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 世間というものは、私を「可愛らしくて、ちょっと愛嬌のある、ごく平凡な女の子」だと思っている。

 自覚はある。自他ともに認める、どこにでもいる普通の女の子。それが私、ルシア・ローウェルだった。


 何しろ、私の家には「ハインド・ローウェル」という、世界をひっくり返すような魔導の天才が兄として君臨していた。血を分けた兄妹だというのに、神様はあからさまに不公平だった。兄が誰も思いつかないような高度な魔力制御理論を平然と組み立てている横で、私は初級の生活魔法を発動させるだけで精一杯。親の目も、親戚の期待も、すべてが兄に向いていた。

 だから私は、自分の戦い方を幼い頃に決めたのだ。


「ルシアちゃん、今日の髪型、すごく似合ってるね。これ、新しく買ったリボン?」

「うん、ありがとう。気づいてくれたの、嬉しいな」


 私は自分の見た目が、周囲の女の子たちより少しだけ可愛い部類に属していることを知っていた。だから、その利点を最大限に活かすことにした。男の子たちの前では少し小首を傾げ、上目遣いで微笑みかける。それだけで、彼らは勝手に私を特別視し、チヤホヤしてくれた。彼らの関心をひきつけるのは、泣いている子どもを泣き止ませるよりずっと、私にとって簡単なことだった。

 一方で、女の子たちとの付き合いは便利さが基準だった。宿題を見せてもらったり、流行りの情報を教えてもらったりするための道具。お互いに心を開くような、特別な友人なんて一人もいなかったけれど、それで困ったことなんて一度もない。私は要領よく、可愛いお人形さんとして世界を渡ってきたのだから。


 そんな私の平穏な日常に、ある日、兄がとんでもない泥だらけの男を連れて帰ってきた。


「ルシア、こいつはロビン・クルーガーだ。学園のクラスメイトで、今、僕の理論の実証を手伝ってもらっている」


 兄がそう紹介したロビンという男は、身体から溢れ出る膨大な魔力を制御できず、いつも服の袖を焦がしているような、どこか卑屈で冴えない男だった。

 だが、私は直感した。あの偏屈で、自分と同等かそれ以上の知性しか認めない兄が、わざわざ自宅に招き入れて、対等に議論を交わしているのだ。このロビンという男は、今は不器用で燻っているけれど、将来は間違いなく兄の隣で偉大な成果を上げ、国を背負うほどの優秀な魔導師になるに違いない、と。


 私はがぜん興味が湧き、翌日、学園の都合のいい友人の一人にそれとなく探りを入れてみた。


「ねえ、ロビン・クルーガー先輩のことなんだけど。……あの人のこと何か知ってる?昨日兄が家に連れてきてて…」

「え? ロビン・クルーガー? ああ、あの魔力だ多いだけの落ちこぼれね。あの人、ついこの前まで、生徒会のシェリル先輩の婚約者だったのよ」


 シェリル先輩、シェリル・モンテオール。その名前を聞いた瞬間、私の胸の奥で小さな不快感がわく。

 学園のマドンナといったら真っ先に名前が出てくるような人だ。頭もよく、美人で、人気者で、生徒のみならず先生たちからの信頼も厚い。あの気に食わない優等生。

 別にはなから嫌いだったわけではない。1年の時、同じ委員会の先輩から「ルシアちゃんってシェリル先輩に似てるよね」「なんでもできる要領がいいところとか」って言われたのだ。最初は純粋にほめられたのだと思って「えーそんなことないですよぉ」って返してた。でも繰り返し言われて気づいたのだ。シェリル先輩に向けられる「要領がいい」っていうのは手際がいいとか機転が利くとかいい意味で、私に使われる「要領がいい」は調子がいいとかちゃっかりしているっていう意味だって。


 ―― へえ……あのシェリル先輩が、手放した男なんだ


 その事実は、私の心に火をつけるのに十分すぎた。

 将来性抜群の、磨けば光るダイヤの原石。そして何より、あの完璧なシェリル先輩の「元婚約者」。そんな男を、この平凡な私が奪い取ってみせたら――想像するだけで、ぞくぞくするほどの達成感が脳内を駆け巡った。


