シェリル
【AI使用】文内の言い回しの変換にAIを使用しています。
あの日手放してしまったものを、もしずっと手のうちに握っていられたのなら、私はこれ程の喪失感にも焦燥感にも、さいなまれずに済んだのだろうか。そんなこともまた、「可能性」の話でしかない。
窓の外に広がる地方都市の景色は、王都のそれとは違ってひどく穏やかで、時の流れすら少しだけ遅いように感じられる。遠くに見える連峰の白雪が、夕暮れの茜色に染まっていくのを眺めながら、私――シェリルは、かつて自分がいた場所と、今いる場所の距離の遠さに思いを馳せていた。
私は昔から、要領が良いだけの中身のない子供だった。何かを成し遂げるための執念や、世界を揺るがすような天賦の才があるわけではない。魔力も平均よりちょっと多いだけ。ただ、教科書に書かれた数式や術式の法則性を人より少しだけ早く見つけ出し、それをそつなく模倣することに長けていただけだった。
周囲の大人はそんな私を見て『十歳にして神童と並ぶ天才』『名門の未来を担う輝かしい令嬢』と無責任に称賛の声を浴びせたが、私自身の心はそのたびに冷え切っていくのを感じていた。誰よりも自分自身が自覚していた。ただ、要領がいいだけの、どこにでもいる平凡な人間に過ぎないのだと。
だからこそ、私はロビンのことを心の底から尊敬し、大人の誰よりも彼のことを深く、ずっと一途に好きでいたつもりだった。
小さな頃、まだ何もできなかった私に、魔法の楽しさを教えてくれたのはロビンだった。彼は不器用で、いつも身体から溢れ出る膨大な魔力の扱いに苦労していたけれど、その瞳には決して消えない熱い炎が灯っていた。泥に塗れ、汗を流し、夜が明けるまで魔導書をめくり続ける彼の姿は、私にとってどんな大魔導師よりも格好良く、そして眩しかった。幼い頃から、私はそんな彼のことが、ずっとずっと好きだった。
けれど、大人の世界は、私たちの純粋な想いをそのままにはしておいてくれなかった。
「シェリル、またロビン君は実技の試験に落ちたようじゃないか。学科試験はいいんだろう? うちみたいに魔道具開発の方の勉強はしていないのか? そっち方面でも十分あの子は活躍できるだろう」
「魔導の家系だからそっち方面に進みたいっていう気持ちも分からなくはないけど。もう高等学園に進むのだもの。そろそろ将来を見据えて自分の特性にあった道を考えておかないと。あなたもちゃんと伝えなさい」
高等学園に入ってから、王都の実家に戻るたび両親からは何度もせっつかれていた。両親も別にロビンを見下していたわけではない。ただ、過去の出来事や家にとらわれず、自分の特性にあった道を選んで欲しいと言っているだけだ。今のままでは何もできないまま社会に出なくてはいけなくなる。取返しのつかなくなる前に、学園にいる間に自分の得意分野を伸ばせと言ってるだけ。
きっと卒業後結婚する予定の私のためでもあるのだろう。いいところに就職しようと考えるなら、学生のうちにある程度の実績が必要だ。分かっている。私も何度か言ってみた。でも、ロビンはかたくなに自分の進む道、自分のやり方を変えようとはしなかった。
それならばと、私はロビンにいつも発破をかけたり、アドバイスをするようにした。
「ロビン、もっとこう、力を抜いて、すっと流すようにやればいいのよ」
私なりに、私がうまくいったやり方を教えてみた。精一杯の応援のつもりだった。ロビンが誰よりもすごい努力をしているのは、隣にいる私が一番分かっている。
けれど、結果を残さなければ、将来につながらない。
「……ねぇ、魔法を使うのではなく研究する方とか、違う分野にも目を向けてみたら?」
このままでは、私たちの未来が引き裂かれてしまう。その焦りから、私の言葉にはいつからか、彼の方向を思うように変えようという傲慢さが現れたのかもしれない。
頑張っているのに結果が残せない彼を見るたび、私は落胆していた。
