運べる相手だ。
「鍵の記録と、岸で何を見たか。両方、聞こう」
外した鉤が、足元で鈍く光る。
封じの蓋へ掛かっていた先端を、俺は靴で空洞から遠ざける。
開けずに済んだ扉の向こうで、水音はもう聞こえない。