「こんにちは、ロビン先輩。兄から、いつもお話は伺っています。先輩の魔法、とってもダイナミックで、ホントすごいですよね。私、魔力少ないからすごく憧れちゃう」


 狙いを定めてからの行動は早かった。

 当時のロビンは、シェリル先輩から婚約を解消され、完全に自信を失っていた。女の子という生き物に対して、ひどく卑屈で、怯えるような目をしていた。

 だからこそ、私のような「無害で、可愛くて、自分を全肯定してくれる女の子」の存在は、乾いた砂に染み込む水のように効果的だった。


「ロビン先輩はすごいです! 兄も、先輩の腕がなければ自分の理論は証明できなかったって、いつも褒めてるんですよ? どうしてそんなに格好いいのに、自分のことを悪く言うんですか?」


 おだてて、持ち上げて、これでもかと褒め倒す。私のちょっとした上目遣いと、潤んだ瞳。

 男なんて、本当に単純だった。ロビンはあっさりと顔を真っ赤にし、私の手のひらの上で転がり始めた。傷ついた心を癒やしてくれる聖女にでも見えたのだろう。彼は私に依存するようになり、卒業を待たずに、私たちは正式な婚約へと至った。


 思惑通り、ロビンは兄と共に王国の危機を払い、国の英雄という名誉、そして「王宮魔術師」としての地位を得た。


 そして迎えた、兄とロビンの卒業記念パーティー。

 私はロビンのパートナーとして、最高に着飾って会場に乗り込んだ。きらびやかな夜会の中心で、私はロビンの腕にこれ見よがしに絡みつき、会場の隅にいたシェリルを見つけた。

 かつての華やかさを失い、どこかやつれ、実家から地方へと追放されることが決まっているという、哀れな敗北者。


 私はわざわざ彼女の正面まで歩みを進め、これ以上ないほどの甘い微笑みを浮かべて見せつけた。


「ごきげんよう、シェリル様。ロビンさんからいつも聞いていますの。今、彼がこうして王宮魔術師として輝いていられるのは、過去の苦しい経験があったからこそだって。……私、彼を支えられて本当に幸せなんです」


『あなたが捨てた無能は、私の手で最高の英雄になりました。お気の毒に、地方へ追放されるんですって?』

 そんな侮蔑と優越感をたっぷりと込めた言葉。

 しかし、シェリルは激昂することも、悔しがることもなかった。どこか哀れみの混じったような瞳で私を見つめ、さらりと微笑んだだけだった。


「それは、とても素晴らしいことですわね、ルシア様。ロビン様とどうぞお幸せに」


 その拍子抜けするほど静かな返しに、私は一瞬だけ虚無感を感じたが、すぐにそれを打ち消した。

 どうせ負け惜しみに決まっている。私はあの完璧なシェリル先輩に勝ったのだ。これから始まる輝かしい王都での貴族生活に、私は胸を躍らせていた。


 だけど。

 今になって思えば、あの日が私の人生の頂点だったのだと知るのに、そう長い時間はかからなかった。




 結婚して三年。王都にあるクルーガー家の瀟洒な邸宅で、私は毎日のように退屈と不満に塗れていた。


「ロビン、お帰りなさい。今日も遅かったのね」

「ああ、すまないルシア。ハインドと一緒に、魔法省の新しい照明の魔力経路の構築について議論が長引いてしまってね。明日の朝も早いんだ」


 帰ってきたロビンは、王宮魔術師としての重責に追われ、いつも疲れ果てていた。

 彼は確かに、仕事のできる立派な男になったのだろう。けれど、私にとっては、ただの『退屈で会話のつまらない男』に過ぎなかった。


 彼が帰宅して口を開けば、出てくるのは魔力の指向性だの、術式の効率化だの、兄と進めている研究の話ばかり。私にはそんな高度な話、一ミリも理解できないし、興味もない。

「ねえ、そんなことより、今度新しくできた劇場の観劇に行かない? 友達がみんな行ってて――」

「悪いが、今週末は中央魔導省の視察が入っているんだ。ハインドも行く。君も、ローウェル家の娘なら、少しは魔導の時事について勉強しておいたらどうだい?」


 淡々とそう言い放つロビンの瞳には、かつて私をおずおずと見つめていたあの卑屈な熱情は、もう影も形もなかった。彼はすっかり『優秀な公人』になりきり、私という存在を、ただの『ハインドの妹であり、世間的に自分を一人前とみなすために必要なもの』としてしか見ていないようだった。