けれどそれは、ロビンに落胆していたわけではない。
彼の努力を認めてくれない周りの人や、自分の両親に、あるいは、好きな人を守る力を持たない自分自身の無力さに落胆していたのだ。
一年生も真ん中を過ぎ、皆学園に慣れてきたころ、ロビンはさらに自分の殻に閉じこもるように卑屈になっていった。
教室でも、彼はいつも周囲の目を気にして、小さく縮こまっていた。声をかけてもそっけなく突き放される日々。
そんな彼を見るのが辛くて、同時に、声をかければ彼をさらに傷つけてしまうのではないかと怖くて、私は彼に近づくことができなくなった。
一方で、クラス委員だったことから、私は先生にあるお願いをされた。
「できるだけハインド・ローウェルと組んで欲しい。君なら彼と組んでも彼に合わせられるだろう」
彼のことは知っていた。主席合格だったが新入生代表挨拶を断った、だとか、先生を論破して困らせていた、だとか。
そんなことをする人だから、当然クラスメイトは引いていて、でも本人はそんなこと全く気にしていず、孤高の天才と呼ばれていた。
そういうことで浮いた存在だったハインド・ローウェルに、私は授業で分からないことを質問をするようになった。単純に何の話題をふっていいか分からなかっただけとは言えない。そう、彼は確かに圧倒的に優秀で魔力の使い方が綺麗だったから、純粋に魔法の効率的な運用方法を学びたかっただけだ。
でも、ハインドのことは優秀なクラスメイトとして尊敬してはいたけれど、そこに異性としての好意なんてひとかけらもなかった。
「シェリル、大丈夫? 婚約者なのにシェリルにあんな言い方するなんて。卑屈過ぎない?」「あの変人のお世話も押し付けられて、ホント気の毒。あ、シェリルがアレのこと好きだなんて微塵も思ってないからね」
放課後の教室で、私の本心を知る親しい友人たちは、心配そうに声をかけてくれた。私がどれほど幼い頃からロビンを一途に慕い続けているか。彼女たちはすべてを察して、気の毒そうに私の肩を抱いてくれた。
「あなたが一番ロビン君のことを応援しているのにね」
友人たちの優しい言葉が、かえって私の心に深く突き刺さる。私はただ、引き攣った笑顔を浮かべて、静かに首を振ることしかできなかった。両親が納得できるほどの実績を、私もロビンも、まだ何一つ残せていなかったからだ。
二年生の夏、実家に帰った私は両親に言われた
「もうこれ以上、あの子が変わってくれることに期待するのはやめなさい。婚約は解消しよう」
別に魔導の道をあきらめろと言ってるわけではない。将来のことも考えて、魔道具開発の勉強もしてみたら。
そう何度言っても全く話を聞いてくれないどころか、鬱陶しいとばかりに食事会にも参加しなくなったロビンに、父親もとうとう愛想をつかしてしまった。
私は決意した。どうせ婚約を解消しなければならないのなら、中途半端に同情を引くような真似はすまい。
いっそ、徹底的に嫌われた方が、彼にとっても、私にとっても楽になるはずだ。
「私とロビン様の婚約を、ここで一度白紙に戻していただきたいのです。我が家と、そして私自身の将来を見据えた上での、極めて現実的な判断です」
ロビンの家で行われた話し合いの席で、私はあらかじめ用意していたセリフを、感情を一切排して言い放った。ロビンの傷ついたような、けれどどこか諦めたような瞳が、私の胸を容赦なく切り刻む。叫び出したかった。ごめんなさい、本当はあなたとずっと一緒にいたい、そう言いたかった。
あの日の夜、私は自室のベッドで声を殺して泣いた。
ロビン、ロビン。心の中で何度も彼の名前を呼ぶ。
考えればいいの。それとも考えなければいいの。
何をどう考えれば、この絶望から抜け出せるのか、当時の私には全く分からなかった。ただ一つ言えるのは、私が自らの手で、世界で一番大切な人を切り捨てたという事実だけだった。
婚約解消の後、私は生徒会の仕事に注力することで、できる限りロビンのいるクラスから離れて過ごそうとした。
そのせいで、次の婚約者を探している、なんて噂がたったこともあったようだ。
また、ハインドを孤立させないために彼に話しかけることはやめられず、毎日適当に彼に話しかけていたら何を勘違いしたのか
「君の魔法には興味がないし、君自身にも興味がない」と言われる始末。
私にそんな気がないことを知っている周囲のクラスメイトすら、私に同情の視線を向けていた。
「ほら、あいつに話しかけるやつなんていないから、ちょっと勘違いしたんだよ」
ただ、打診すらしていないローウェル家から、一方的に婚約を断られたのには辟易した。
まぁ私に婚約者がいなくなったのは事実なので、それとなく周りにいい人はいないか聞いてくれと伝えてはある。けれど、心の中にロビン以外誰もいない私が、他の人と上手くいくはずもなかった。友人に紹介された何人かの人に会ってはみたが、空っぽの冷め切った心を埋めてくれる人はいなかった。
そんな日々を過ごしていたら、ある時から、学園の廊下ですれ違うロビンが、その雰囲気を変えていった。
ハインドと親しくなり、彼が提唱する『魔力制御理論』を吸収し始めたロビンは、かつての卑屈さを脱ぎ捨て、圧倒的な強者としての輝きを放ち始めていた。
成績順位表の一番上に、彼の名前が載った日、私は群衆の後ろからそれを見上げていた。
誇らしかった。やっぱり、私の好きになった人は、誰よりもすごくて、本物の天才だったんだ。
けれど、それと同時に、もう二度とあの背中に手が届かないのだという残酷な現実が、冷たく身に染みた。
三年生の冬、卒業を間近に控えたある日、実家の父親から私の行く末を決める知らせがもたらされた。
「王都ではおまえの婚約者は探せなかった、シェリル。……だが、地方の有力な領主から、後添いを探しているという話が来ている。相手は若くして領地を治める優秀な魔法使いだが、病で先妻を亡くされており、幼い跡取り息子がいるそうだ。そこに嫁ぎ、その子の母親代わりを務めなさい」
それは、王都で期待の若手と言われるようになったロビンから、私を遠ざけるための、親としての気遣いでもあったのだろう。
私は、ただ静かにその決定を受け入れた。
周囲の陰口も、友人の気遣いも、もういい加減うんざりしていた。
けれど、地方へと旅立つその前に、どうしても、一度だけでいいから、自分の本当の気持ちを、あの人に伝えたかった。
放課後の夕暮れの廊下、私は王宮魔術師に内定したというロビンを待ち伏せした。
かつての華やかさを失い、窶れた姿の私を見て、ロビンは酷く事務的な、冷たい瞳を向けた。
「あのね、ロビン。私……聞いたわ。あなたが王宮魔術師に選ばれたって。……私、ずっと分かっていたの。あなたが、本当は誰よりも努力家で、素晴らしい才能を持っているって」
それは、かつて彼を切り捨てた女が口にするには、あまりにも身勝手で、都合の良い言葉だった。分かっている。嫌われる覚悟で言っている。でも、このままじゃ、私は一生、前を向いて歩けない。
「ねえ、ロビン。私たちの婚約、もう一度やり直せないかしら? ずっと隣にいた私なら、あなたを一番に支えられるわ。両親もね、あなたとの再婚約なら、どんな条件でも飲むって言っているの」
必死にすがるような笑みを浮かべる私に、ロビンが返した言葉は、冷酷な現実だった。
「断るよ、シェリル。……僕にはすでに、ルシアという大切な婚約者がいる。ハインドの妹だよ」
その瞬間、私の恋は完全に終わった。
ハインドの妹。あの優しくて健気な女の子。私のようにロビンを見放すことなどせず、真っ直ぐに人を愛せる、かわいらしい少女。
「そ、そう……ローウェル家の……。遅かったのね」
私は力なく笑った。激しく泣き叫ぶことすら、今の私には許されない。だって、彼を先に見放したのは、他ならぬ私自身なのだから。