 会話が合わない。一緒にいても、ちっとも楽しくない。

 愛情なんて、最初から持てるはずもなかったけれど、せめて贅沢で華やかな、周囲から羨まれるような生活が送れると思っていたのに。現実は、仕事人間になった夫に放置される、孤独な毎日だった。


 さらに、追い打ちをかけるように後継ぎの問題がのしかかってきた。


 結婚して三年が経つというのに、私には一向に子宝の兆しがなかった。

 そのことで、実家の両親からも、ロビンの実家からも、露骨なプレッシャーが注がれるようになった。


「ルシア、まだ良い報せは無いの? ローウェル家と、今や王宮魔術師となったクルーガー家の血筋だ。どれほど優秀な子が生まれるか、皆が期待しているのよ」

「我が家としても、ロビンの跡継ぎが早く欲しいところでしてね。ルシアさん、一度、王都の高名な医師に診てもらったらいかがですか?」

 実家の母親もロビンの母親も、お茶会のたびに私の腹部に冷たい視線を向け、丁寧な言い方で、鋭い刃のような言葉を放ってくる。


 ロビン自身も、子どもができないことに対して、どこか冷めた態度を取るようになった。夜の営みは義務的で、まるで決まった手順を踏むだけの作業で、そこに愛の欠片も感じられない。

 そんな息の詰まるような家の中で、私の心は完全に荒みきっていた。


「ルシアちゃん、本当に相変わらず可愛いね。王宮魔術師の奥様なんて、もったいないくらいだ」


 いつしか私は、寂しさと不満を埋めるように、夜の社交界の裏側で、甘い言葉を囁いてくれる別の男たちと密かに肌を重ねるようになっていた。要領よく、夫にも周囲にもバレないように立ち回る。男を転がすことなんて、私にとってはお手の物だった。

 浮気をしている時だけは、自分が「価値のある可愛い女の子」に戻れたような気がして、心が満たされた。けれど、朝になって冷めたクルーガー家のベッドに戻るたび、何とも言えない虚しさと、「私はあんまり幸せじゃないな」という思いが、泥のように胸に溜まっていった。




 そんなある日の午後。私は王都の中央通りを歩いているとき、偶然、馬車から降りてくる一人の女性の姿を目撃した。


 美しい、見紛うはずもない、あの独特の落ち着いた佇まい。

 シェリル先輩だった。


 彼女は、仕立ての良い、けれど派手すぎない上品な仕立てのドレスを纏っていた。その表情は、最後に会った卒業パーティのように、やつれて疲れ果てたような暗さは一切なく、ひどく穏やかで、満ち足りた光に満ちていた。

 彼女の隣には、夫だろうか、がっしりとした体格でかっこいい、優しそうな大人の男性が寄り添い、彼女の腰を優しく支えていた。

 そして、その男性の腕には、七・八歳くらいの男の子が抱えられており、シェリル自身もまた、腕の中に愛らしい赤ん坊を抱いていたのだ。


 ―― え……? シェリル先輩、子どもいるの……?


 私は物陰に隠れながら、その光景を凝視した。

 彼女は確かに、地方の後妻として追放されたはずだった。むさくるしい田舎で、先妻の子供に苦しめられ、惨めな生活を送っているはずだと、私はずっと思い込んでいた。

 なのに、何、あの幸せそうな空気は。


 胸の中に、ドス黒いマグマのような感情が湧き上がるのを止められなかった。

 私はすぐに、王都の噂話に耳敏い、情報通の女友達を呼び出し、お茶会を開いた。


「ねえ、そういえば最近、あのシェリル・モンテオールが王都に戻ってきているって聞いたんだけど、何か知らない?」


 私の問いかけに、女友達は待ってましたとばかりに目を輝かせ、身を乗り出してきた。




「あらやだ、ルシア知らないの? 今、王都の社交界はその話でもちきりよ!」

 女友達は、運ばれてきた高級な焼き菓子を口に放り込みながら、ペラペラと喋り始めた。その内容は、私の耳を抉るような、信じがたい噂の数々だった。


「シェリル様が嫁いだ北方の領主、アルベルト様っていうんだけど、噂通りにものすごく優秀で誠実な方なんですって。領地の運営も完璧で、しかもね、その領地、最近になって質の良い魔石が大量に採掘できる新鉱山が見つかったらしくて、今やものすごい富を生み出しているらしいわよ。アルベルト様のご実家も、大層な資産家だし、王都のヘタな上級貴族よりよっぽど裕福なんですって」


(新鉱山……良質の魔石……?)