「もう行くよ、シェリル。お元気で」
ロビンは私の横を通り過ぎ、一度も振り返ることなく去っていった。
茜色の廊下に一人取り残された私は、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えながら、自らの胸に手を当てた。
ロビンへの想いは本物だったはずなのに、なぜ私は親の言葉に流されてしまったのだろう。どうして待っていられなかったのだろう。なぜあんな選択をしてしまったのだろう。
私の愛情は、結局その程度の、ものだったのだろうか。もう誰に対しても、心からの温もりを伝えることなんてできない。そんな冷え切った絶望だけが、私の心に深く、深く沈んでいった。
卒業式を終え、私は荷物をまとめて、王都から遠く離れた北方の領地へと赴いた。
結婚相手である領主、アルベルト様は、噂通りに優秀で、かつ実直な人物だった。彼は私に過度な愛情を求めることもなく、けれど一人の人間として、敬意を持って接してくれた。
彼には、亡くなった前妻との間に、四歳になる男の子がいた。名前はレオ。大きな青い瞳を持った、とても愛らしい子供だった。アルベルト様が私を後添いとして迎えた最大の理由は、この幼いレオの世話をし、領主の館の生活を円滑に回せる、聡明で要領の良い女性を求めていたからだった。
「シェリル、無理になじもうとしなくていい。レオもまだ混乱している。君のペースでやってくれればいいから」
「はい, アルベルト様。お心遣い、感謝いたします」
だが、三人の生活が始まると、最初、レオは私に対して激しい拒絶反応を示した。
私が近づくだけで、小さな身体を強ばらせてそっぽを向く。差し出した食事に手をつけず、お気に入りの絵本を抱きしめて、部屋の隅でじっと私を睨みつけるような日々が続いた。
「新しいお母様なんて、いらない……! レオのお母様は、お空にいるんだもん!」
小さな声でそう泣くレオを見て、使用人たちはハラハラとしていた。けれど、私は不思議と傷つかなかった。むしろ、レオのその頑固なまでの、実の母親への忠誠心が、どこか愛おしくすら思えたのだ。
私は、かつてロビンに対して発揮していた(あるいは間違った方向へと使ってしまった)要領の良さと観察眼を、今度はすべて、この小さな男の子との生活を豊かにするために注ぎ込むことに決めた。
叶わなかった恋心や、応えられなかった家族からの期待。でも、それを嘆いていたって始まらない。
目の前には、今、私を必要としている(あるいは拒絶している)小さな命があるのだから。それに全力で向き合おうと思った。
子供の心を掴むことなんて、魔法の術式を解くよりもずっと複雑で、要領だけではどうにもならないことかもしれない。でも、最初から無理だと諦める必要なんてどこにもない。
私はレオの行動をじっくりと観察した。
好きなごはん、好きな遊び、好きな絵本。
私はレオに無理に母親面をして近づくのはやめて、ただの同居人として、彼の快適な環境を徹底的に整えた。
彼が眠った後、汚れたぬいぐるみを丁寧に魔法で洗浄し、ほつれたお気に入りの衣服を綺麗に修復した。彼が起きる時間には、彼が大好きな、ほんのり甘いカボチャのポタージュを、すぐに飲める温度でテーブルに用意した。
ある日の午後、レオが居間のソファで、お気に入りの絵本を開いたまま、どうしてもうまく読めない文字があるのか、小さな眉をひねってうなっていた。
私は、彼から少し離れた場所に座り、優しく声をかけた。
「レオ、その文字はね、こうやって発音するのよ。……昔、私の大切な人も、文字を読むのが少し苦手でね、こうやって一緒に練習したの」
「……たいせつな、ひと?」
レオが、初めて自分から私に視線を向けた。
「ええ。とても努力家で、格好いい人。その人はね、どれだけ時間がかかっても、絶対に諦めない強い人だったわ」
ロビンのことを話す時、私の声は自然と、優しい声色になっていた。
レオはじっと私を見つめ、それからトコトコと小さな足音を立てて近づいてくると、私の膝の上にぽんと絵本を置いた。
「……じゃあ、レオにもおしえて」
「ええ、喜んで」
その日を境に、レオの頑なな心は、少しずつ、けれど確実に解けていった。
数週間が経ったある日、私はレオを寝かしつける際、彼の小さな手を握りながら、ずっと考えていたことを切り出した。
「レオ。あなたがお空にいる本当のお母様のことを、とても大事に思っているのを、私はよく知っているわ。だから、無理に私のことを『お母さま』と呼ばなくていいのよ」
レオは不思議そうに目を丸くした。
「あなたを産んだのは、お空にいる『お母さま』。……だから、私は『母上』ってことでどうかしら? それなら、お空のお母さまも、怒らないと思うの」
レオは、小さな頭で一生経命にその言葉を反芻しているようだった。やがて、彼の顔に、今までで一番輝かしい、満面の笑みが浮かんだ。
「……うん! 『母上』! レオ、母上、だいすき!」
小さな身体が、私の首にしがみついてくる。その温かさと、腕の中に伝わる確かな鼓動を感じた瞬間、私の心の中の氷のような冷たさが、薄くなっていくのが分かった。
それからの生活は、驚くほど穏やかで、満ち足りたものだった。
要領の良い私は、領主の妻としての複雑な差配も、社交の場での立ち回りも、すべてそつなく、こなしてみせた。アルベルト様はそんな私を深く信頼してくれた。始めはただの親愛だったが、やがてそれは、穏やかで確かな愛情へと変わっていった。王都のような、実力を誇示し合う殺伐とした空気はここにはない。ただ、領民たちの安穏な暮らしを守るための、地道で、優しい生活があるだけだった。
レオは完全に私に懐いてくれ、毎日「母上、母上」と、私の後ろをついて回るようになった。
「母上、みて! 魔法で、小さなお花が咲いたよ!」
「まぁ、すごいわ、レオ。とても綺麗な発色ね」
庭の片隅で、レオが放った初級の生活魔法を眺めながら、私は彼の頭を優しく撫でる。
ふと、王都へと続く街道の先を見つめる。
かつて、学園の登下校の路で、ロビンの隣を歩いていたあの頃の記憶。あの時の私は、未来への不安と親からのプレッシャーで、いつも心が押しつぶされそうだった。
今のロビンは、ハインドと共に王国の危機を払い、王宮魔術師として、歴史の表舞台で輝かしい日々を送っていることだろう。彼が手に入れたのは、世界の誰もが羨む、特別な立場だ。
もし、今、あの頃のロビンに会えるとしたら、私は彼に、何と言うだろう。
いや、もう二人で話すことなんて何もない。ただ、今も、まっすぐ彼の道を進んでいて欲しい、そう思う。
私には、この北方の領地で守るべき、愛する家族がいる。アルベルト様という信頼できる夫がいて、レオという愛おしい息子がいる。そしてお腹の中にも。私と彼の道は、もう交差することはない。
皮肉なものだな、と私は茜色の空を見上げて、小さく微笑んだ。
かつてロビンは、その膨大な魔力ゆえに周囲から異常と称され、傷つきながらも「普通に生きてみたかった」と、心の中で切に願っていた。
そのロビンが切望していたはずの、穏やかで、特別ではない『普通の生き方』をして、幸せを掴んでいるのは、他ならぬ、私なのだ。
私は、かつて自分がした過ちを、もう後悔していない。あの挫折があったからこそ、私は自分のよさを、目の前の小さな幸せを守るために使うことを学べたのだから。
「母上ー! 早くお家に入ろう? お父様が、もうすぐ帰ってくるよ!」
遠くから、レオが小さな手を振って私を呼んでいる。
「ええ、今行くわ、レオ」
私は最後にもう一度だけ、王都の方角の空を見つめ、心の中でそっと、かつて世界で一番大好きだった少年へと語りかけた。
あなたは幸せになった?