 私の指先が、紅茶のカップを握ったまま、みっともなく震え始めた。ロビンの給料だって安くはないけれど、魔法省の予算や国の規定に縛られた、ただの「高級官僚」の収入だ。一領地から上がる莫大な魔石の利権とは、比べるべくもない。


「それにね、一番驚きなのが、シェリル様が先妻の産んだ男の子を、すっごく優秀に育て上げているっていう話なのよ。名前はレオ君って言ったかしら。発動もうまくできなかったのにシェリル様がマンツーマンで魔法を教えたら、あっという間に才能が開花して、すでに初級魔法を完璧に使いこなすようになったんですって!」


「……シェリル先輩が、魔法を?」


「そうよ。なんでも、シェリル様が昔教わったっていう『基礎の徹底と魔力の効率的な流し方』を、実践しながら子供向けに分かりやすく噛み砕いて教えたらしいわ。それがその子にぴったりハマったらしくて。それを見たレオ君のお母様のご両親が大感激しちゃって。『これほど聡明で、亡き娘の忘れ形見を愛し、導いてくれる素晴らしい嫁はいない』って、シェリル様を本当の娘のように溺愛して、自分たちの領地で取れた宝石から何から毎日のように贈ってるらしいわよ」


 女友達の話は止まらない。私の心臓は、嫉妬と屈辱で激しく脈打っていた。

 かつてシェリル先輩がロビンに教えてもらったことを、今度は自分が継子に教えて、その子の才能を開花させた。その結果、婚家で絶対的な地位を築き、昔と変わらず、いやそれ以上に周囲に絶賛されているというのだ。


「さらにね、シェリル様、こないだご自身のお子様も出産されたの。とっても可愛い女の子で、もう、アルベルト様もレオ様もご両親もメロメロなんですって。で、その出産の報告を聞いて、なんと、シェリル様を地方に追放した実家の御両親がね、すっかり態度を変えちゃったらしいのよ。」


「和解したっていうこと……? あの、魔法至上主義の、冷たい親と?」


「そうなの! あ、でも追放したってのはデマじゃなかったかしら。クルーガー様と婚約解消した後でシェリル様が色々言われてるのを気にして、わざと地方に行かせて王都から遠ざけたってことだったと思うわ。まぁ結婚相手がアルベルト様ってことを考えたら、そうよね。

 心配してたらしいけどそうそう会える距離でもないでしょう? でも会いに行ってみたら、レオ君シェリル様のこと母上って懐いてて、うれしくて可愛くて、娘が幸せだったらもうそれでいいって。今じゃすっかりおじいちゃん、おばあちゃんとしてデレデレになっちゃったんですって。

 あ、そうそう、シェリル様の実家、最近独自に開発した生活系の魔道具が王都で大ヒットして、ちょっとした成金レベルにお金持ちになってるじゃない。だから、領主の跡取りであるレオ君のために、最高級の魔導書や特注の魔道具を、これでもかっていうくらい選別して買ってあげてるらしいわ。それをアルベルト様側のご両親らも『素晴らしいお心遣い』って大感謝してて……。今や、ものすごく家族仲が良い理想の家庭築いてるって評判よ」


 女友達は「本当に羨ましいわよねえ」とため息をついた。

 その瞬間、私の頭の中で、何かがパチンと音を立てて弾け飛んだ。


 ―― なんなの、それ……。なんなのよ、それ!!


 叫び出したい衝動を、必死で笑顔の仮面の下に押し殺す。

 爪が手のひらにくい込み、血がにじみそうだった。


 シェリル先輩は、すっごい幸せになっている。私の何倍も、何十倍も、非の打ち所がないほどに幸せになっている。

 それに引き換え、私はどうだ。

 王宮魔術師の妻という肩書きに縛られ、夫からは見向きもされず、会話も合わず、子どももできない。両方の親からは白い目で見られ、夜の闇に紛れて行きずりの男に身体を許すことでしか自尊心を保てない、惨めな生活。


 あの卒業パーティーの夜、私は確かに彼女をに勝ったはずだった。

「あなたの捨てた無能を、私が英雄にしてあげたのよ」と、勝ち誇った笑みを向けたはずだった。

 なのに、結局、シェリル先輩は、自分の力で、自分の場所を作り、すべてを手に入れたのだ。

 私の手に入れたロビンなんて、ただの「仕事ができるだけの、つまらない男」でしかなく、彼と結婚したところで、私には何の幸福ももたらされなかった。


 ―― 全部、逆転されてる……。私が、完全に負けてるじゃない……!


 悔しくて、惨めで、涙が出そうだった。

 このままクルーガー家で、冷めきったロビンの妻として老いていくなんて、絶対に嫌だ。そんなの耐えられない。


「……ルシア? どうしたの、顔色が悪いわよ?」

「あ、ううん、なんでもないの。ちょっとお腹が痛くなっちゃって……。ごめんなさい、今日、もう帰るね」


 私は席を立ち、逃げるように馬車に飛び乗った。

 揺れる馬車の中で、私は自分の激しい息遣いを聞きながら、冷徹に考えを巡らせていた。


 こんな面白くもない、愛のない結婚生活、もう終わりにしてしまえばいい。子どもができないのを私のせいにされるのも、もうウンザリだ。

 幸い、私にはまだ、男を惹きつける「可愛さ」が残っている。ロビンと離婚して、もっと私をチヤホヤしてくれて、お金を持っていて、会話の楽しいかっこいい男を見つけて、新しく人生をやり直そうか。

 あのシェリル先輩に、このまま負けたままで人生を終えるなんて、絶対に、絶対に許せないのだから。




 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 王都の喧騒から少し離れた、ローウェル家の本邸。

 その書斎で、私は静かに書類を整理しながら、窓の外の庭園を眺めていた。


 私は、この国ではなく、遠い他国の魔導名門の出身であり、ハインド・ローウェルの妻となった女だ。

 政略結婚ではあったけれど、私は夫であるハインドの、魔導に対する異常なまでの真摯さと、ある種の人格的な欠陥とも言える「他者への無関心」を、ひどく客観的に、そして深く理解しているつもりだった。


「やぁ、ハインド。今日の魔法省の会議の議事録だ」

「ああ、助かる、ロビン。そこへ置いておいてくれ。それより、この間の第三術式の流動性についての修正案だが――」


 書斎の奥では、夫のハインドと、その親友であり義弟でもあるロビンが、机に噛みつくような勢いで魔導書と数式を睨み合っている。

 私は彼らに淹れ立てのお茶を差し出しながら、心の中でそっと、冷ややかな、けれど確かな確信を抱いていた。


(結局のところ、ロビンもハインドと同じで、仕事ができるだけの『魔導バカ』に過ぎないのよね)


 かつて、彼は学園時代にシェリルという令嬢に婚約を破棄され、卑屈になっていたところを、ハインドの妹であるルシアに、安っぽいおだて文句と愛嬌であっさりと落とされた。当時のロビンは、自分の膨大な魔力を制御するのに必死で、精神的に未熟だったから、ルシアのような「自分を無条件で肯定してくれる可愛い女の子」に引っかかってしまったのだろう。

 だけど、成長し、ハインドと共に世界の真理を紐解く作業をしている今のロビンにとって、中身が空っぽで、魔導の話も理解できず、ただワガママを言うだけのルシアは、とうに「人生の重荷」でしかないのだ。


 ハインドもロビンも、本質的には同じ種類の人間だ。自分の道を一直線に進むこと。仕事、研究、魔導の探求。それだけが彼らの生きる世界のすべてであり、それ以外の「女の感情」や「家庭の機微」なんてものは、彼らの脳の容量には一ミクロンも入っていない。だからこそ、この二人はこれほど気が合うのだろう。世間的に見れば、二人とも自身の才能で地位も名誉も手に入れた、男として成功者の部類に入るし、妻と気の置けない親友もいる。あとはそれぞれ子どもでもできれば言うことなし、というところだろうか。