きっと、なっているよね。あなたの隣には、あなたを理解してくれる最高の友と、あなたをそのまま愛してくれる優しい婚約者がいるのだから。
私もね、今、とっても幸せよ。
私はドレスの裾を少しだけ持ち上げ、愛する夫と息子が待つ、温かい光の灯る我が家へと、確かな足取りで歩みを進めた。
王都での学園生活は、常に誰かと比較され、評価され、序列を競い合う日々だった。そんな息の詰まるような世界の中で、私は自分の心を擦り切らせながら生きていた。けれど、この北方の地は違う。
夫は、領民たちの生活を第一に考える素晴らしい領主であり、私が要領よく整えた館の環境に、いつも「ありがとう、シェリル。お前が来てくれてから、この館は本当に温かくなった」と、心からの感謝を述べてくれた。
レオが私のことを「母上」と呼ぶようになってから、館の空気は劇的に変わった気がする。
朝、目覚めると、早起きのレオが私の寝室へと走ってきて、ベッドの端から小さな顔を覗かせる。
「母上、おはよ! 今日もレオと一緒に、お庭でお花を育てよう!」
「ええ、おはよう、レオ。まずは美味しい朝食を食べてからね」
そんな何気ない、ありふれた会話の繰り返しが、私の心を、ゆっくりと、しかし確実に温めていった。
かつて王都にいた頃、私は「特別な何か」をなしえなければいけないと考えていた。ロビンにもそれを求め、彼が苦しんでいる姿を見て、どうしていいか分からずに落胆していた。
でも、ここにあるのは、『普通』だ。朝が来れば起きて、愛する家族のために食事の手配をし、昼は夫の仕事を支え、子供の成長を見守り、夜は静かに眠りにつく。
―― つまづくことなく、ただ健やかに、特別じゃなくてもいいから。
それは、かつてロビンが自室で煤塗れになりながら、心の中で血を吐くように願っていた、まさにその生き方そのものだった。
ロビンは、ハインドという唯一無二の親友と出会い、その規格外の才能を開花させ、王宮魔術師という誰もが平伏する特別な座へと上り詰めた。彼はきっと、歴史にその名を永遠に刻むことになるだろう。それは、彼が血の滲むような努力の果てに勝ち取ったものだ。
けれど、私は今、この名もない地方の町で、彼が望んだ『普通』の幸福のなかにいる。かつて同じ道を歩み、すれ違い、別々の未来を選んだ私たち。
どちらの選択が正しかったかなんて、誰にも分からないし、比べる意味すらどこにもない。
ただ言えるのは、私たちは二人とも、自分の足で、自分が生きるべき場所へと辿り着いたということだけだ。
窓の外では、完全に日が沈み、満天の星空が広がり始めていた。
北方の澄んだ夜空に輝く星々は、王都のそれよりもずっと近く、そして優しくまたたいている。
「シェリル、レオがもう待ちきれないようだ。そろそろ夕食にしよう」
書斎から出てきたアルベルト様が、愛おしそうな目で私を見つめる。
「はい、今参ります、アルベルト様」
私は最後にもう一度だけ、深く息を吸い込み、過去のすべての記憶を愛おしく抱きしめた。
あの喪失感も、焦燥感も、すべてが今のこの温かい日々に繋がっている。私はもう、何も恐れない。
愛する人の背中を見送り、自らもまた、新しい愛のなかで生きていく。
「母上! 今日ね、お父様と一緒にお歌の練習もしたんだよ!」
「まぁ、それは楽しみね。お食事のあとに、ぜひ私に聞かせてちょうだい」
レオの小さな手を引きながら、私は食堂へと歩き出す。
そこには、温かい料理の匂いと、夫の優しい笑顔が待っていた。
これが私の人生。特別ではないけれど、世界で一番愛おしい、私の普通の生活。