 私は、ローウェル家の人間として、ルシアの噂も、そしてシェリルの話も、仕事上の付き合いや、かつての友人たちを通じて正確に把握していた。というか、つい昨日、シェリルとは友人を通して軽く挨拶もしている。抱いていた1歳にも満たない子を、私も抱かせてもらった。


 女としての視点から見れば、ルシアとシェリルの勝負の結末は最初から決まっていたようなものだった。いや、勝負にすらなっていない。


 シェリルという女性は、ルシアの言う通り、確かに要領が良いだけに見えたかもしれない。けれど、彼女は自分の能力をきちんと把握し、自分の置かれた環境を正確に観察し、自分の力で居場所を構築する、そのために自分がどう動くか、という生活の知恵と強さがあった。ただただ状況に流されるような人では今のようにはなっていないだろう。

 彼女の学園時代からの友人らは、「あの子ずっと昔からクルーガー君のことが好きだったのよね」と言っていたが、彼女は、ロビンと結婚してもきっと共倒れになっていただろう。ロビンのあの不器用さと、ハインドにしか向いていない視線を、シェリルのような女性が支え続けるのは、精神的に負担が大きい。彼女は彼女と同じ方向を見て手を取り合って動く人が向いている。


 そう考えると、シェリルは地方の誠実な領主の後妻となり、その要領の良さを子供の教育や領地の調停という、最も正しい方向へと活用した。だからこそ、最高の幸福を自らの手で掴み取ったのだ。

 ロビンと離れたことは、シェリルにとっても、そしておそらくはロビンにとっても、結果的には一番良い結果だったのだと思う。


 問題は、私の目の前にある、この家庭の現実だ。


「ハインド、ロビン。少し休憩したらどうかしら。お茶が冷めてしまうわ」

 私が声をかけると、ハインドは一瞬だけ私に視線を向け、

「ああ、すまない。だが、この数式を解くまでは手が離せないんだ」

 と、事務的な口調で言って、すぐにまた紙面に目を戻した。


 ハインドは、私を妻として尊重してはいる。虐げることもなければ、生活に困らせることもない。けれど、そこに情熱や愛おしさといった、人間的な温もりは一切存在しない。彼はただ、ローウェル家の維持と、魔導の発展のために私という『他国の優秀な魔法因子を持つ妻』を配置しているだけなのだ。


 私もまた、この結婚に過度なロマンスは期待していなかった。

 けれど、私も一人の女だ。

 結婚して数年、ハインドとの間に子どもができる気配はない。彼が私を抱くのは、ただ「ローウェル家の次世代を残すため」という、冷淡な義務感に基づいた、数ヶ月に一度の規則的な行為でしかない。そこに、私の心を震わせるような温かさは何一つない。


 ルシアが、王都の裏で浮気を繰り返していることは、とっくに気づいている。

 彼女のあの、焦燥感に駆られた、乾いた瞳を見れば一目瞭然だ。

 ルシアは「別れてもっといい男を見つけてやり直そうか」などと、身の程知らずな妄想を抱いているようだけれど、彼女のような、若さと見た目だけで生きてきた女が、一度『王宮魔術師の妻』という最大のブランドを手放して離婚したところで、次に待っているのは、彼女を都合の良い愛玩物としてしか扱わない、より悪質な男たちの罠だけだということに、あの愚かな妹は気づいていないだろう。



 けれど――、と私は自らの平らなお腹に、そっと手を当てた。


 ―― 私は、どうすべきかしら


 子どもが欲しい。昨日シェリルの子を抱かせてもらってから、その思いが頭から離れない。

 一人の人間として、女として、自分の血を引いたあの温かい命をこの腕に抱き、シェリルのようにその子の成長を心の底から愛おしむような、そんな人生を送ってみたい。

 けれど、ハインド・ローウェルという、この冷淡な天才の傍らにいて、その夢が叶う日は来るのだろうか。


 彼と別れ、すべてを清算して、私の国へ戻るか。それとも、新しい道を探すべきか。

 机に飾られた、茜色に輝く魔石の輝きを眺めながら、私は、ハインドの妻としての冷めた日常と、自分の未来の選択について、静かに、深く、迷い続けていた。


 数式の紙をめくる乾いた音だけが、静まり返った書斎に、いつまでも虚しく響いていた。





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